[10] 電話

9月20日・夜

 あたしは、空っぽの鞄をさげて夜のアーケードを歩いていた。
美月に見つからないようにして、着替えや荷物を取りに戻るためだ。
もちろんいつまでも宗谷さんの家にこのまま転がり込んでいるわけにも行かない。
けれど宗谷さんは例の、何を考えているのか分からない表情で、たまには甘えるのも大事だよ、と言ってくれた。
それをそのまま鵜呑みにするほど子供ではないつもりだけれども、あたしは少し甘えることにした。

 大道路へと伸びる通りを、家へ向かって歩く。
曲がり角の壁に、古くなったビッキーのチラシが貼ってあることに、初めて気付いた。
こんなところに、こんなものがあったんだ。
通り慣れた道にも、気付かなかったことがある。
そんなことに今更気付いた。
 半分破れたチラシの前を通り過ぎながら、あたしはぼんやりと美月の顔を思い浮かべた。
 美月は、帰ってきたあたしを見たら、なんて言うのだろう?
あたしは、まるでこれから美月に会うつもりみたいなことを考えていた。
美月が今、家にいないことはわかっているのに。
 鞄を持つ手をとりかえながら腕時計を見ると、もう十一時半を指していた。
この時計が美月に買ってもらったものだということを思い出したら、なんとなくため息が出た。
あたしは、家に帰る口実を探しているのかもしれないと思った。
本当に心から、家に帰りたがっているのかも知れない。
 あたりの風景は、注意して見ると、とても綺麗だった。
アーケードの夜間照明は、うすぼんやりと夜の海のように。
所々にある街灯が照らす壁は、まるで映画のように。
アーケードの屋根は、ただ、プラネタリウムの空のように。
 とても、綺麗だった。この風景には割り込むことができないような気がした。
「はぁ…」
なんとなく途方もなくて、あたしはもう一度、ただため息をついた。

 ビルの前に着いて、あたしは建物をぐっと見上げた。妙な感じだった。
ここには、今、誰もいない。このビルは、今、完全に空っぽなのだ。そう思うと、不思議な感じがした。
美月のベッドやあたしのベッドが、置いてあるだけ。
今は誰も美月のことを待っていない。今は誰もあたしのことを待っていない。
今までこのビルが、こんな風にからっぽになったことがあっただろうか?
 あたしは自分の考えを打ち消す。
無理矢理家に帰る口実を作り出すのはフェアじゃない。
フェアじゃないし、きっとそうやって自分を誤魔化して家に戻っても、何も変わらない。
変わらないと、思った。

 あたしはビルの脇に回って、外付けの鉄階段を上った。
美月がいないことは確認してあるのに、何故だかあたしはなるべく音を立てないように上っていた。
二階の入り口を横目で見て、あたしはまた鞄を持ち直した。
 ここに、美月は住んでいる。
あたしが出て行ったあとも、美月が住んでいる場所は何も変わらない。
もちろんあたしの部屋のドアも、テーブルも、洗濯機も、何一つ変わらない。
美月は、どんな気持ちであのドアをくぐって出かけているのだろう?
いつもと変わらない顔をしているのだろうか?
表情に出なくても、あたしのことを、少しくらいは気にしてくれているのだろうか?
 あたしは、美月がつらそうにしている顔を思い浮かべようとして、首を振った。
このまま、部屋に戻って、何もなかったことにできたらいいのに。
…でも、やっぱりそんなことは無理だ。
あたしは下を向いて階段を上った。

 部屋の鍵を開けて、あたしは自分の部屋に入った。
空気がこもっているみたいで、少し変な感じがした。
とりあえず窓を開けてから、電気をつけた。
またたいてから光りだす蛍光灯に照らされた部屋は、テレビの中のようだった。
なんだか、少し家を空けただけなのに、とても違和感があった。
ずっと心配だった流しを確認してから、あたしは寝室に向かった。

「ただいま」
 こっそりと口に出すと、急に懐かしくなった。
そんなに疲れたわけでもないのにベッドに倒れこんで、あたしは枕を抱いた。
これが自分のにおいなんだろうか。
少しだけ、このまま眠りたいような気分になった。
あたしは目をつぶり、体を転がして天井を向いた。
 目を開けて、天井を眺める。
何の感慨もなく、ただ眺めていたら、またため息が出た。
あたりは音がない。
プレッシャーのように無音があたしを包む。しいん、という音が辺りをいっぱいにする。
もう一度目をつぶると、電話の音が聞こえた。
 びくっと体を起こして、息を殺す。
あたしは体を硬直させてそれを聞いた。居間の電話機が鳴っていた。
ほんの少し迷ってからあたしは電話に駆け寄る。
もしかしたら、大事な用事なのかも知れない。そう思った。

「もしもし?」
あたしが出ると、電話の向こうで息を飲む声がはっきり聞こえた。
「もしもし?」
繰り返しながらあたしは、相手が美月かもしれないと考えて少し焦った。
美月?と聞きかえしそうになる寸前に電話の向こうが口を開いた。
「美月…良一さんのお宅ですよね…?」
 低く落ち着いた、女性の声だった。

 すっ、とあたしの呼吸がすぼまる。聞き覚えのない声だった。
「…どちらさまですか?」
我ながら、あからさまに警戒している声だった。
自分で自分の声に慌ててあたしは、ええ、美月ですけど、と半分どもりながら付け足した。
受話器の向こうが、言いよどんでいる。
「あの、」
あたしと、向こうの女の人の声が同時に響く。
あたしはつばを飲んだ。妙な予感がしていた。それは嫌な予感だった。
予感と、女の人が言おうとしていることを打ち消すようにあたしは言った。
「美月は今、いません」
やっぱり隠しようもないくらい、つっけんどんな感じだった。
「お急ぎの用事でしたら伝言しますけど」
心臓が早く鳴りはじめた。あたしはまるで、詰問するような声で、言葉を切った。
「お名前よろしいですか」

 ほんの少しだけ、しん、とした。静かな緊張が走る。
事務的な言い方が、引きずるようにあたしを強くする。あたしは返事を待った。
「赤坂、しのぶといいます」
あかさかしのぶ。綺麗な声だった。綺麗で、何より落ち着いた声だった。
 頭の中でその名前を繰り返す。
あたしはメモ帳を引き寄せて名前を書き写した。
時計を見る。時刻は11時47分。
 あたしは受話器の向こうにいる「あかさかしのぶ」の顔を想像した。
この人は美月の一体、なんだろう?

「…マコトさん、ですよね?」
 不意打ちのように受話器があたしの名前を呼んだ。
「は?」
 素っ頓狂な声をあげてからの、嫌な沈黙。
あたしは、電話機のコードを少しイライラしながら指に巻きつけた。
「…ええと、そうですけど」
 まるで言わされるみたいにあたしは返事をする。
「そう…」
それだけを言ってまた、受話器の向こうは黙った。
幾つくらいの人なんだろうか。
まだ、若いような気もするけれど、はっきりとした大人の声。
「…良一さんには今日私が電話したこと、内緒にしておいてください」

 あたしは、ほんの少し呆気に取られる。
今、この人は美月のことを良一さん、って呼んだ。

 不意に、美月と暮らしていた日々のことがフラッシュバックした。
そういえば、とあたしは思った。
今までは美月に、こんな風に女のひとから電話がかかってくることなんて、一度もなかった。
ぎゅうう、と音が聞こえるようだった。あたしの体が絞られる。
あたしの日常が、またひとつ崩れていく。
二ヶ月前の、美月が二階に引っ越してしまった日から、あたしの日常は崩れつづけている。
崩され続けている。崩し続けている。

 あたしは、前みたいに美月といたいのに。
何も変わらない日々を、願っているだけなのに。

 言葉が出てこなかった。
あたしが絶句しているのをどう解釈したのか、夜遅くにごめんなさいね、と言って電話は切れた。
ツーという音のする受話器を耳に当てたまま、あたしはぼうっとしていた。
赤坂しのぶと名乗る女性が一体誰なのか、あたしはまとまらない頭で考えていた。

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