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1. 遠い道のり/詩って何?    ***クリックで開きます '04/11/25
'詩とは何か'を問うのは、'人生とは何か'を問うのと同様に、 本当は、問う事自体が無益な問い、だとは思う。正答などないのが端から解っているのだから。 '解の見込みのない問いを問うてはいけない'というのは、観念の不毛に陥らない為の生活の叡智だと思うが、 生活をはみ出して言葉をいじくる者としては、それでもやはり問わざるを得ない。
2. 言葉の始原から 書き直し '06/07/23

言葉という不思議なものは、人間であることの定義に関わって、 人間社会の目も眩む進展の基礎をなしていると同時に、人間存在の矛盾の根源でもあると言える。

'ことば'を最もプリミティブに限りなく比喩的にすれば、植物やアメーバ―においてすら微量物質の放出により'ことば'的伝達をしていると言えるが、動物行動学が様々な生き物において充分'ことば'と呼び得るものが存在する事を推定してきたように、'ことば'を人間のみが行使する専売特許として観ずに、即ち'神の似姿'ゆえに人間のみに分有された能力というような、今日では明らかな、西洋社会が長らく培ってきた暗黙の人間至上主義の偏向を拝借せずに、'ことば'を生物進化の不可逆的な生成変化の連関過程の中に据えて考えれば、生命の選択的反射活動から、長い時を経て、多様な生存形態の競合と激変する自然環境への適応選択によって、ある系統の生物がある環境の元で、徐々に進展(変形)させてきたそれぞれの生存を助ける方法と見なすことができ、その重畳された展開として社会を形づくる集団的動物の'ことば'が、人間の言葉に直通するものとして浮上してくる。

集団化することで結果的に種を維持するようになった動物においては、さらに集団内で成員相互の意思疎通を図れることが結果的にその集団をより有利に存続させることに繋がり、長い間の存続の過程で、初めは生得的な反射的信号のようなものから次第に多様な状況に対応する'ことば'が発達し、遺伝的に強く規制された本能的集団から、学習によって継承される固有の文化を持った社会を形づくる集団へと変成してゆく、と考えられる。この過程は、動物社会と初期の人類社会とでさして違いはなかっただろうと思われる。人間もれっきとした生物の一員である事を鑑みれば、人間の言葉も、ある種の生物に'ことば'の発生を促す共通の基盤の上に成り立っている、と考えるのが順当だろう。その意味で人間の言葉も、'ことば'は社会を必須とする種の存続のために産み出され、社会の必要によって淘汰される、という'ことば'の本来的性格を潜在的に引き継いでいるのを、言葉を自分のものと勘違いしない為に、忘れてはならないように思う。

ただ人間の言葉は、動物の'ことば'と決定的に違う、更なる過程を結果的に経ることになったようだ。 決定的な違いは、動物の場合はあくまで、'ことば'と自然的事象とが融合していると考えられるのに対し、人間の場合は、'ことば'と融合した自然的事象を、自然的事象の現前なしに、'言葉'として(相同のイメージとして)抽象できるようになった、ということだろうと思う。

'言葉'の発生を人類進化の過程に当てはめて考える際に特に重要と思われるのは、脳容量の増大とそのことが可能にしたであろう脳構造の変容であると思われる。その生物学的進化メカニズムはまだほとんど明らかではないので、様々な進化研究の報告から妄想を巡らせる他ないが、およそ500万年前ごろ類人猿から初期人類へと独自な進化の枝分かれをきたすことになった主因ともくされる、生存環境の激変(食料と外敵からの防護を提供してきた熱帯林の草原化)に伴って増大する自然環境圧に対する適応としての直立二足歩行と、(おそらく外敵から身を守るために)比較的より大きな集団化が、その後の人類の生存生活の形態に波及的な変化をもたらし、そのことが、引き続く寒冷化などの外的な自然環境圧とはまた別の、集団の生存形態の自立的変化自体が成員にかかる内部環境圧とでも言うべき付加圧を生み出して、生存形態を可能的に支える身体機能、身体機能を可能的に支える脳機能、それぞれが連関する相互作用的な、ある範囲の環境圧の変化に対応できる可塑的な安定度が狭まり、様々な人類集団に、生物進化時間からすれば驚くべき短さで、おそらく遺伝プログラムの改変を必要とする身体の変容を次々にもたらし、その中から後続の内外の環境圧に淘汰的に適応した遺伝プログラムの変異を伝えた集団において、脳の構造の変容を結果した、ということだろうか?

直立二足歩行がどのような環境圧に対する適応であったのか?については、大規模な地殻変動(造山活動)による気候変動がもたらした生息域の乾燥化によって、類人猿の生存環境であった豊富な果物などの食料を提供してきた熱帯雨林が疎らになってゆくにつれ、存続を脅かされた幾つもの集団が従来の生存環境の森を求めて、長い時を経て草原地帯の移動を繰り返すうちに、直立二足歩行をする集団が生き残る事ができた、とされる従来のサバンナ説や、サバンナでの生存には有利とはいえない直立二足歩行や無毛身体は、地殻変動で水辺に取り残された類人猿が半水中生活に適応したもので、その後サバンナに進出したとする新しいアクア説、その他、樹上で既に直立二足歩行をしていたとするものなど、いろいろ意見が分かれるようである。いずれにせよ'言葉'の発生の条件を用意したのは、直立二足歩行を直接−間接の要因とする互いに相乗的な脳の拡大と、サバンナでのより大きな集団化による社会の複雑化であったと思われる。進化研究を寄せ集めた妄想の相互連関を記述すると込み入ってしまうので箇条書きにすると、

  • なぜ脳の増大が引き起こされたか?に進化論は答えてくれないが、どこかで脳の増大をもたらす遺伝プログラムの変異が生じたか、あるいは元々潜在していた。(ひょっとすると、大きくなるのが生命器官の元々のプログラムで、環境的制約か後からの抑制プログラムかが働いているんじゃないか?なんて素人的な空想に誘われる)

  • 四足のままでは重たい脳を支えられないらしいことから、直立二足歩行が脳の増大に対する重力的制約を緩和する大きな一助になったようだ。

  • 手の使用によって、乏しい食料環境を生き抜く為の肉食(初めは肉食動物の食べ残しの骨肉などを漁る骨髄食だったらしい)への移行が促進され、脳の増大に必要な高タンパク源の摂取につながった。

  • 手の使用が容易にする火の使用が、外敵がうろつく地帯で食料を求める肉食への移行を促進し、加熱食料による顎の筋肉の退化(それによって頭蓋骨を押し広げることが可能になったらしい)が、脳の増大に対する骨格的制約を取り払う要因となった。

  • 肉食への移行は、手指を積極的に新しい用途で使う事を促し、脳機能を向上させて脳を増大させ、それがより手指の自在さを可能にして、複雑な道具の使用や制作に結びつき、それがさらなる脳機能の向上と脳の増大をもたらすという、身体機能と脳のスパイラル的変容を生み出した。

  • 肉食獣から身を守るために、サバンナでは集団を大きくする必要があり(単細胞生命の多細胞化に由来する生命原則なのでは?)、集団を維持するための食料獲得への努力が、成員相互の意思疎通を大きく促し、脳機能を向上させて脳を増大させ、それがより高度な計画や協働を必要とする集団的狩猟や道具制作を可能にして、より大きな集団の維持につながると同時に、さらなる脳機能の向上と脳の増大をもたらすという、集団社会と脳のスパイラル的変容を生み出した。

様々な化石資料とそれらの研究が示してくれる、初期人類の様々な消長を経ながら長い時を隔てて現生人類に至る過程で、厳しい環境に適応しようと生存生活の形態をそれぞれに変形させてゆくのと平行して、それを可能にする身体機能の変容や、それらと相乗的な脳容量の著しい増大(=脳構造の変容)を自らにもたらしながら、様々な内的外的な条件が複合したある臨界的な段階で、どういう契機か定かではないが、'ことば'から'言葉'への発生が促されたものと思われる。

言葉という現象が、感覚器官の受動的な認識機能ばかりではなく、舌や唇などを動かす運動機能、何よりも外界に対する強い能動的意志など、それらを可能にする高度な脳の機能を必要とすることから考えてみれば、脳の拡大−構造の変容と言葉の発生が密接に関係していただろうことは、年代が下るごとに脳容量が増大する人類種の化石資料とそれらの研究からの類推を加えれば、まず間違いないんじゃないかと思われる。もちろんそれらは、外部環境との対応に迫られて発達した生存生活の、内部環境的な社会的要請と相乗的であったに違いない。

近年注目を集めた、現生人類にしか現れていないという喉の構造の変成(喉仏=発声器の深い位置への沈み込みとよく共鳴する気道の伸長湾曲;一説では直立させた脊椎が重い脳を支える為にS字状に曲がることに起因するらしい。アクア説では水中で息を貯めるために湾曲が発達したとされる)は、多様な自然的事象の現前に対応した多様な発声を可能にし、動物段階の漠然とした'ことば'を連続的に超える、前'言葉'的状態を充分予想させる。

さらに指差すことなども、手指を繊細に動かす機能ばかりでなく、それが単なる空中に突き出された相手の指ではなく、自他の空間的な布置の認識とその離隔を超えた強い把捉の意志機能を必要とし、動物段階の'ことば'あるいは前'言葉'の対象を、より限定的に固定化する(言葉的に分節化する)契機の一つになったろうと思われる。

近年の脳科学や認知科学などの目覚しい進展は、人間の意識や意識と言葉との関わりを考える上で、大きな示唆を与えてくれる。 脳科学は、脳の様々な機能と、それらに対応する部位が形態的に局在して分布することを明らかにしてきたが、それらの知見は、構造の変容を伴いながら拡大してきた脳の進化の過程や、様々な機能が連合することで可能となる、声、像、意識にまたがる言葉の不思議な諸相を、あたかも神経回路の連結のパノラマとして見せてくれるような気がする。

生物が発達させてきた脳という複雑な臓器の基本機能は、外界に対する受動的な知覚回路と能動的な運動回路の情報の橋渡しであると思われるが、その過程は、電気信号の断続や強弱や遅速によって、それぞれに特異的に反応したりしなかったりする神経細胞(ニューロン)の膨大な枝先(索軸)から、化学物質の放出の有無をスイッチとして、複雑に分岐したり連合したりするニューロンネットワークを形づくり、一つの電気信号(入力)が一方向的に分岐してゆく特定の連続した発火(反応)パターンが、ある情報価として出力されるようである。なかなか実感的には解かりにくいが、コンピューターの入力側の、プラス−マイナスのある範囲を指標として振り分けられた単純なデジタル電気信号が、無限の桁数に拡張できるデジタル数字として置き換えられることによって、出力側では、現象としては同じ電気信号の出力ではあっても、出力装置にとって有意味的に別の形に変換できる無数の情報価が付加された信号として出力される、というのをイメージすればいいかもしれない。何たってコンピューターは脳機能そのものの類比的な外化と言っても間違いないのだから。であれば、原形的意識であると思われる知覚は、さしずめ脳自身のモニターということになろうか? もっともそれは、モニターを見る意識のような統合的な座は脳のどこにあるか? というやっかいな問題を引き起こすらしいが。

ともあれ脳は、基本的には外界からの刺激(知覚器官の一次入力)を、謂わば情報変換して他の領域に出力していると言える。人間の外界認識の基盤でもある視覚を例に見てみれば、知覚回路である視覚野は、他の生物と多く共通する基本構造を維持しながら、その上に被さるように新しい機能の層を何層にも重ね、当初の網膜上の入力刺激が様々な発火パターンに振り分けられて数次の視覚野を通過する内に、それぞれに特異的にしか有意味にならない(方向や色や輪郭などなどとして結果するばらばらな)情報価を付加された信号興奮(発火パターン)が統合されることで、その一つの出力として視覚が作られているようである。これは、外界の知覚が構成されたイメージであることを示しており、従来ややもすると、知覚が外界を一対応で映す鏡のように思いなされてきたことから、その鏡像との対応で暗黙に想定されてしまう、何となくたった一つの客観的な外界というような、現実という言葉のイメージ(概念+アルファ)の変更を迫るかもしれない。

ともあれ、言葉に関せば、脳内では、謂わば初めから断片である情報しか行き交ってない、というのが重要であると思われる。これは、ニューロンが繋がりさえすればどのような断片でも結びつくことができる、ということを表わしている。
おそらく最初期の言葉は、自分たちの生存に関わる自然物を名付けることであったろうと想像されるが、その様な原形的な言葉には、必ず声と像イメージが結び付いていたと考えられる。ところが、音と像の情報を処理する神経回路はそれぞれ異なった方法の処理を行なうので、聴覚情報は視覚回路では無意味であり、また逆も同じになる。特化された神経回路の情報どうしが相互に有意味的に連結されるためには、また別の統合回路や情報変換が必要とされる。
それは、人間活動の新たな機能の要請による脳の拡大に伴って、従来の機能構造との整合的な神経回路の構造再編の余剰として滲出した、行き場を失った橋渡しニューロンの謂わばシナプスの混線の試行錯誤によって結果的にもたらされたのではないだろうか? と思われる。
おそらく他の動物もそれぞれの統合的な回路と方法を持っているだろうことは疑いなく、それは動物も'ことばしている'というのと同じことだと思う。

それぞれに特異的な情報価しか持たない、聴覚野で統合されるしか有意味にならない聴覚断片情報と、視覚野で統合されるしか有意味にならない視覚断片情報とが、同一次元で連結される(相互変換できる)ためには、それぞれを内容として含みながらメタレベルで形式化(対象化)されるプロトコル変換のような、脳神経的には特異的な入力経路を変換情報として解釈する新たな統合回路が必要とされる。それが言語野であろう。この情報変換(プロトコル変換)をさらにコンピューターに重ねて比喩的に言えば、各出力装置に特化されたそれぞれ異なる情報ファイルを、入れ子状にさらに対象化して一元化するイメージファイルのように、視覚イメージ聴覚イメージをさらにメタレベルでイメージ化することで一元的互換性を獲得していると言えないだろうか?

知覚が、視覚的ニュアンスが強いがイメージという言葉を比喩的に使って、脳内で構成されたイメージであると言えるなら、それらを構成する系統の違う断片イメージ同士がさらに統合された言語は、イメージのイメージ化と言ってもいいのではないか? 原形的な言葉には必ず付随すると実感される声と像にしても、言葉の像イメージと視覚像とは明確に違いながらどこか繋がっているような感覚は消せないし、言葉の声と声音(聴覚音)とも同様である。
言葉の声と声音(聴覚音)を考えれば、発声音の音としての聴覚情報(イメージ)が、言葉の音(音韻イメージ)としてさらにイメージ化(再構成)されないと、例えば男声の'あ'と女声の'あ'などは音として聞いていたのでは音程も音質も違う全く別物になってしまうはずである。

言語の生成を脳の器官と絡めて比喩的に大胆に妄想すれば、視覚野で視覚イメージの一部を結果するある断片情報と聴覚野で聴覚イメージの一部を結果するある断片情報とが、繰り返し衝突を起こすことである特異的な入力経路が形づくられ(器官的には、類似視覚パターン、類似聴覚パターンを記憶する近接領域で、視聴覚それぞれのパターン回路が同時に発火することでニューロン結合を強めるのだろうか?)その結節部分で、ある特定の対応的な視聴覚イメージの両方を内包するメタ情報断片記憶が蓄積され(器官的には、様々なパターン回路の発火パターンを記憶するパターン回路が形成されるのだろうか?)結節部が固定的に強化されることによって、それを逆さまな目線で言語野と呼ぶわけだろうが、言語野では、そもそもの特異的な入力経路を経たどちらの一方の入力に対しても、蓄積されたメタ情報断片記憶と対応付けられ、入力イメージを引き金とした視聴覚イメージ両方を内包する、言語イメージを結果する統合情報として出力されるようになったのではないか? と、インターネットのアドレス変換などから類推して考えられる。

以上のようなほとんど妄想に近い考察は、それでも、言葉にまつわる不思議な諸相をよく説明してくれるように自分では思う。視覚入力の文字を読み書きしたり、あるいは、ただ考えようとすると、なぜいつも頭の中だけの声音の様なものが付随するのか? 聴覚入力の音声や文字に時折なぜ視覚イメージの様なものが喚起されるのか? 聴覚や視覚などの知覚に注意を奪われているとなぜ言葉(言語意識)が消えてしまうのか? 等々。そして、音声の言語にとって文字は、必要とされれば人類に共通的に発生することが何となく納得できる。

左脳と右脳の機能的な違いは、これまで様々に喧伝されてきたが、人が言葉を発する時、言語を組み立てる左脳と感情を作り出す右脳が同時に働き、初めて抑揚のある言葉となることが知られている。それは、不幸な脳の欠損や伝達物質の障害によって明らかになったことだが、左脳だけで作られた言葉は意味はあるが感情がこもらず、右脳だけの場合、意味を持つ言葉にはならないが、ある意志や感情を表わそうとする声や身振り手振りとなる、ということだ。さらに、言語野は産まれた時から有るのではなく、小児の成長段階で形成されてくるという。

これらのことは、言語以前の意識というものの存在を充分に証している。左右対称性が基本構造であるかに見える生物の自然な形態感に反して、言葉の認識に関わるヴェルニッケ野と発語に関わるブローカー野の二つの言語野が、二つとも左脳にあるのはなぜか奇妙な感じがする。近代以降の人間の意識が、ほとんど言語意識と等価と見紛うほどであるのは、言語野が推量構築的な左脳に集中しているせいだろうか? 言語以前の意識という考えてみれば当たり前な事を、わざわざ言語野を傷害して通常の言葉を失った人の人間態に驚かされて改めて気付かされるのも、西洋近代の洗礼を受けた私達の意識が、いかに言葉に覆われているかを示している。そしてそれは、声と事物の像のイメージが生き生きと緊密に結びついた言葉の原初的形態が、像イメージを喚起しない概念的言葉に覆われてゆく過程、すなわち成長化−文明化を表わしている。

'ことば'から'言葉'への発生過程を、乱雑な憶測ながら、もう少し状況的に妄想すると、 自然的事象が現前しなければ有節音(何かを示めす意味を担った声音)を発っすることのなかった反射的意識レベルから、逆に言うと、有節音を発すれば即応して自然的事象と相同のものとしての即時イメージが喚起された'ことば'的意識レベルから、徐々に、様々な自然的事象の現前に対応する多様な発声を有節的に使い分けられるようになってゆく過程で、有節音の多様化に伴い、ある有節音とその即時イメージとの即応的結びつきが揺らいで、反射的意識に'とまどい'あるいは'遅れ'の様な'滞留'が生じ、有節音とそれが指し示すものとの間の結びつきの、意識の共同的な'溜まり'に'ずれ'の様なものが蓄積されるようになると(前'言葉'的状態)、次第に、自然的事象と相同のものとして一体化していた有節音の'結びつき'(即時イメージ)が'ずれ'(対象イメージ)として剥離すると伴に、有節音自体もイメージとして析出され、ついには自然的事象の現前なしに有節音(音韻イメージ)を発しただけで、自然―発声の受身形から発声―自然の能動形に謂はば転倒した形で、自然的事象を対象イメージとして、つまり言葉として共通的に喚起できるようになった、と考えられる。

もっと空想を逞しくすれば、初めは誰かの、対象との空間的離隔の布置の中で、おそらく指を差しながら発せられた有節音を、聞く者は、既に個々の成員の意識に蓄積された共同的な'溜まり'によって、それが空中に差し出された指ではなく、何を指し示すかがあたかも自分が対象を手に取るかのように(即時イメージとして)了解されていたものが、指し示す有節音が増えるに従い、誰もが了解の遅れによって有節音と即時イメージの'ずれ'を経験するようになると、有節音を有節音のイメージとして即時イメージを即時イメージのイメージとして、おぼろげながら分離されて共同的な意識の'溜まり'に蓄積されるようになり、やがて誰かが、対応する事象の現前しない場所で、おそらく仕草や絵などを交えて有節音を発っした時、聞く者は、初めその(イメージの)有節音が何を指示するか解からず、その様な場面が繰り返されるうちに、その有節音(音韻イメージ)と結びつく即時イメージのイメージを探り当て、その有節音(イメージ)が何を指し示すかがあたかも即時イメージを現前するかのように(対象イメージとして)了解され、その有節音を躍り上がらんばかりに何度も真似たに違いない。その時のお互いの喜びはいかばかりだったろう、と想像される。
おそらく言葉の初源には、指示する音声(記号)と指示される自然的事象(対象)とその相同のイメージ(対象イメージ)、それらを互いに了解し合えることと(意味)、さらに忘れてならないのは、了解し合えた喜び(世界の共有)が分かち難く張り付いていた、と思われる。
言葉の意味が単なる概念(あるいは認識的イデア)ではなく、不断の了解の交換から対象イメージに送り返された集合的塑像であることに留意が必要なのではないか?

いったん発現すると、言葉は飛躍的に増えていったに違いない。同時にそれは内的環境の増大圧力となって、さらなる脳の拡大と構造の変容をもたらしたと思われる。そして長い間の共同化の使用と拡張が進むに連れ、言葉で視覚的イメージを喚起する自然的事象のみならず、より象徴的−記号的に、目では見えない物事の様々な事態を、視覚的イメージを必要としない関係概念イメージや抽象概念イメージを介して自他に指し示すことができるようになったと考えられる。このことは集団の存続にとって非常に有利に働いたはずだ。例えば、獲物が現れる前に共同的に策を練ったり、個的な成功−失敗の経験をその場にいなかった他の成員にも伝えることができただろうから。これは現在を自他共に対象化し得ることで、過去、未来を漠然と産み出すことに繋がり、技術―文化の社会的継承を飛躍的に容易にする。

ともあれ、他の生き物は'ことば'を使用しても自然的事象と分離することなく自然と融即しているが、唯一人間だけは、言葉を獲得する事で自然的事象を対象イメージとしてより自在に意識に取り込め、繁栄の礎を得た代わりに、逆に言葉の対象化作用が意識に浸潤して、言葉の対象イメージのフィルターを通してしか自然的事象に近接できず、言葉が融即的自然状態から対象イメージが剥がれて発生したように、人間は謂わば自然から引き剥がされることとなった。自然と融即した生物の存在構造が偶然にか必然にか産み出したにも拘らず、非自然的様態として析出された言葉を持つことによって、人類はこのとき初めて、生物の融即的な存在構造を遺留しながら、しかし最早もとの自然的存在様態ではありえない人間的自然様態として、自然的な融即意識の反映である謂わば身体意識と、対象指示的な言葉による意識との二重化された意識を持つことになり、内部で自然と非自然に引き裂かれる矛盾を抱えた人間という存在になる。この矛盾の裂け目にこそ、表現と名付けられるものの産み出される淵源が横たわっているように、私には思われてならない。

他の生物と相同の自然的存在様態は、体内感覚的な融即意識と知覚器官による体外環境的な融即意識の融合したものと考えられるので、対象化作用を本質とする言語的意識は、それぞれに対象化の眼差しを向けることで、体内的な自己意識と体外的な自他意識を析出してゆくと伴に、謂わばその反作用として言語的に対象化できない融即意識の残余を、非言語的もしくは前言語的な身体意識として顕在化させると思われる。そして言語的意識が拡大するにつれて、未分化であった他者と自己が、外界を眼差す自他意識の視界に眼差を眼差し返す視線(自己を眼差す他者)として現れ、反作用で析出された他者に眼差される自己が、内界を眼差す自己意識の視界に他者の視線として侵入することになる。こうして人間意識は、擬似自然的な身体意識と言語的な対自意識-対他意識に、謂わば三重化されることになる。

'身体意識'というのは私の勝手な造語なので、説明が必要だと思う。
'感覚に注意を向けると言葉が消える'ということからして、人間の脳機能には言語意識化するという何らかのスイッチが備わったと思われる。身体意識は、言葉を獲得することによって変成した人間の存在的自然、言語意識のスイッチを入れる前の状態とでも言えばいいだろうか。大脳新皮質は、身体の内外の状態を不随意的臓器としてモニターしている訳だが、同時に言語という随意的機能を持ってしまったために、モニターの反映として浮かび上がる意識感覚は、自己という言語機制が付着して、自分が感じてしまう痛さ、自分が感じてしまう嬉しさというような、不随意的な自己意識として浮かび上がり、平行して随意的な言語意識化を要請する非言語的グレーゾーンとして感覚領域に意識される。こんぐらかった言い方だが、そのような宙ぶらりんな意識あるいは感覚を、'身体意識'と見なしたい。

言葉を無声の共同的な約定としての側面で捉えれば、もし何事かを言葉を用いて示そうとすると、対象指示的な言語意識を、常に自らの人間的擬似自然である身体意識で有声的に構成する必要があり、共同的な約定としての言葉に従いながら独自の身体的なアクセントや振りを付けた表現として表わされる。また多くの場合、言葉の共同的な約定の故に、自らの擬似自然的な身体意識と約定的な概念イメージとの間で'ずれ-異和'を生じる。この'ずれ-異和'を暗黙の内に無視することができないほど意識の内圧が高まり、且つ発語(自他との交流)を欲すれば、共同的な約定を使いながら独自のねじりや付加がおこなわれ、そこに共同的な約定をはみだす新たな言語的な表現が起こる。もし独自な表現が受け手に共感され多くの共同性を獲得すれば、他の成員にとっても近似する'ずれ-異和'を解消したり表わしたりする新たな表現として使われ、やがて共同的な約定の中に繰り入れられる。
だとすれば言語表現は、自らの存在的な自然様態と現象的な非自然的様態との乖離を埋めようとする志向、と言えるのではないだろうか。そしてそれは、擬似自然的な身体意識と言語的な意識との異和の形をとって意識内で即時的におこなわれながら、声や文字として現象する。

2sub.身体意識について ADD'06/06/24


しばしば、精神と肉体という言い方で人間の説明がなされる。また、心と身体という言い方でも。では、精神=心なのだろうか? 東洋的なニュアンスでは精神は魂に近く、精神=心 としてもあまり違和感は生じないが、精神と肉体という言い方は普通しない。一方、西洋的なニュアンスでは、心のほうが精神より含意が広い気がする。その場合の精神とは、西洋思想に伝統的な、理性とか悟性とか、対象を合理的に理解しようとする能動性、いわゆる合理的精神の意味合いが強く含まれている。だから、西洋的なニュアンスでしか普通使わない精神と肉体という言い方は、人間の説明としては実は不足している。にもかかわらず、その様な言い方がされてしまうのは、東洋的なニュアンスが知らぬ間に忍び込んでくるからだろう。このように、私達の日常使う、精神や心や魂という日本語は、混濁をきわめている。

そこで、意識という言葉を使う。では、意識=心 になるかというと、とてもそうはならない。意識は心を構成しているが、心のほうが意識より含意が広いのは明らかである。これは先の、心のほうが精神より含意が広い、というのと相似形をなしている。では、意識=精神(西洋的な)だろうか? 意識のほうが精神(西洋的な)より含意が広い気がする。受動的な意識もあるからである。

意識を分けて考える必要がある。先の西洋的な精神に通じる能動的な意識の特徴は、対象への構成的な志向にある。虚心に観れば、それは多くの場合、言葉によって担われていることに気付く。対象への能動性を形づくると思われる意欲とか欲望とかは、何ら言語的でも構成的でもない。また、言葉自体に能動性がある訳でもない。ただ言葉には、過去に積み上げられた、人間の対象への能動性による、あるものを他のものから分別しようとする対象化作用の、その結果として獲得された共同意識が封印されている。したがって言葉には、他の言葉(分別)との構成的な配置が必ず刻印されている。言葉を獲得して以後、対象への能動性は、言葉を媒介にすることで初めて、構成的な能動性として、すなわち言語意識として意識そのものから分離される。言い換えれば、意識が獲得した言葉によって、精神が言語意識として意識から切り出される、と言えるのではないだろうか? トートロジーになってしまうが、西洋的な精神イコール言語意識そのものであると。当然それは、対象への眼差しの違いによって、対他意識と対自意識の二つに分かれる。ただ、私達の意識の成長過程から類推すれば、対自意識は他者に眼差し返されることによって、他者の視線をも意識に内化する形で、自己を擬似的に対象化することで生じてくる言語意識ではないか?と思う。

人は他人の意識はもてないので、自己意識はイコール意識と言っていいかもしれないが、際どい推定をすれば、意識から言語意識が分離し、さらに対自意識が生じてくるに連れて、言語意識が対象として言語的に捉えられない意識領域が、いわばゲシュタルト図形の地のように逆照されて自覚化され、意識全体が自己意識として意識されるようになったと言えないだろうか? 言語的な対自意識によって、本来無自覚であった意識が、理解という固定化が及ぶ領域と及ばない領域として対象化され、意識の全体が自己意識として顕在化すると。過剰な対自意識の自己解釈への眼差しは、言語的な理解をはみだす感情とか気分とかの感覚意識をも対象的に捉えようとして言語的構成を試みようとする。いわゆる近代的自我というやつであろうか。結果として、感覚領域さえも言語的侵入を受け、感覚意識は何らかの言語的変形をこうむると思われる。

なぜ意識のある領域は言葉で捉えられないのだろうか? 生物の意識の来歴からすれば、意識は、知覚入力に対する運動出力のフィードバック、いわば脳のモニターであったはずで、常に、場(身体の内外環境)に密着した反応的意識が本来的といえる。言葉は、必ず個別的に現象する反応的意識を、場との密着から引き剥がして共同的イメージ(抽象)に変換することで成り立つので、言語意識は、それが働く時、一見どんなに場に密着して行使されているように見えても、言語意識自体は場から遊離した抽象空間の中にあり、そこで初めて対他的な対象化が可能になると思われる。したがって、言語意識を働かせている自己意識は、自己意識自体の場に密着した反応的意識を言語意識では捉えることができない。まあ、土俵が違うということでしょうか?

私はこの、言語意識とは土俵が違う、自己意識の場に密着した反応的意識を、身体意識と勝手に名付けている。そうすると、自己意識は身体意識と言語意識で構成され、感情とか気分とかは身体意識ということになる。さて、感情とか気分とかは、心に属すことは間違いないにしても、より限定的に身体に属するだろうか? それらは一見、心から自発してくるように思われるが、注意して観れば、たいがい何かのきっかけがあって、自他の何んらかの場的な事象に対する、身体の知覚過程を経た反応として生じているように思われる。知覚入力を遮断されると感情がなくなってゆくというような実験結果も示されているので、それらを身体意識と呼んでも差し支えないのではないか?

身体意識は、生物に本来的な無自覚な意識と同じとは言えない。自己意識としての、言語意識からの対象化を受けて、不断の言語的な侵入を被っているだろうと思われる。そうした意味で、身体意識は意識であって、当然、心の一部を構成する。ただこれは、心と身体という言い方とは相性が悪い。心の含意に身体が入り込んでしまうからだ。しかし、心と身体という言い方がデカルト的二元論に色濃く影響された見方であるとすれば、身体意識という言い方は、長らくの捻れた心身問題をいくばくかでも解きほぐす、有意味な概念にならないだろうか?

身体意識と言語意識は、自己意識として、通常同時に働いていると思われる。身体意識が対象への直接的な反応を返す時、自己意識は感情や身体動作の暴発となって現れ、構成的な言語意識は痕跡としてしか働かず、意味不明な言葉が同時に出現したりする。逆に西洋的理性は、身体意識を極力抑えて、あたかも言語意識のみに自己意識を擬定する意識ではないだろうか? 身体意識をゼロに仮構した時、デカルト的我(われ)が出現する。しかし、身体意識がなくなる訳ではないので、言語意識との相互作用を無視することになり、そこから様々な問題が生ずることになる。通常は、身体意識は言語意識のバックグランドとして、言語意識による表出を様々な形で修飾したり、言語意識に身体的仕草を伴わせたりしている、と考えられる。

さて、先に、心のほうが意識より含意が広いと述べた。これまでに、意識は身体意識と言語意識で構成される、と一応は説明できた。では、心から意識を差っ引いた残余とは何を示すだろうか? それこそ魂と呼び慣わされる言い方なのかもしれない。ただ魂という語は、東洋的な実在的なニュアンスや西洋的な神の分与をくっ付けていて、使う人によって含意が混濁するし、どうも私の趣味に合わない。他に言い換えはできないもんだろうか?

心の現象としての魂とは何だろうか? とても何かは言えないが、少なくとも場に密着した反応というより、もっと存在の根っこから自発してくるものと思われる。無意識の発現と言っていいだろうか? ただ、フロイト的な無意識ばかりでなく、ユング的な無意識でさえ、現今の脳科学などの研究の進展によってかなり怪しくなってきているらしい。とはいっても、無意識という概念の存立は少しも否定されたわけではなく、心を現象するとみられる大元の脳内の情報処理の大半は意識にのぼらない。であるなら、脳という、身体と身体を取り巻く環境とを比喩的に意識する、無意識器官から内発的に立ち昇ってくる意識の大元として、心の現象としての魂は考えられないだろうか?

魂を含んだ心が、無自覚−半無自覚領域をも含んだ何らかの意識作用であるとすれば、脳の、いわば身体の記憶(無意識)と身体の現在との参照-照合として、自覚的な言語意識を促したり、場的な知覚入力に対する反応の原基として半無自覚的な身体意識となって顕在化するのではないだろうか?
脳という、無意識の身体記憶でありつつ現在意識作用である、身体でありつつ意識である人間の不思議な器官の働きを、場的(現在的)な反応意識に限定した先の身体意識の概念を拡張して、内発する身体の無意識を含めた形で、無自覚から半無自覚領域をまたぐ身体意識として考えることはできないだろうか?
先述の自己意識における場的な身体意識の働きが、拡張した身体意識の代入によっても矛盾しなければ、トリッキーかもしれないが、拡張は許されるように思う。矛盾は引き起こさないようなので、個体的なニュアンスを持つ'心'からはみ出してしまうように私には印象される'魂'から、言語意識を取り除いた残りすべてを身体意識として、心は魂を含んで、言語意識と身体意識とで構成される、と、ともかくも説明できるのではないだろうか? その場合、当然、身体意識は自己意識からはみ出す。

言語によるばかりでなく、表現は心や魂と密接な繋がりをもつ。しかるにそれらの言葉は、表現の機微を解明するにはあまりにも漠然とし過ぎて捉えどころがない。心や魂を言い換える、このような奇矯な論及に至る所以である。


3.「言語にとって美とは何か」を巡って (1) '04/12/07


先の、言葉の始原を推定するというような無謀な試みは、言語及び言語表現に関わる重要な著作であるにも拘らず、ソシュール言語論に席巻されたかにみえる今では無視されている感のある、吉本隆明氏の「言語にとって美とは何か」導入部の次のような記述に多くを負っている。

たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを<う>なら<う>と発するはずである。また、'さわり'の段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はある'さわり'をおぼえ<う>なら<う>という有節音を発するだろう。このとき<う>という有節音は海を器官が視覚的に反映したことに対する反映的な指示音声であるが、この指示音声のなかに意識の'さわり'がこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば<海(う)>という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を'直接的にではなく象徴的'(記号的)に指示することとなる。このとき、<海(う)>という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。

吉本氏はここで、単なる空想的な想像を語っているのではなく、氏独自の原理的確信に基づいて想像的に語っている。確証され得ない論述を冷笑しながら西洋の原理的考察には無原則に寛容な従来の知的風土の中で、吉本氏の考察はいくら賞賛してもし足りない蛮勇ともいえる快挙だったと思う。

ただ私は、ここで言葉の本質に関わる何か重要なものが欠けているように素朴に思う。私に記述の変更が許されるなら、狩猟人の隣にもう一人の狩猟人を配するだろう。氏の記述は発語の生成を語っているが、発語を促す契機にはどうしても相手がいる。そして、意識の'さわり'の共同性がなければ、特定の有節音が特定の対象イメージに収斂してゆく契機も失われる。言葉としての条件にはそれら有節音と対象イメージの結びつきの共同性が不可欠であり、言葉の共同性は本質的であるといっても過言ではないと思う。私たちは相手を必要としない語りかけに慣れてしまっているので見落としかねないが、それは言葉の成立がもたらした、私流に言うと'三重化した意識'の中で語りかける自己(相手)を仮想できるようになったからで、語りかける相手の想定なしにどんな発語も生まれない。

私が言葉の共同性というとき、言語が形式的規範性として働くことで自他の間の現実的な意図の橋渡しを保障するということと、発語(表現)には自他との交流(コミュニケーション)を希求する発語者の受け手の想定が不可欠、という二つのことを意味している。吉本氏が言葉の共同性を無視している訳ではもちろんない。上記に続いて

こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、自己を含みながら自己に対する存在となりそのことによって他にたいする存在となる。反対に、他のための存在であることによって自己にたいする存在となり、それは自己自体をはらむといってもよい。なぜならば、他のための存在という面で言語の本質が拡張されることによって交通の手段、生活のための語り言葉や記号論理は発達してきたし、自己にたいする存在という面で言語の本質を拡張したとき言語の芸術(文学)が発生したからである。

これは、言葉をもった人間の自己意識の幻想性(氏の独特の用語なので詳しくは次回で後述)の特徴を語っているところだが、言語の共同的性格を暗示しており、他の場所でも、発語主体が明示されているところでは比較的はっきり記述されている。しかしながら、氏の言語表現論の基本概念である自己表出や指示表出が言語を主語にして記述されるとき、言葉の共同性のニュアンスが消失してしまうように印象される。それは、発語の初発に他と切り離された単独者を原理的出発点として想定しているから、なのではないだろうか?

ソシュールは、発語主体の関わる'パロール'と記号体系としての'ラング'とを原理的に一貫して取り扱う困難を予想して、対象とする言語の本質を、言語の形式的規範性の側面に集中させた記号体系としての'ラング'に限定し、'パロール'を言語学の対象外に峻別しようとしたが、時枝誠記氏がソシュールに反発して、逆にあたかも'パロール'のみで言語を現象的に取り扱おうとしたように、時枝誠記氏を高く評価する吉本氏も、あたかも表現としての'パロール'だけで言語を取り扱うことが可能だと見なしたかのようにみえる。その際、時枝誠記氏とソシュールをつなぐ試みである、三浦つとむ氏の言語を物質的形式とみなす唯物論的な考察が参照され、氏の言語論に組み入れられたようだ。

三浦氏の<過程的構造をかくし持った音声や文字が言語であり、それ以外に言語は存在しない>と、
吉本氏の<表現されないかぎり言語は存在しない>「心的現象論序説」とは何と似通った宣明だろう。

三浦氏は、時枝氏の現象的な'表現過程'を'客観的な関係の実現'に置き直し、言語を主体の<超感性的な認識(普遍的概念)の感性的な形象('ラング'がもつ概念と聴覚映像の結びつき?)による実現>として捉え、主観的な表現と客観的な意味概念との矛盾を媒介するものとして、ソシュールの'ラング'を規範言語として位置付けたが、'パロール'と'ラング'を結びつける代償として、表現に先立つ'超感性的な認識'のような不可解な概念を設定せざるを得なかった。吉本氏の場合、表現以前に前提される言語はなく、ソシュールの'ラング'は入り込む余地がない。ただ、

人間が何事かをいわねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとの間に存在する千里の径庭を言語の自己表出として想定する事ができる。

というとき、あたかも言語自体がある暗黙の意志を持つような奇妙さを感じる。なぜ単純に、言語を主語にしないで'人間意識の自己表出'ではいけないのだろう?素朴に考えれば、幼児が言葉を獲得してゆく過程を見てもわかるように、言葉はまず、生存的欲求と母親との融即的な反応から母親を口真似するように姿を表し、自らの表現に先立って模倣するもの教えられるものとして立ち現れてくる。謂わば私たちは、自分のでない規範性として与えられる他人の言葉の只中に産まれてくると言える。言葉の始原を考える場合、ソシュールも<'ラング'が成立するためには、'パロール'が必要である。歴史的にみれば、つねに'パロール'事実が先立っている>と述べているように、誰かが発語(表現)しなければ始まらないという意味では吉本氏は正当である。しかし、発語を促す相手がいてしかもそれが了解されなければ言葉は成立しないという意味では、それを単に現実の与件とみなし表現との'千里の径庭'を強調して、言語の自己表出という自動的な概念のみで言語を捉えようとする吉本氏は不当といえるのではないだろうか。


4.「言語にとって美とは何か」を巡って (2) '05/01/16


吉本氏の言語論が奇妙で解かりにくいのは、基本概念である自己表出と指示表出をさしたる説明もなくいきなり頻繁に使い、しかも個々の人間の言語表現の背後に、それを促す言語自体の表出の運動のようなものが想定されているからだ。むしろ言語自体の表出の運動を論証するために言語の自己表出-指示表出という概念が考え出されたのではないかと疑念するほどだ。もちろん氏の中心的モチーフは<人間の本質力が対象的に展開された富>としての<言語にとっての美である文学>を一切の<現実的与件>、特に外在的な政治理念から文学的価値をとらえようとするマルクス主義芸術論の功利主義、から切り離して自立的に価値付けしようとする構想にあり、そのための不可欠の概念として言語の自己表出(指示表出)が考えられていることは確かだ。即ち、現実にまみれざるを得ない自己意識の表出から出発していたのでは、どんな文学(言語)論も外在的な政治理念から身をもぎ離すことはできない、というように。そこには、氏の戦争期の、深く文学を愛する文学青年でありながら、当時の政治理念(日本軍国主義)に一体化してしまった自らの精神への、苦く根本的な反省が込められている。と同時に、政治(公−社会)と文学(私−個人)の間に横たわる抜き差しならない矛盾を、深く問い正すこともせず敗戦期をやり過ごすことで戦後の政治理念(民主主義イデオロギー)に再び衣替えをしてしまった、日本マルクス主義文学者から芸術至上主義者に至るまでの、日本軍国主義を生きた旧世代の文学者達への根本的な批判が込められている。とはいえ、おそらくは再び騙されまいとする強い志向が呼び寄せたに違いない普遍的原理への信憑が、原理的一貫性への過剰な偏執ともいうべきバイアスをかけているように思えてならない。しばしば論述の晦渋を呼び込む、言語を主語として語られる理由はそのような事情によるのだろう。自己表出の初めての定義らしい定義に関して、

人間が何事かをいわねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとの間に存在する千里の径庭を言語の自己表出として想定する事ができる。この自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。言語はこのように対象にたいする指示と対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質をなしている。

なんとも解りにくい記述だが、表出されなければ言語はないと考える吉本氏は、言語本質を語る際にある時点を導入しなければならず、言語は<人間の幻想性の自己意識における現在性>を通してしか表れないが、その表出時点で言語は、対象にたいする指示(指示表出)と対象を指示する際の<意識の自動的水準の表出(自己表出)>との二重性を持つ。そして<意識の自動的水準>はその時点で<歴史的に累積された共同意識の現存性>を意味し、それを連続して保持するものとして言語の自己表出が考えられている。この著作の最終総括部分を動員して何とか解釈するとこの様になるが、どうやら言語の自己表出そのものに<人間の幻想性の共同的な性格>が暗黙の内に付与されているようである。

氏の表出概念を私なりの理解でもう少し順を追って辿ってみると次のようになる。

自己意識の現在性(即時意識)が現実的環界の必要に応じて対他的に対象を指示する際(対他意識)、自らが外化(表出)した言語は他のための存在(文字や音声による物質化)であると同時に、そのことによって(自己にとっても対象的に反作用して)、自己の意識となる(自己自体をはらむ)。逆に、対自的に自己自身を対象にする際(対自意識)、自らが外化(表出)した言語は自己(意識)を含みながら自己に対する存在(物質化)であると同時に、そのことによって、他にたいする存在となる(他にとっても物質化された対象的存在になる)。このように、現実(物質)と非現実(意識)を跨ぎ繋ぐ(物質を媒介にしながら物質性が消されて意識となる)ものとしての人間の自己意識の幻想性がまず考えられ、その表れとしての言語の特殊な性質が二重性として考えられている。

このとき、人間の自己意識の幻想性の表れとしての言語は、対自的な自己表出と対他的な指示表出の両面を合わせ持っている、と素朴に考えればこうなるはずだが、表出以前に言語を認めない吉本氏は、言語の発展的相違を共同的な形で連続的に繋ぐ約定としての'ラング'に求めることができないため、そのままではある時点の表出と次の時点の表出の発展的違いを繋げることができない。また吉本氏は、累積された表現されたもの(言語の美)から遡行的に言語の本質を追求しようとするので、つまり、言語表出から分化した表現である文学作品を言語の本質から一貫して説明しえないような言語論は用をなさないと考えられているようなので、単にある時点の人間の自己意識の表出の側面から言語を捉えることを旋回させて、表現されたものの中に人間の自己意識の幻想性の表われと言語本質が定着されていると見なし、文学作品特有の強い対自的な自己表出としての表現の側面からその時点の固有の自己意識をいわばマイナスする形で、意識の自己表出を言語の自己表出というふうに転倒させて想定することで、人間の自己意識の幻想性を含みながら尚かつ言語本質が貫かれている表出状態によって言語自体に連続性を導き入れられ、それぞれの時点の言語の発展的相違は、言語の自己表出の歴史的に累積された水準の中に解消することができる。つまり、言語の共同的性格を'ラング'に求めないならば、言語の自己表出を想定する必要があるということになる。したがって、

言語は、本質的には、このような対象指示の動因(人間の現実的な環境体験から生じる表出の必要)と、幻想的な人間(人間の幻想性)の自己意識における現在性、いいかえれば人間の幻想性の共同的な性格の表出としての動因とによってはさまれている。だから言語のもうひとつの決定因は、歴史的に累積された幻想性の共同意識の現存性である。これが自己表出の現存性の構造にほかならない。言語は対象指示性にかこまれていると同時に幻想性の表出の現在にかこまれている。

となれば、ある時点での自己意識の現在性は、その時点での現実的環界の必要に応じて対象を指示すると同時に、言語の自己表出の歴史的累積の共同的水準に押し上げられた人間の幻想性の自動意識でもあるので、それぞれの時点で言語が表出される際、必ずその時点までに累積された言語の自己表出の共同的水準が加わり、表出が自己表出的であっても指示表出的であっても、必ず累積された言語の自己表出性が自動意識として付加される、というように、転倒された自己表出概念の中に言語の連続的展開を繋ぐ共同性が既定項のように含まれることになる。 ただそのことによって、自己表出概念が言語の自己表出として語られているのか意識の自己表出として語られているのか、錯綜してしまうように思う。自己表出に関する訳の解りにくさと、その表れである言語を主語にした記述の混交は、そのようなところに起因しているのではないだろうか?

上述の宣明の後、言語を主語にした記述が頻繁にみられるようになる。 氏の定義を直載に言ってしまえば、表出において言語が現われ出ようとする志向を自己表出、その際、言語が対象を指示することで表出されることを指示表出とする、ということになると思う。したがって、自己表出と指示表出は別のことではなく、角度を変えた見え方の相違で、具体的な言語の表出相の説明では、どちらに重心を置くかで違ってくる。幾分図式的になると成分の割合の多寡というような姿勢で論述される。ただそこで、人間の自己意識(幻想性)が絡まることによってしか言語が発現されないところに、表現にこそ関心の垂鉛をおろす氏の言語論の晦渋が発生するように思う。それ故、表現に関わる多くの貴重な分析や着目点がみられるにも拘らず、しかし具体的な言語の表出相は人間意識の表出を媒介にせざるを得ず、発語主体が主語となる論述と言語自体が主語となる論述が混ぜ合わされて、そこに吉本言語論の奇妙さが発生する。そしてそれを奇妙に感じないためには、言語の自己表出という言語自体の自己運動のようなものを信じる必要がある。


5.「言語にとって美とは何か」を巡って (3) '05/02/05


先の、言語の自己表出という転倒を、もう一度別の角度から考えてみたい。 この著作の元になった「試行」での連載が始められる直前に書かれた「詩とはなにか」の小論の中では、それは本著作の構成論の第一部に重なるものだが、言語の自己表出という概念はまったくみられず、意識の自己表出でほぼ統一されており、注目すべきは、意識の自己表出に混じって自己表現という記述が散見され、意識の自己表出とほぼ同じ意味で使われている。そして、本著作の中核部分である芸術表現としての言語の考察に当たっては、自己表出を自己表現と読み換えてもさして変わらないように感じる。実際、私自身がそうであったように、そのように読まれてきたのではないだろうか?ところがこの自己表現という記述は、本著作の終わりの方の総括的部分に当たる、文学の価値にかんする定義の周辺に突飛にしか出てこない。つまり慎重に避けられているのだが、'自己表現'が人間の自己意識の対自的な自己表出と分かちがたく結びついているため、言語の自己表出という転倒の意義を失わせてしまうからだろう。憶測を重ねれば、言語自体の自己表出という着想を得て「詩とはなにか」の小論にあったモチーフを、言語芸術を包括する形で言語そのものから原理的に一貫して全面展開できたのだろう。しかし、論理が強いたバイアスも大きかったように思われる。

氏が自身述べているように、吉本言語論はマルクスの思想を下敷きにしていることは明らかである。狩猟人による言葉の始原の記述は、氏の把握によるマルクスの自然哲学である疎外概念の適用であろう。私は氏を通してしかマルクスもヘーゲルも知らないが、下記のような記述をみると、言語自体の自己運動というような観念は、ヘーゲル的なものをマルクスを通して引き継いでいるように思えてならない。

ヘーゲルの個人から全体にわたるすべてのことについて展開していった「意志論」の全体系にたいして、マルクスはたいへんな敬意を表しました。全部、考察の対象としてのこしたわけです。ただ、自己意識の発現したものがこの<世界>で、その<世界>が究極に到る絶対的具現へむかう過程が、人間の歴史のすべてなんだというヘーゲルの基本的な観点は、マルクスにいわせれば逆立ちしたものでした。つまり人間の歴史にとって基本的なのは [世界] の精神的な実現過程などではなくて、物と物あるいは自然と人間との関わりあいの発展、そこから人間だけがつくっていった社会というものの展開過程であって、観念の過程はそれにたいして第二次的なものなんだとかんがえました。 --------- 「言葉という思想」

下記の<歴史>を言語に<普遍者>を言語の自己表出に置き換えれば、吉本言語論の構えにそっくり重なる。

<歴史>をあつかうばあい、ヘーゲルはまず、― ぼくもそうですが ― <無限者><普遍者>といった理念の側から現実の方へとたどってゆきます。そして<歴史>が時代を超えて実現されていく過程は、普遍的な世界理念が実現されていく過程だとみなされています。これは、人間の現実世界での活動の積み重ねが<歴史> だという考え方と逆で、<普遍者>あるいは理念の側から人間の現実世界での活動をみていくことです。 --------- 「世界認識の方法」

ここでは、転倒の立場について語られているが、その意義については、マルクスの「資本論」の透徹した論理的な転倒への衝撃から確信されたのではないだろうか?「言葉という思想」の冒頭部で、自著(言語にとって美とは何か)の絵解き的な解説がなされており、マルクスの考察した商品の特殊な性質と言語の特性の類似性を述べ、商品が流通するさいの基本的な図式で表された W(商品)−G(お金)−W(商品)の現実的な過程が、資本的な流通過程に入ることによって G(お金)−W(商品)−G'(お金)に転化し、資本主義の根本的な衝動として G(お金)−G'(お金)の本質的な過程を疎外するという、商品を介することで G'(お金)が増えてゆく「資本論」が言及するマジック的な転倒に、言語の謂わば自然形態から芸術形態への転化をそっくり重ねて説明している。「言語にとって美とは何か」と同様、やはり奇妙さは拭えないが、氏の着想の骨格は窺がえる。おそらくそこで、氏の考え抜かれた案内による「資本論」のエッセンスと同時に、氏の言語論に引き寄せられた解釈の不思議な混交を見せられているのに違いない。

マルクスが例示する「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」と「二十エレの亜麻布は十ポンドの茶に値する」は、誰かの手になるものを求めるという人間の交換的な関与によって、それぞれ、ある物(二十エレの亜麻布)が物質的(現実的)な使用価値として価値づけられる自然形態を表わしているが、この二つは本来的には関係が無いにもかかわらず、もし「二十エレの亜麻布」を「一着の上着」にする物質的な使用価値としてではなく、「十ポンドの茶」と等価な価値として求める人間の交換的な関与があれば、「二十エレの亜麻布」に対して「一着の上着」と「十ポンドの茶」とのあいだに等価物としての同等性の関係がひらかれ、「二十エレの亜麻布」は単なる交換物ではなく商品に転化する。「一着の上着」と「十ポンドの茶」は入替え可能で、「二十エレの亜麻布」が等価物となる逆の関係もあるので、商品としてのすべての物は、他の商品に対して等価物の形をとることができる。このように商品は、物質的(現実的)な使用価値としての自然形態と、他の異なったすべての物と置き換わりうる価値の基準(価値本体)にもなり得るという、物質性をカッコに入れられた等価物としての価値形態を二重性として合わせ持つ。

おそらくこの商品の二重的特性をマルクスが導き出した簡潔さに触発されて、言語の意味と価値にわたる二重性を確かな形で着想できたのだろう。ただここで奇妙な感じがするのは、マルクスが等価の形態としているところを価値の基準(価値本体)としていることだ。自己表出と指示表出を言語の価値と意味に振り分けたい予断があるような気がしてならない。

言語が商品の特性に重ねられて考察され、商品の等価表現である「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」というマルクスの文章は、「美しい亜麻布は天使の上衣のようだ」あるいは「天使の上衣だ」のような直喩あるいは暗喩の等価表現に置き換えられる。

このとき喩(表現)は、言語の自然形態である<指し示す><伝える>ための言葉の使用性の側面を示すと同時に、「美しい亜麻布」を<指し示すこと自体><伝えること自体>としての無数にかんがえられる他の直喩あるいは暗喩を代償する等価形態のように置かれていることにもなるので、言語(表現)を美的(文学的)な次元に跳躍させようとすると、すなわち喩によって<指し示すこと><伝えること>を意図したときから、言葉の本来的価値である<指し示すこと><伝えること>という自然形態のようなものを離脱しようとする、

とされる。そして、
すべての商品が共通にになうことができる等価物としての役割の側面(等価形態)が、ある普遍的な等価形態をもつ商品、等価物としての使用性だけが使用価値であるような普遍商品として、貨幣(普遍的等価形態)によって代置されるように、言語における普遍的等価形態が求められる。

*「二十エレの亜麻布は十ポンドに値する」というマルクスの範例、というよりも普遍的等価形態としての貨幣という概念が、対応を言語に要求するものとすれば、それはすでに存在しているはずであり、また可能なはずであり、けれどそれを具体的にいうことができないようにおもわれます。

*「二十エレの亜麻布は十ポンドに値する」という云い方をかんがえると、目的部にくる物(商品)が消えてしまって、商品でみれば普遍的で抽象的な貨幣になっています。そこでは等価物に共通化と抽象化が同時におこなわれているわけです。この等価物の状態が言語のうえでかんがえられるとすれば、

*さしあたってわたしたちが言葉の<概念>とかんがえているものの本性のなかに、普遍性がめざされうる根拠が潜んでいるといえるでしょう。<概念>自体が普遍性をもつのでなく<概念>の構造のなかにその要素が潜んでいるということだとおもいます。

ここに、転倒された言語の自己表出という概念が産み出される。 そして、上述のW(商品)−G(お金)−W(商品)、G(お金)−W(商品)−G'(お金);(G−G')の転倒に重ねあわすように、一般的言語の指示表出的使用と文学の言語の自己表出的使用の違いが語られる。

*現実形態としてはかならず貨幣があり、商品が売買され、またお金にかえられるという最初の基本過程を確実に踏んでゆきます。しかし本質過程は単にGからG'(つまりお金からお金)へというただそれだけのことです。ここのところで、本質過程(形態)と現実過程(形態)とのあいだに分裂、分離がおこるということができます。この本質過程と現実過程との分裂、分離は<疎外>とみなされます。そして<疎外>ということはそのまま<表現>だとかんがえることができます。

*通常の網の目をなしている言葉は<指し示す><伝える>ために言葉がつかわれ、その過程に美的な工夫がなされることがあっても、よりよく<指し示す><伝える>ことがモチーフの言葉だということになります。これにたいして美的な言葉はただ言葉の価値のために、そして価値増殖のモチーフをもって、はじめから行使される言葉だとかんがえることができるでしょう。この過程は使用価値ではなく、価値そのものなんです。価値の自己増殖ということが自己目的です。<略>ここまできて言葉の表現が文学になっていく基本的な形との類推ができるようになったとおもいます。つまり自己増殖ということがあくまでも本質的な過程であり、これを文学に類推すると、(ぼくは「自己表出」という言葉を使っていますが)文学がなぜ生みだされたのかといったばあい、決して使用価値といったものが第一義的にあるのではなく、価値の自己増殖こそが文学(言語の美)の本質的な衝動なんだということです。

これを「言語にとって美とは何か」と重ね合わせると、言語の現実過程は、現実的環界の必要に応じて様々な対象を指示する通常の場合は、W(<指し示す>意識)−G(言語の自己表出)−W(指示表出的表現)であるが、文学的表現の場合には現実過程は、G(言語の自己表出)−W(自己表出的な指示表出を含む表現)−G'(水準を上げた言語の自己表出)として表れるが、本質過程はG−G'の価値(言語の自己表出)の自己増殖(水準の上昇)であるので、最も自己表出性が極まる詩的表現の場合、<ひたすらある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使する><使用性を喪失するような使用性であり、また普遍的な等価であるような価値表現をもとめる言葉>である<非指示的な、そして非伝達的な>指示表出性がゼロになる<ある普遍的な表出を実現しようとするものだ>ということになる。

「言葉という思想」は「言語にとって美とは何か」より後になって書かれたものだが、既に上記のような見取り図がある程度あって後者が展開されていることは、そのような視点を入れることではるかに理解しやすくなることから、ほぼ間違いないだろうと思われる。言語の意味や価値の定義の<言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語構造の全体の関係である。>や<言語の価値とは<略>意識の自己表出からみられた言語構造全体の関係を価値とよぶ。>というような、言語構造全体が何を想定しているのか理解に苦しむ記述も、上記の観点を挿入することでそれなりに解るようになる気もする。

しかし問題は、なぜ言語における普遍的等価形態が言語概念に既定で含まれる言語の自己表出という自己運動のようなものになるのか?そして普遍的な水準で言葉を行使することがなぜ非指示的で非伝達的な<ある普遍言語を目指すこと>になるのか?前者は、彼方に超越的価値を信憑したヘーゲル的な歴史主義の残滓にマルクスから着想された氏の'ひらめき'が合体したものであり、前者から導かれた後者もまた、「言語の美」への氏の信憑、それは、日常の言語使用と激しく対立する芸術至上主義の言語観の主観性とさして違わないと思うが、それを普遍的に価値付けしようとしたものとして当然に出てくる帰結かもしれない。

ソシュールもまたマルクスの貨幣の分析から言語を考えたが、「言語の美」というような主観的な思い入れがないだけに、結果の主張は、実際はプラトン以来の"イデア"観を尻尾にくっつけた既成の言語観をひっくり返す出来事であったが、ある意味で穏当であった。吉本氏が、言語における普遍的等価形態を、自己表出という歴史を貫く芸術的価値に置き換えたのに対し、ソシュールにおける言語の普遍的等価形態は、共同規範として成立する"ラング"なのではないか?と私は思う。であるなら、言語に価値が考えられるとして、表現(自己表出)が共同化(等価形態)されるに従って自己表出としての価値(使用価値・自然形態)を失なってゆく代わりに、その言語としての価値(普遍的等価形態)を獲得してゆく、と言えないだろうか?言語"ラング"と表現"パロール"は価値として見れば相反し、一元的価値概念(言語の自己表出)で直に結びつける(言語と表現を一体化して区別をつけない)のは、言語表現論としてもやはり無理があるのではないか?

私には、氏の主観的な予断を呼び込む、また別の切実なモチーフが作用していたのではないか?と憶測する。既述した「詩とはなにか」のなかで、

いまわたしは詩についてのある転換のとば口にたっている。予想もしていなかったことだが、自覚的な詩作へというかんがえがときどきこころをかすめてゆく。詩作の過程に根拠をあたえなければにっちもさっちもいかない時期にきたらしいのである。

おそらく、氏の個人的な創作上の悩みに深く関連して、目の前の、現代社会に露出してきた、指示的な意味が解らないにも拘らず何ごとかを緊迫して表わしている表現(詩)を、言語の美(芸術)として根拠づける(価値づける)必要が切実にあったのではないだろうか?そのことは清岡卓行氏の「愉快なシネカメラ」が例示された最後部の所に如実にあらわれている。氏は自己表出性が極まった作品(したがって紛れもなく詩)と手放しで評価するが、場面を表出する言葉に一切の無駄がなく表現としは簡潔でうまいなあとは思うが、展開に指示性が見つけられないため、私にはあっそう、で終わってしまう。正直言って他の所で例示された主観的指示性が濃厚な清岡氏の別の作品のようには詩を感じることができない。吉本氏は、展開の指示性がゼロであることが清岡氏の倫理だ、などと妙な数式で訳の判らない解説をしているが、氏の言語論からする、"ひたすらある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使する"ことが詩作行為の純粋形態(普遍的な水準での言葉の行使)である、ということを当の清岡氏が真に受けて実践しようとしていたとしたら、一体どういうことになるのだろうか?その嫌疑は、何も清岡氏ばかりでなく、'70年前後の社会情勢のなかで、根底的な変革思想として吉本思想を崇めた(あるいは早とちりに勘違いした)いわゆる"現代詩"の詩人たち総体に濃厚にあるのだが。問題は、それは本当か?と問う者がその後誰も現れず、秘教的な芸術‐詩概念の高みから、いまだに素朴な表現者を惰性的に威嚇している状態が、長く放置されたままにあることである。


6.「言語にとって美とは何か」を巡って (4) '05/03/06


吉本言語論がマルクス的であろうがヘーゲル的であろうが、言語の芸術表現について得心のいくよう説明してくれるならばそれが何であろうが別に構わないが、発展的な法則性のようなものを内に含んで言語や文学の価値が語られるとき、何か窮屈な檻の中に閉じ込められるような感じがするのは私だけの妄想だろうか?

言うまでもなく、吉本氏の分野の多岐にわたる、膨大な個々の具体的な作品に即した深い読みや正鵠な分析は群を抜いており、この著作でもそれらは遺憾なく発揮されている。この著作が不幸だとすれば、導入部のある意味で奇妙な定義や解りにくい論述に満ちた言語論に災いされて、この著作の中核的な大部分を占める、表現転移論や構成論にまで行き着けないのではないか?ということである。もちろんそこでも当然ながら吉本言語論の根幹は貫かれているが、個々の具体的な作品に即した瞠目すべき論述が展開されているので、理論的アクはあまり気にならない。特に詩の本質として'喩'を取り出し、従来の煩瑣な説明に終始していた様々な喩法を、像的な喩と意味的な喩に簡潔に収斂させたことや、個々の言語表現を、韻律、選択、転換、喩、等の構成によって分析する視点を導入したこと、従来の社会進化と関連させた文学史を言語表現自体の構成の発展として内在的に捉えたこと、散文芸術を文学体と話体の相克として捉えたことなど、特筆すべきことは枚挙にいとまがない。それらのあまりに膨大な作品の(それだけで驚嘆に値するが)鋭利で精緻な読みに圧倒されて、それらを貫いている氏の思想(原理)を、ただただ颯爽とした理論的歯切れの良さに魅了されて、本当はなにを意味していたのか解らないまま何となく受け入れてしまっていたのではないか、という苦い思いが今の私にはある。

この著作の最大のマジックは、「言語にとって美とは何か」と銘打たれながら、言語の美そのものが問われることなく、もっとも早々と、まともにそんなことをしても主観的な論述の上塗りを重ねるだけだとして論述の仕方の変更こそが必要なのだ、と不要宣告されているが、それにしても当然のごとく既定項のように言語の美=文学表現(芸術表現)とされ、文学表現が言語の自己表出という全円的未来に想定される普遍水準の言語(不可解な!)を目指す自動運動の本質的表れと見なされることで、自己表出性の度合によって文学表現の価値が量られる、ということにある。 そのような何とも法則的といえそうな考えに最も悪影響を及ぼされた(と私には思われる)のは詩の分野だろう。氏の観点からすると、非伝達的な指示表出性がゼロになるような<ひたすらある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使する>詩表現が自己表出の発展史の中で最高位の位置を占め、作品自体と言語表現の価値は同じではないと一応断わってはいるが、結論的には現代の社会に対応した詩表現として価値付けられるのはそのような詩である、と必然的に見なされているように印象される。散文表現においては、文学体と話体の相克という循環的な捉え方が一方向の発展上昇的な捉え方の毒を緩和しているが、詩表現においてはひたすら上昇過程のみで、詩作を試みる者が吉本氏の言語芸術論に捉えられたら、自己の表現の向上としての出口は、何も意味を伝えない自己表出性そのもののような詩表現に求めるしかなくなってしまい、さもなければ私のように現代に対応できない旧い詩感性として開き直るか、あるいはいじけてしまう他ない。

私はもう長く詩誌の購読を止めているので現状は詳らかではないが、かつて現代詩を主導しているといわれる詩誌を熱心に読んでいた一時期をふり返ると、明らかに吉本言語論の影響下で悪戦苦闘していたと思われる実作や、吉本言語論の受け売りと思われるような論で作品を差別化する評論が少なからず溢れていたように記憶する。ある意味では「言語にとって美とは何か」が今は忘れ去られた著作と言ってもいいように、それらの現代詩の閉塞(と呼ばれていた)状態を過去の出来事として笑って済ませられれば、何も私のようなあまり聡明とはいえない一介の詩を愛好する市井人がこんな面倒な論(空論?)に取り組む必要もないが、現場を離れているとはいえ詩の世界が元気になればどこからか伝わってくると思うがそれもないし、相変わらずいわゆる現代詩と詩は画然と区分けされているようだし、昔見たような論法の口調の作品評価が今だに散見されるしで、まあそんなことよりも何よりも、まず第一にずっと感じていた吉本氏の言語論(恐ろしいことに言語論では済まずに共同幻想論に連なる吉本思想となってしまう)への異和感を一度ははっきりさせて、自分自身を気障りだった観念の檻のようなものから解き放つ必要があり、待っていても誰もやってくれないようなので(知らないだけかもしれないが)、不慣れなことながら自分でやるっきゃなくなってしまった。

商品が流通過程の中で商品として振舞っているように見えても、買われなければただのゴミにしか過ぎないという商品の新しい本質が露呈してきた消費社会に直面して、マルクス思想への考えを修正した吉本氏であるのに、それを基にした言語論は発展されこそすれ、どうやらそのままのようである。
氏の図式でいえば、徹底的に生産側から見られた G(お金)−W(商品)−G'(お金);(G−G')も、Wに'選択される商品'という付加考慮がなければ G−G'自体が成り立たなくなったということである。氏の言語論に置き換えれば、ひたすら表現者側から見られた G(言語の自己表出)−W(表現)−G'(水準を上げた言語の自己表出)も、W(表現)に'読者'という付加考慮がなければ 文学(G−G')自体が成り立たなくなるということになる。
これは単なる氏の図式のパロディであるので、これで何ごとかを言うつもりはないが、ただ、表現が表現者の必然的な自然過程としてではなく、氏の言語論のような法則性を信奉して作為された、徹底的に表現者側の欲求がすべてであるような他者を必要としない表現が溢れてくる、進歩史観を隠しもった過剰な個性崇拝に覆われた現代社会においては、読者の視線という付加考慮は、単純にお話にならない迎合といって切り捨てられない、言葉の再考を迫る何かを示唆しているのではないだろうか?皮肉にも商品としての文学は、商品の新たな本質を正しく露わにして、良きにつけ悪しきにつけ上記の通りになりつつあるように思われる。


7.「言語にとって美とは何か」を巡って (5) '05/04/02


他人の論にいちゃもんを付けてばかりでは芸がないので、少しは自分の脳みそを働かせてみようと思う。果たして<言語の自己表出>という概念は必要なのだろうか?

一般に言語学者の言語論は言語の緻密な解析から出発してある規則を析出し、それに当て嵌める形で実際の言葉の使用の様態を説明しようとするが、しかし本来動的な関係の場の中にある言葉を静的な対象として分析するため、いつも理論と実際の奇妙なズレを生じてしまう。時枝誠記氏はこのズレを解消するため、実際の言葉の様態から出発して言語論を組み立てる方法的転換を言語学の内部から行ったといえる。吉本氏は言葉の実態から言語の本質に迫ろうとする時枝氏を高く評価するが、それでも尚、コミュニケーションとしての言語の側面のズレは解消されても、依然として芸術表現としての言語の様態とのズレが残されてしまう不満をいだいたようにみえる。そこで吉本氏は、芸術表現としての言語の様態から出発して、芸術表現としての言語の側面の要となる自己表出概念に、主にコミュニケーションとしての言語の側面を担う指示表出概念を包摂することによって、すべてのズレを解消する言語論を組み立てられるのではないかと考えたのではないか?

ただ、言葉の実態から言語に遡行しようとする方法は、対象とする言語の地域性を免れる事ができず、歴史的な一言語内における変化や様々な言語の分岐の様態を貫いて言語自体の普遍的特性を析出するのには不向きな恨みを持つ。それを克服して論の普遍化を図ろうとすると、当初の感性的理解の容易さから離れて論が抽象化されざるを得ず、ともすれば恣意的と見えかねない概念を設定せざるを得ないように思える。三浦つとむ氏の言語論は、言語学の内部で時枝氏の言語論の普遍化を図ったものと思われるが、<超感性的な認識>というような、ある意味超越的な概念を要請せざるを得ず、吉本氏の歴史を貫く<言語の自己表出>という概念も同様の印象を受ける。 三浦氏や吉本氏の言語論が言語学の内部で評判が芳しくないのはそういった理由からであろうと思われる。 ただ私としては、吉本氏の自己表出、指示表出概念は、文学表現を言語として考える場合、他の洗練された言語論よりも最も容易に感性的な理解を与えてくれるので、厄介な<言語の自己表出>抜きで何とかならないか自分なりに考えてみたいと思う。

まず、言語の自己表出という転倒(私にはそう思われる)を身体意識を含めた人間の全意識の自己表出に戻し、<言語の自己表出>概念が必要であったと思われる言語−表現−文学表現の一貫した論述を、オーラルな言語(表現)と文字によって残される(文学)表現とに分けて考えれば、前者においては共同的な約定としての'ラング'が導入でき、文学表現は文字による表現の累積ということが維持されて、<言語の自己表出>抜きでも吉本言語論の実り多い構成論を、累積する表現の自然史的発展として捉えられるのではないだろうか?

上記の立場で私見を述べれば、吉本氏の、歴史の彼方に想定された定点(普遍的等価形態としての普遍水準の言語)から視線を折り返すようにしてみられた言語の意味や言語の価値の定義、は当然廃棄される必要がある。言語の意味も価値も常識的に地上に降り立たせて、
言語の意味は、共同的指示性としての言語(ラング)の意味(概念)と、それを使って発語(表現)しようとするときに実現されてしまう意味に分けたほうがいいと考える。これは三浦氏の言語論に近いようにみえるが、言語表現を、認識の一義的な感性的実現と考えているらしい三浦氏とは違い、発語(表現)の意図は、認識のようにあらかじめはっきりある訳ではなく'実現されてしまう意味'としばしばずれる。それは、発語(言語表現)が共同的約定としての最小限の意味を媒介にして実現されるからに他ならない。また言語の価値については、ソシュールが示しているように、言語(ラング)の内部に本質的には区別すべき価値などない(恣意的)と言っていいのではないか?ただ発語(表現)においてのみ価値が発生するのだと。吉本氏のように言語と表現を一体視すれば、どうしても表現の価値的な実態から逆算的に言語に価値を考えざるを得なくなる。

発語(表現)において、人は共同的約定としての無声の謂わば透明な言葉を使わざるを得ず、それは目に見えない共同意識であると同時に共有の財産でもあり、発語(他者への語りかけ)の可能を保障する最小限の意味を媒介するものであると同時に、与えられる桎梏として常に共同的約定としての意味(概念、イメージ)を意味してしまうものでもある。だから後者においてそれは、常に自らの人間的自然(擬似自然としての身体意識)との異和を生じることでもある。
平常のやり取りでは、共同的約定(最小限の意味)に身体的表現(身振り、表情、声の高低などなど)を付加することで、言語的には場面に応じた共同的約定の言葉の選択や形式化された表現様式(言い方)の選択ぐらいで、暫定的に人間的自然(身体意識)との空隙が埋められ、発語(表現)の漠然とした意図と実現された意味とのずれ、あるいは実現された意味と受け手による解釈のずれは習慣的に許容または無視されている。通常、言葉がコミュニケーションの道具といわれるのはこういう側面を捉えており、発語(表現)者内のズレ、受け手とのズレを、まさに許容範囲内に成り立たせているのが共同的約定としての言語の最小限の意味といえる。ただ、だから、常に表面上(共同的約定)の意味と近似しながら違った意味を伝え得るし、伝わってしまうし、また誤解して受け取られ得る。しかし習慣的には空隙をどうしても埋められず、しかも何とかして空隙を埋めたいという強い意識の内圧が高まったとき、共同的約定をはみ出そうとする表出(新しい言語表現)が生じる、と私はみなす。

この共同的約定をはみ出そうとする意識の表出を、吉本氏の概念に対応させて自己表出と呼んでもいいと思う。氏が提示した<言葉の指示性の背後には自己表出性が張り付いている>という考え方は、言語表現を取り扱う上で非常に貴重であると思う。なぜなら、ソシュールに代表される言語学がどのように言語の記号的様態の精妙な機能的分析を行っても、学問であろうとする限り、既に現にある共時態としての静的な構造把握から出ることは難しく、言語が人間の活動と対応した絶えず変化する動的な体系、謂わば生き物であるという本質を、それなしに巧く捉えられないからである。
長い間の人間の関与を重層的に内包した自然言語とは違う、昨今の溢れかえる工業的な単一の指示機能語の一つであった'リセット'という記号ですら、既に多義的に使われ始めている。誰かが最初にその時点の言語の差異的体系の中には存在しなかった意味を自己表出(表現)し、他の若者達がそれに共感しなければ、'リセット'という記号のシニフィアンは、この記号に当初目論まれた、他のIT記号との示差的なシニフィエに過ぎない単一の指示的意味しか持ちえなかったはずである。
人間の歴史と切っても切れない関係性の内にある言語から、共時態としてばかりでなく、通時態としての考察を無視する訳にはいかないのではないか。たとえそれが文学的空想の域に突入せざるを得ないとしても。

通時態としての言語は、原初的には共同的約定はなくただ発語(表出)があったのみだろうが、それは共同的な意識の'たまり'があってこそであり、獲得された新たな言葉が習慣−形式化したものが共同的約定であってみれば、この'たまり'こそが共同的約定の原型であったと言えるのではないか。

(自己)表出は即時的な人間的自然(身体意識)と対象指示的な言語意識との異和によって起こるので、(自己)表出がなされる時にはいつでも、共同約定的な言葉(表現形式)を使いながら、それで自他を指示せざるを得ないことに異和を感じ、それを埋めようとして約定をはみ出す新たな自他への指示(言語表現)が探られる。そして、約定的な言葉(形式)で指示せざるを得ない自己の存在的様態との'ずれ'を埋めようとして対自的に言葉がはみ出そうとするとき表出(自己表出)はもっぱら自己表出性が強まり、また、共同約定的な言葉(形式)で指示せざるを得ない他存在との'ずれ'を埋めようとして対他的に言葉がはみ出そうとするとき表出(自己表出)はもっぱら指示表出性が強まる。それぞれ対自的自己表出、対他的指示表出として便宜的に吉本氏の自己表出、指示表出に対応付ける。いずれにしろ、自己の存在的様態は他存在との関係を抜きにしては成り立たないので、自己存在と他存在との関係を表す指示性の選択や扱いなどにおいて、対自的自己表出は対他的指示表出性を含まざるを得ず、また、対他的指示表出は表出性においておのずから自己表出性を含む。

言語表現は、'言語(ラング)−表現'の現象的なオーラルな表出過程と、それとは異質な'表現−文学表現'などのような文字の物質性によって表現が累積される表出過程とに分けて考えられるべきで、両者を前述のような表出の原理が媒介していると見なすことができる。

'言語(ラング)−表現'の表出過程では共同規範化の洗礼を強く受け、ある時点の対自的自己表出としての言語(表現)も対他的指示表出としての言語(表現)も習慣化されれば共同的約定としての言語(ラング)に組み込まれ、それは同時に、表出圧が少なくても表現の選択と幅が広げられる形式的な約定の水準が高まることであり、また逆に共同性が獲得できなければその場だけの表現(表出)として消滅し、既に規範化された言語であっても共同性が失われればいつでも忘れ去られる死語になり得る。人間生活の必要に密着したオーラルな現象的言語過程では、対他指示的な言語(ラング)は、社会の複雑変化に応じて飛躍的に増大、変化してゆく(表現され約定として回収、あるいは死語として喪失されてゆく)が、対自的に自己を指示する言語(ラング)は、現象的な特徴である非言語的な表情などによる身体表現の付加に援助されるので、自己自身を指示する基本的な必要表現の規模に達した後はそれほど累積も生滅変化もしないと思われる。

オーラルな過程での発語された表現(表出)が価値をもつとすれば、受け手が受け手の存在的な自然(身体意識)との自他に関わる言語的異和を埋めてくれる(言い当ててくれる)表現に出会い、それを貴重と考えるからであろうと思われる。つまり個々の表現(表出)の価値をきめるのは、直接的には語りかけた相手との新たな共同性に、最終的にその表現(表出)を価値づけるのは、どれだけ他の人間の存在的自然との言語的異和を共有し、それを埋めることができるかという社会的共同性にかかってくると思われる。個々の表現(表出)は共同性を求めながら、表現が共同性を獲得してゆく(価値として認知されてゆく)につれて、それが対自的自己表出であれ対他的指示表出であれ、保持していた表出性(個々の言語的異和の言い当て)が習慣的な指示性として徐々に変質し(表出価値を失い)、約定的に何かを指示する言葉として誰もが使える共同性(共有性)そのものに解消した時、新たな'ラング'の一項目(形式)として共同規範性の中に繰り込まれると思われる。同時にそのことで、既成の共同規範性の言語(ラング)を選択的に使う表出圧の少ない平常の表現の可能性としての水準を押し上げてゆく。

韻律は吉本氏のいうような<指示表出以前の指示表出>とは違って、むしろそれを聴いただけで表出的に仰起された(価値を付託された)言葉が語られていることを意識に自動的に呼び起こす共同化された声調の磁場、長い間に表出そのことの一般性から共通的に抽出された、やや特殊な謂わば'表出性の目印'の様なものではないだろうか?それはオーラルな過程における表出的な規範(表出の際の様式)といえる。おそらく文字のなかった時代に、共同性を仰起する重要な何事か(成員すべての言語的異和=存在的意味を言い当てる、成員すべてにとって価値があるがまだ成員が平常で使えるまでに規範化してない、表出性を失ってない言葉)を口伝で語り継がなければならなかった'意識の構え−記憶の術'として形成されたのだろうと思われる。

文字による表出過程では、文字による表現の物質性の獲得によって、オーラルな過程が持っていた言語(表現)の性格が大きく変質する。まず物質的な残存性は、現象的な表現にまつわる消滅や喪失を回避できるようになった代わりに、文字の理解や使用が長く特定の階層(支配層‐知識層)に限られてきたことによって、オーラルな過程での共同的な洗礼という安定的な言語(表現)の価値付けを喪失する。
ひょっとすると文字は、支配層の永続の願望から生み出されてきたのかも知れず、文字に付きまとう権威性を考えると、それは十分有りそうなことで、少なくとも文字を言語にすっぽり包摂して区別を付けないよりは、言語の本質に近づけるのではないだろうか?だとすれば文字による表現は、言語表現の本質から何らかの逸脱を見せるはずである。
物質化による表現の間接性は、視覚的な類別や対象的な推敲が可能になることでオーラルな過程とは異なる書き言葉や形式(書式)や表出の複雑化をもたらすことになり、やがて一部の書き言葉はオーラルな表出過程にも繰り込まれて、オーラルな共同規範性の言語(ラング)の水準を押し上げてゆく。

'表現−文学(文字)表現'の表出過程では、特に表情などの非言語的な付加表現に多くを頼っていた対自的自己表出において、その援助を失うことで言語的異和が強まり、それを代償する文の様式とでも謂うべき新たな表出的な規範を生み出し、オーラルな過程では安定的であった対自的自己表出の表現が飛躍的に複雑化することになる。また表現の間接性は共同的な直接的価値付与を失った代わりに、時間空間の遠隔を超えた表現性(共同性への訴求)を手に入れたことになり、物質的なものに付随する生滅の運命に玩ばれはしても、表現されたものは原則的には(価値付与を求めて)歴史的に累積されることになる。

吉本氏は、<人間的な意識が'こちらがわ'にあるのに、言語の価値は、あちらがわに、いいかえれば表現された言語に現実的に附着して成立する概念であり>というように、表現されたもの自体に自立的(客観的)な価値を与えようと試み、価値の源泉として人間的意識に左右されない'言語の自己表出'を考えだしたと思われる。批評的眼差しは価値を量る客観的な基準をどこかに希求してやまないが、しかし残念ながら、あらゆる価値判断は'手渡される相手'に附着するというべきであり、価値が挟まる論議の紛糾は常にそこに由来する。
それでもなお、相対する価値判断を超えて、信頼に足る価値を求めようとするならば、人間の共同的な関係の中にしか根拠は見出し得ない。すなわち文学表現といえど、価値は共同性の新たな生成という、言語自体の表現の価値付けの性格を免れる訳ではない。ただ、元々文学表現を担う共同性が文字を解し文学表現を愛好する限られた小集団であるため、そこで形成される書くことにまつわる表出の規範は決して安定的な価値を保ちえず、次代や同時代の中で書くことにまつわる言語的異和を多分に引き起こすことになり、主流になる表出の規範の表現と、それまでに累積した表出の規範の表現との角逐という、文学内部での表現の独自な展開と並存がもたらされる。

ある時代の文学的表現者は、自らが生きる時代の生活におけるオーラルな言語と、射程に入る限りの文学表現や表出の規範とに対して、個的な素養や環境に左右されながらも、言語的異和は常に二重に引き裂かれることになる。文字による文学の表出はあくまでも文字による文学の共同性の内部でおこなわれ、その中で様々に価値付けされるが、文字による表現がその残存性において時空を越えて価値付与を求めるため、時々の価値付与は常に暫定的とならざるを得ず、しかも書記にまつわる文学内の規範を抱かえ込んだ表出は、同時代の生活的な言語との異和を自他において生み出し、表出の価値付与はさらに不安定になる。そこに文学表現の価値における宿命的な悩ましさが発生すると思われる。




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