[8] 今朝のB型

9月17日朝

 いつもの通り目を覚ましてあたしは歯を磨いた。
昨日、美月はいつ帰ってきたのだろう。あたしが戻る前に帰っていたのだろうか。そんなことを考えながら時計を見ると、やっぱりいつもと同じ時間だった。
 満足に眠っていない癖に、不思議とあまり眠くなかった。疲れてるのかなあ、と少しだけ思った。考えてみると、あたし、最近きちんと休んでない。なんとなく不安だった。
疲れもなく、その代わりに元気もなく、まるで空気みたいにあたしは顔を洗った。
顔を上げて鏡を見ながら、あたしはちらりといつかの少年のことを思い出した。
 どうしてだか分からないけれど、あたしは鏡に向かって笑ってみせた。
「ねえ美月、朝ごはん、何がいい?」
あたしは笑ったまま呟き、そしてすぐに後悔した。バカみたい。むなしくなるだけなのに。
大きくため息をして、あたしは作り笑いと一緒に美月を頭の中から追い出した。

 いつもどおり、あたしは二階に降りていってまずテレビをつけた。
なんだかうるさいテーマ曲にのって、アナウンサーが喋りだしている。
<アーケードニュース!今日もアーケードの最新情報をお届けする時間が…>
ボリュームを絞ってあたしはエプロンをかぶった。昨日の残りだけで済ませようかと思ったけれど、やっぱりたまごだけは焼いておくことにした。
 あたしは美月のことを考えた。
<今日のA型の運勢!今日は下り調子、緑色の…>
 テレビで血液型占いが始まった。
「今日は下り調子」
そのまま真似して、あたしは美月の<下り調子>を考えた。美月の血液型はB型だ。今日のB型が<最低>だったらいいのに、と少しだけ思った。
何だかイライラしてあたしはたまごに当たった。ぐしゃ、と乱暴に割ってすぐに後悔する。
 あたし、いったい何やってんだろう。
 あたしは自分のほっぺたをつねって、美月の部屋に向かった。

「ねえ美月朝だよ!」
 あたしは大きな声を出しながら、美月の寝室に入った。
静かにしていたら陰気になってしまうとあたしは思う。あたしはやっぱり、元気にしているのがいいと思う。人と会うときは、元気にしていたい。
「ねえ、美月ってば!」
 少し乱暴にベッドに近付くと背中を向けて眠っている美月の肩がぴくりと震えた。
美月はとても神経質で、身体に触れられるのを嫌う。昔からそうだった。小さい頃、他の子がお父さんにするみたいに美月に抱きついて、怖い顔をされたのを覚えている。
 いつからかあたしは全然美月に触らなくなった。起こそうとするときも例外ではない。
なのに今、あたしは、手を伸ばしていた。まったく衝動的にあたしは美月の肩をつかんだ。
「ねえ、みづ…」
 美月は跳ね起きるようにあたしの手を掴んだ。すごい力だった。何が起きているのか、混乱しているような目で美月はこっちを見た。あたしが誰だか分かっていないようだった。
 あたしはびっくりして言葉が出ない。
ほんの一瞬して美月はあたしに気付いたようだった。美月は動揺したようにあたしから眼をそらし、大きく、震えるような息を吐いた。遅れて美月は解くように手を離した。
「……美月…」
 あたしは本当にびっくりして美月の横顔を見た。ひどくやつれているようだった。あたしはやっとのことで美月の名前を呼んだ。他に言葉が見つからなかった。
 あたしは無意識に自分が、掴まれた手をさすっていることに気付いた。
「すまない」
 顔を背けて美月は、弁解するみたいに言った。とても低く、小さい声だった。
 瞬間的にこの間の美月を思い出した。ベッドに腰掛け、鉛のように下を向いていた美月。
あの時と同じようにあたしは体がこわばるのを感じていた。
「そういうつもりじゃなかった」
 失敗した。あたしは、とっても迂闊に美月に触れてしまった。触れるべきじゃなかった。
あたしは、自分が手酷い失敗をしたことに、ようやく気付いた。少し、遅すぎた。
 美月とあたしの間に、見えないけれどおそろしく明確な、壁が生まれていた。
この間の美月が、あんなにつらそうだったのに、あたしってば、何一つ学習していない。
 あたしはバカだ。どうしようもないバカだ。

 ものすごく重い空気があたしを縛り付けていた。あたしは、まるでその空気に捕まえられるように、立ちすくんでいた。
あたしは、美月のすぐそばに立っていた。手を伸ばせば届く位置に美月の頬があった。
それに触れたい、とあたしは思った。何も考えないで美月といられたらどれだけしあわせだろうとあたしは思った。できない。でも、そんなことは、絶対にできない。
 美月の言葉が耳に響いた。

 <すまない。そういうつもりじゃなかった>

 それはあたしを打ちのめした。あたしは、美月を理解してあげられない。
美月は、あたしを無視して孤独になろうとする。美月は一人で抱え込む。あたしは、美月に守られているだけだ。あたしは美月に何もしてあげられない。
 あたしだって、ここにいるのに。あたしは、美月のためにここにいるのに。
喉から、言葉がせりあがってきた。あたしは、それを必死で止めようとした。けれど、それは、まるで爆発するようにあたしをいっぱいにしたのだ。
「じゃあ、どういうつもりなの!」
あたしは大きな声を出して、息を吐いた。息が、震えていた。自分が制御できなかった。
「ねえ美月!どういうつもりなの!」
まるであたしは責めるみたいに美月の名前を呼んだ。美月があたしの方を見て、追い詰められたような顔をした。あたしは、美月の目を見ながら、全てのわけが分からなくなった。
「ねえ!答えてよ!」
 美月の沈黙に、あたしの目から涙が流れた。テレビみたいにぽろぽろと、涙が流れた。それはあたしの頬を伝って、顎を濡らした。
あたしは美月の目を見ていた。美月は目をそらさなかった。美月は追い詰められた、真剣な目をしていた。美月がそのまま、ゆっくりと言った。
「…俺は、お前を、苦しめているんだな」
 美月はとても真剣な声で、言った。

 美月の声を聞いて、急にあたしは、何もないところに放り出されたような気分になった。
あたしを突き動かしていたわけの分からない衝動は、その一言ですっぽりと消えてしまった。あたしは不意に空っぽになった。美月が、あたしをからっぽにしてしまった。
「……あたし…」
 うまく、言葉が出なかった。苦しかった。そうじゃないのに。ぜんぜん、違うのに、言葉が出てこない。なんて言えばいいのか、本当に分からなくなって、あたしは悲しく首を振った。
ほっぺたの涙が急に冷えてしまったように感じた。あたしは、黙って涙を拭った。
 どうしてこんなに、分かり合えないんだろう。
背中からテレビの音が聞こえてきた。低い声でぼそぼそと、ニュースを読んでいる。なにも、変わらない。アナウンサーが、いつもの朝と同じようなニュースを読んでいる。
 美月が、もう一度ゆっくりと、口を開いた。
「すまない」
「……」
 それは、他のどんな言葉より、あたしと美月の間にある壁を感じさせる言葉だった。
はっきりと拒絶されるより、つらかった。美月は、あたしを必要としていない。あたしが美月を必要としているだけなのだ。あたしはそれを今、はっきりと理解した。
 たぶんあたしは、美月のお荷物なのだ。
「…ばかみたい」
 強い調子で言って、あたしは部屋を出た。
それはあたしに向けた言葉だったのか、美月に向けた言葉だったのか、両方への言葉だったのか、分からない。ただ、あたしはそれだけを言って部屋を出た。
 泣かない。あたしは美月のためになんか泣かない。泣いてやるもんか。
あたしは下を向いて、何回も首を振った。寂しくて、悔しかった。
 ひっぱたいてやればよかった。
あたしは怒り、そして家を出た。

NEXT

BACK

HOME