11] 渦

9月20日・昼過ぎ

「よお、ファザコン女」
 恭平の第一声に、あたしは怒る気力もなかった。
ファザコン。
その通りなのかもしれない。
あたしは、ぐったりと顔を上げないまま手を振った。
恭平の無神経な声が響く。
「なんだ、ほんとに落ち込んでんのか」
 昨日は、やっぱり寝られなかった。
宗谷さんが帰ってきたら眠ろうと思いながら、ずっと目を覚ましていた。宗谷さんは昨日帰ってこなかった。
だから落ち込んでいるというよりむしろ、疲れているのだけれど、きっと恭平にその違いはわからないのだろう。
恭平はそういうやつだ。
あたしは顔を上げて恭平の顔を見た。よく眠った後の、すっきりした顔をしている。
見ていると無性に腹立たしくなった。むかむかしてくる。
朝っぱらの電話に出てくれた時は思わず感謝してしまったけれど、それももう帳消しだ。
 あたしは、知り合いの少ない自分を恨んだ。
美月のことを聞けそうな知り合いがこいつだけ、なんていう自分の境遇を恨んだ。
丁度一週間前のネミッサを思い出しながら、こめかみを押さえる。
 ベンチに座ったままため息をついて、もっとましなところで待ち合わせれば良かったと、今更になって思った。
立ち上がると、少し足がふらつく。
27分の遅刻について何か嫌味でも言ってやろうかと思ったけれど、うまい言い回しが見つからなくてやめた。
「とりあえず、飯でも食いにいこうぜ」
 やっぱりあたしを逆なでする恭平の声に、あたしは、心からのため息をついた。

 あたしは、恭平について弁天街に向かう。
確かにおなかがすいているような気がした。お昼を食べるというのは、きっと悪い考えではない。
本当を言うと弁天屋台街の喧騒は少し苦手なのだけれど、代りに行きたい所なんて聞かれたら困るので、とりあえずあたしは恭平について歩く。
「ねえ」
 あたしは歩きながら話しかけた。
「あー?」
 やる気のない声。
ほんの少しためらってからあたしは切り出した。
「…赤坂しのぶって人に、会ったことある?」
 返事がないので、あたしは恭平を追い抜いてみた。
す、と目を細めて恭平が見返してくる。怒っているような顔だった。
「…なんだ、やっぱりまた美月さんのことか」
「やっぱりって何」
「お前の人生、美月さん以外にねえのかっつうことだバカ」
 ぐさり、とその言葉が突き刺さる。

 恭平はたぶん、あたしが家を出ていることを知らない。
朝の電話でも、ちょっと相談があるの、としか言わなかった。
 それでも恭平の考えていることは分かる。
あたしが、美月に干渉し過ぎていると思っているのだ。
 恭平が顔をそむけ、歩く速度を少し早くした。
あたしは黙ってもう一度横に並んだ。また、こんな空気だ。少し後悔していた。
やっぱり恭平は、あたしの知らない美月をたくさん知っている。

 きっと赤坂しのぶって人は、美月の恋人だ。それぐらいあたしにだって想像はつく。
でもそんなことはどうでもいいのだ。
 あたしは美月の奥さんじゃない。
そんなことは分かっている。干渉するつもりなんてない。
 あたしが言いたいのはそういうことじゃない。
遠く離れた恋人同志が会えないのと、近くにいる恋人同士が会わないのは違う。
一緒にいない時間を過ごすという部分では同じだとしても、その中身は違う。
それと同じように、あたしが美月に干渉できないというのと、あたしが美月に干渉しないというのでは、違うと思うのだ。
でもやっぱりこういうことも、疲れと落ち込みの違いみたいに、恭平には伝わらないのだろうか?
 急に、昨日からの疲れがかぶさってくるような気がした。

 今日も弁天街は混みあっている。
昼食時のピークは過ぎたはずなのだけれど、人だらけだ。
あたしは恭平の後に続いて、人ごみを掻き分けて歩いた。青果売りの声が、とても勇ましい。
陰気な空気になってしまったあたしたちとは、まるで対照的だ、とあたしは思った。

 インド料理の大屋台に着いて、恭平は水をぐいぐいと続けて二杯飲んだ。
まるでビールを飲んだ後のように息をついて、恭平は不意に言った。
「最近水本とはどうなんだよ」
 急な質問に、少し面食らう。
最近会ってない、とだけ答えてあたしは目をそらした。
 修二くん。
修二くんとは、最後に食事をしてから連絡を取っていない。
今のあたしはきっと、修二くんに嫌われるようなことしか言えない。恭平ですら苛つかせているくらいなんだから。
 あたしは、修二くんに嫌われたくないと思う。だから今は、距離を置くのが一番いいことだと思う。思ってあたしは距離を取る。
 なのに時々、修二くんに誘われることをあたしは夢想する。
修二くんが、ごはんでもどう?だとかと言って、電話をかけてきてくれることを、あたしは時々考える。
そのあんまりにも都合のいい考えを、あたしはいつも首を振って追い出す。
美月とのことに整理がついたら修二くんに会いに行こう、なんて思っているだけのあたしに、そんなことを考える資格なんてない。
「あいつ、最近元気ないぞ」
 ぴしゃりと、恭平は言った。

 恭平の声を聞いて、あたしは、不意に取り残された気分になった。
恭平はあたしの欲しいものをみんな持っている。美月のことも、修二くんのことも、あたしより詳しい。
あたしには、恭平に羨ましがられるようなものがひとつでもあるのだろうか?
 あたりの音が、急にあたしを包んだ。
隣のテーブルの客が政治の話をしている声や、屋台の奥で交わされている外国語や、有線放送や、車道のオート三輪のエンジン音が、一瞬あたしを包み込み、すぐにあたしを置きざりにして、流れてゆく。
 恭平が店の人を呼んで二人分の注文を告げた。
頼み終わってから、料理は勝手に決めたからな、と不機嫌そうに恭平は言った。

「あのな」
 恭平はとても不機嫌そうな声で、言いかけて、淀む。
眉間にしわを寄せて、一瞬困ったような顔を見せた恭平はテーブルをもどかしそうにとと、と叩いた。
「泣くなよ」
「わかってるわよ」
投げるように言い返して、あたしは鼻をすすった。ちり紙を鞄から出して鼻をかむ。
息が少し苦しかったけれど、涙は出てこなかった。
 大丈夫。泣くほどのことなんて何もない。だから大丈夫。大丈夫だ。

 そして、あたしたちは黙ったまま、料理を待つ。
修二くんとお昼を食べた時のような幸福な沈黙でもなく、美月の前で感じた絶望的な沈黙でもない。奇妙な時間だった。
「飯食い終わるまで、絶対話し掛けるなよな」
 やがて料理が来ると、恭平はまるでへそを曲げた子供のような口調で言った。

「おい」
 恭平がサフランライスをかき混ぜながら言った。
「なによ。話し掛けるなって言ったでしょ」
 あたしはスプーンで皿の底をこつこつと叩く。
香辛料のにおいが、暑いくらいに漂っている。あたしは少し汗をかいていた。
食べ物を口にしたことで、さっきまでの空気がかなり軽くなったような気がしていた。
「ネミッサで言った通り、俺は絶対美月さんと赤坂先生の話は、しねえからな」
 恭平は一方的にさくりと言い終えて、スプーンを口に運ぶ。
 …赤坂先生。
その言葉が耳に残った。やっぱり恭平は、あの人のことを知っている。
あたしだって、恭平があの人のことを知っていると思って電話したのだけれど、こんな風に不意打ちで聞かされると、やっぱり少しショックだった。
 恭平はテーブルに肘をついている。
何を考えているのかさっぱり読めない顔で、こっちを見ていた。
「美月さんがお前に赤坂先生のこと話してないんだとしたら、やっぱり何か理由があるんだろ」
「理由って、どんな理由なのよ」
 あたしが食いつくと、恭平は少し怯んだ。
「そんなのわかるか。俺は美月さんじゃないんだから」
「だったら、あたしだってわかんないよ」
「知るか」
 恭平は言葉を切って、スプーンを置いた。あたしは追い詰められたような気分になっていた。
「言いたいことがあるなら、俺じゃなくて美月さんに言えよ」
 その言葉は、当然のことのはずなのに、あたしにずしんと響いた。
 美月。
あたしは美月の何も言わない背中を思い出した。
答えてよ、と大声を出したあたしに、答えた美月の言葉を思い出した。
ただすれ違うだけだったあの朝を思い出した。

<俺は、お前を、苦しめているんだな>

「あたし、邪魔なのかな」
 あたしは呟いていた。
「あー」
 恭平が、長く声を伸ばす。
ひどく苛ついた調子の恭平の声に、あたしははっとする。汗が、す、とひいた。
「だから、わかんねえやつだな、お前」
 恭平の声が変な風に歪んで聞こえた。
「美月は、あたしと口きいてくれないんだよ?」
 それは言ってはいけない言葉だったように感じた。
実際言ってはいけない言葉だったのかもしれない。

 ぎゅう、と絞られる感覚にあたしは包まれた。

 あたしは不意に苦しくなって目をつぶる。
自分の言葉が、まるで漫画の書き文字のようにまぶたの裏を回った。
渦のように歪む<邪魔>の文字の中で、美月が遠ざかってゆく。
渦に飲まれるように、美月の苦しそうな顔が、遠ざかる。
渦の奥で、女の人が美月に手を差し伸べていた。
美月はまるで子供のように、その人の腕に抱かれる。抱かれる美月の、閉じた瞳。

 お前は、邪魔だ。お前さえいなければ。

美月の声とも、自分の声ともとれる声が聞こえた。
おい、マコト、おい、と恭平があたしを呼ぶ声が遠くに聞こえた。
 そして、あたしは気を失った。

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