[9]見送ること
9月19日・朝

「夢の中であたしは美月の奥さんをしている」
「夢の中であたしたちは、幸福に暮らしている」
「けれど、これが夢だって、あたしは知ってる」

「…起きてるかい」
 宗谷さんの声であたしは目をさました。
目を開けると、窓からアーケードの照明が白く差し込んでいた。
動いていないファンが天井からさがっている。不必要に優雅な木製のファン。
 少しだけ混乱してから、あたしは自分のいる部屋を思い出した。
ああ、また着替えないまま眠っちゃったんだ。あたしは思い出した。
あたしは、宗谷さんの部屋にいた。
「起こしちゃったかな」
 宗谷さんが呟いた。
水みたいな口調だった。さらりとして、何の他意もこめられていない、水みたいな口調。
 …水みたい。
あたしは前に修二くんと話したときのことを思い出していた。
観た映画のことを、水みたいだって、修二くんは言っていた。
あたしは思い出して目をつぶる。
「…平気」
 あたしはベッドの中から宗谷さんに小さく返事をした。
ここから見ると、いつも宗谷さんが言うように、窓は少しまぶしすぎた。

 宗谷さんは珍しくネクタイなんかをしめて、窓から外を見ていた。
「もう少ししたら、僕はそろそろ出かけるよ」
目を伏せると宗谷さんは女の人のような顔になる。窓の外を見ている宗谷さんは、なんだかとても綺麗だった。性別を越えて、綺麗だとあたしは思った。
「まあ、そんなに大事な用事じゃないから、きっとすぐに帰ってくるとは思うけどさ」
とても落ち着いた宗谷さんの声を聞いて、なんとなくあたしはため息をついた。
あたしはさっきまで見ていた夢を思い出していた。
 例に漏れず、また美月の夢。美月と食事をする夢だった。
それは、つらいほど幸福で、かなしい夢だった。あたしは、何をしても、進歩がない。
 まだ美月の夢を見るなんて。

 あれから二日。
あたしは宗谷さんの家に泊めてもらっていた。
他に行くところもなくて、結局あたしはふらふらと宗谷さんの家に行ったのだった。
あの時街を歩きながら修二くんにあいたいと思ったけれど、やっぱりよした。
修二くんに会ったら、きっと好きだとかなんだとか、口走ってしまうと思ったからだ。
修二くんと、不用意にそういう関係になってしまうことをあたしはおそれていた。
あたしは、ひょっとしたら自分で思っているよりも修二くんのことが好きなのかもしれない。そんなことを昨日思った。それとまったく逆のことも昨日思った。
 修二くんのことを考えている間、あたしは美月のことを忘れる。
 美月のことを考えている間、修二くんはあたしの中から姿を消す。
修二くんと美月は、どちらも大きすぎる。
両方とも、あたしのことをいっぱいにしすぎて、少し、怖い。
修二くんのことも、美月のことも、あたしは整理をつけられずにいるばかりだ。
 宗谷さんが確実に安全な人だなんて保証はないけれど、あたしは宗谷さんの家に来ていた。
 あの日、あたしの顔を見て宗谷さんは言った。
<…前のときよりひどい顔をしているね>
そして宗谷さんは自分のベッドを貸してくれた。
新しいのを買ったんだ、と言って宗谷さんは隣の部屋のソファーで寝ていた。

「宗谷さん」
 窓際の宗谷さんを呼んで、あたしは少し体を起こした。
宗谷さんは怪訝そうな顔をしてこっちを見る。別に特別言いたいことがあるわけでもなくて、あたしは少し困った。
 きっと、引き止めたいだけだ。
そう思ったときにはもう、あたしは続きを言っていた。
「宗谷さんって、ホモなの?」
言ってすぐにあたしはうんざりするぐらい後悔する。最高につまらない質問。
口を利きたいだけなら、もっとましなことを言えばいいのに。
 まるで、挑発してるみたい。
宗谷さんがホモじゃないことくらい、あたしは誰よりもよく知っているのに。
気の利いたフォローも見つからなくて、あたしは黙って宗谷さんから目をそらした。
「…自暴自棄に、ならないことだね」
宗谷さんは慎重な声で言った。
「…ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
宗谷さんは静かに言って、視線を軽く逸らした。
そしてあたしは、宗谷さんが再び窓の外に顔を向けるのをそっと見守った。
音が姿を消している。
音楽さえどこにもなくて、ただけだるい空気だけが窓の外も、中も、全てを無音という音の中に静めているようだった。

 窓の外を向いてしばらく黙ってから、宗谷さんは振り返った。
あたしの顔を見る宗谷さんはなぜだか寂しそうな顔をしていた。
「きみはとても苦しそうに眠るね」
宗谷さんは窓から吹き込むぬるい風を背中に受けて、すう、と目を細めた。
その表情をあたしはどこかで見た、と思った。
「盗み見たことを後悔するくらい、苦しそうに寝てるよ」
宗谷さんは透き通る声で言った。
さっきと口調は変わらないはずなのに、宗谷さんの言葉はまっすぐあたしを捕えた。

 美月。

 ごぼ、と、まるで湧き上がるように美月のことがあたしの中に湧き上がってきた。
あたしの中へ、あの日の美月の声と、手の感触が、あわを立てて湧き上がってきた。
そしていつかの、とても苦しそうな美月の寝顔が、あたしをいっぱいにした。
 胸がとても苦しくなる。
息が詰まる気がして、あたしはまばたいた。
ちらちらと、美月の寝顔が目の奥を通り過ぎる。
苦しそうな美月の寝顔。声をかけることさえためらう美月の、ぎゅっと閉じられた目。
美月の眠る家から、あたしは離れてしまった。もう、近くに美月はいない。
 もう、あたしと美月は、前みたいな親子には戻れないんだろうか?
「…みづき…」
あたしは口だけで呟いて、唐突に、自分が美月を置いて出てきたことを実感した。
 実感してしまった。

 あたしは宗谷さんを見た。
ひどく切羽詰った気分になっていた。
この場に美月がいたら。宗谷さんが美月だったら。そんなことを考えた。
けれどそれは違う。美月がいても、きっとあたしは何もいえない。
美月が、宗谷さんのように口をきいてくれたら。
そんなことを考えるのは違う。間違ったことだ。
「宗谷さん」
あたしは宗谷さんを呼んだ。
宗谷さんを呼ぶ自分の声が、まるですがるように響いたのをあたしは聞いた。
「今日は美月と会う?」
 言いながらあたしは、不意に泣きそうになった。
<美月に会う?>なんて、ひどく取り乱しているのを丸出しにして。
宗谷さんが美月と会うと言ったらどうするというのだろう?
伝言でもするの?様子でも聞くの?何も、考えなんてまとまっていないくせに。

 宗谷さんはあたしの顔を見て、少し黙った。
宗谷さんは考えるような顔をしてから、いいや、と言った。
ぬるい風が窓から吹き込んでくる。照明の熱のせいか、屋根の熱気か、とにかく何かが温めた空気の流れが、あたしの顔をなでる。
 まったくあたしは、衝動的に泣きそうになっていた。
少しずつ、心臓の流れがゆっくりになってゆく。体が、醒めてゆく。
あたしは体がほどかれてゆくのを感じていた。
体がほどかれて、気持ちが、無防備になっていくのを感じていた。
 あたしは、泣くのかもしれない。ちらりと思った。
宗谷さんは窓枠に座り、顔を斜めに向けてうつむいていた。
「…急がないことだよ」
宗谷さんは控えめな声で言って、すっと窓から床に降りた。
「そのうち、無駄な意地だとかはきっと、溶けてしまうものだからね」

「さあ」
 宗谷さんはぽん、と手を鳴らした。
まるで自分で言葉の余韻を断ち切るように、宗谷さんは肩をすくめた。
「そろそろ僕は出かけるよ」
まるで子供のような言い方だった。
あたしはまばたきをして、宗谷さんを見た。
宗谷さんは眠たそうに片目をつぶって、ポケットに手を入れた。
「良い子で留守番しててね」
 ふざけたように言って宗谷さんはベッドの前を通り過ぎた。
あたしは宗谷さんの後姿にいってらっしゃいを投げて、見送った。
いってらっしゃい、なんて、すごく久しぶりに口にする言葉のような気がした。
扉の開き、そして閉じる音が響き、あたしはまた一人になった。
あたしは宗谷さんの言葉を少しだけ反芻した。

 無駄な意地だとかは、きっと。

 あたしは宗谷さんを見送って、少し乱暴に体を倒した。
ばさ、と枕の音をさせて、あたしは体を窓の方に向けた。
窓の下をきっともうすぐ宗谷さんが通る。
そんなことを思いながらあたしはまぶしい照明に目を細めた。
 …別に意地を張っているわけじゃないのに。
ぼんやりとそんなことを考えて、あたしは少しだけ涙を出した。
 泣いたわけじゃない。
言い訳のように思いながら、あたしは窓から覗く照明を見つめた。

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