[3] 美月を起こす。
9月3日・朝



 目が覚めたときは大抵、どんよりと疲れている。あたしはベッドから出て、まず歯を磨いた。洗面所で鏡に向かい、あたしは自分の顔と向き合う。
歯を磨きながら二、三度変な顔をしてみると、大体、目が覚める。朝ごはんを作る気力がわく。
 歯ブラシをくわえたまま眉をしかめ、あたしは美月のことを思った。
 昨日の夜に出掛けた美月が、いつ帰ってきたのかあたしには分からない。
あたしが眠る頃には、もう帰ってきていたのか、それとも、もっと遅かったのか、確かめる方法はない。美月は、夢の中までも、あたしを侵食する。時々、どうしようもなく苛立つ。

 美月はいつも、こっそり出て行って、こっそり帰ってくる。自分が夜に出歩くことを知られたくないのだ。あたしが心配すると思っているのだろう。
 あたしは、だから、知らない振りをしてみせる。
 あたしにとって、朝まで待つことは別に苦痛ではない。おかえり、と、美月の顔を見て言ってあげられたなら、それだけできっと満足なのだろうと思う。たとえ眠くても、無事な美月の顔を見て、たとえば、<ただいま>さえ聞けるのならば、あたしは起きていられると思う。あたしは美月のためになら、きっと大体の苦労には耐えられる。血がつながっていなくてもあたしは美月の娘だ。
美月があたしのことを思いやってくれているのは分かる。
 けど、もっとあたしにも何かさせてほしい。
美月はあたしのために働いて、あたしのために色々なものを買ってくれて、あたしに何一つ負担がかからないように、先手先手であたしのまわりに環境を作ってくれる。
<でも、じゃあ、あたし、なんのためにいるの?>
 あたしだって美月のために、なにかしてあげたい。そう思うのは、不自然だろうか。

 あたしは少しだけ悲しい気持ちになって、コップを取った。
つまんないこと考えるのは止めよう。そう思ってあたしは頭を振る。
「朝ごはん、作んなくちゃ」
 あたしは軽いため息と一緒に、呟いた。
 朝が来る。目が覚める。また、あたしの一日は始まるのだ。
簡単に身仕度をして、あたしは二階に下りた。毎朝、二階の食堂で、あたしは朝食を作る。



 キッチンに立つあたしのまわりは、本当に朝の空気だと思う。
それは朝ごはんを作っているからではない。朝のニュースが付けっ放しのテレビから聞こえるせいでもない。大通りに面した窓の、下ろしたブラインドからもれてくる照明は、確かに朝の光に似ているけれどやっぱり違う。
 たぶん、そういうことではなくて決意の問題なのだ。
あたしは新しい一日を始めるために、キッチンに立ってごはんをつくる。たまごを焼いたりごはんを炊いたり、味噌汁を作ったり、自分でも誉めてあげたくなるくらい毎日、しっかりとごはんを作る。
 きっと、その決意が、朝の空気になるのだと思う。
あたしは、ごはんを作る前に、美月を起こしに行こうと思った。

 今日も寝室で美月は、ベッドの上に丸まるようにして眠っていた。
とても苦しそうな顔をしていた。美月は、いつも本当に無防備な顔をして眠る。
「美月、朝だよ」
 あたしは呟くように言った。眠っている美月を見ると、わけもなく悲しくなる。悲しくなるというのはちょっと違うかもしれない。あたしは、とても、自分の無力さを知る。
 あたしが美月にしてあげられることって、少ない。そんな風に思う。
 美月がうめくように何かを呟いた。
「………すまない……」
 あたしは眠っている美月のそばで、身体を固くした。美月はもう一度、すまない、と絞るように呟いて、身体をぎゅっと丸めた。とても、苦しそうな顔をしていた。
 あたしは気付かれないようにそっと、急いで、美月の寝室を出た。

 キッチンに戻ってフライパンを熱くする間に、あたしは美月の寝言について考えた。
 …すまない、か。
あたしはさっきの美月の顔を思い出した。苦しそうに、丸まっていた美月。
美月はいつも、苦しそうに眠る。どうしてだかは分からなかった。ずっと前に一度聞いたけれど、結局答えてもらえなかった。これはもう死ぬまで直らないだろう、とだけ美月は言った。きっと、小さい頃から美月はああいう風に眠る人だったんだろうと思っていた。
 そうじゃないというのを初めて知ったのは何年か前だ。あたしが美月の寝言を聞いてしまったのはこれが初めてではない。美月の眠りは本当に無防備だ。
寝言はとても断片的だけれど、十分すぎるくらいだ。いつもあたしは何も聞けなくなる。
これはもう死ぬまで直らないだろうなんて、あんまりな台詞だ。たぶん、その通り、美月は死ぬまで夢の中で謝り続けるのだろう。それを告げたときの美月の顔は、とても静かだった。あたしはその時の美月の表情の意味を考えた。
 苦しそうに眠る美月に、あたしは、本当に何もしてあげられないのだろうか。
 たまごが焼けたら、もう一度美月を起こしに行こう。あたしは思った。

 たまごを焼き上げて、あたしはもう一度美月の寝室に向かった。
冷めたたまご焼きはあんまりおいしくないと思う。あたしは少し急いだ。
「ねえ美月…!」
ドアを開けながら大きい声を出そうとして、あたしは途中で止まった。
美月はすでに起きていた。ベッドの横に腰掛けて、美月はうつむいていた。
「…美月……?」
あたしは反射的に美月を呼んだ。けれど、どうしてか、部屋の中に入ることが出来なかった。入ってはいけないような気がしたのだ。そこに立ち入ることは出来ないと思った。
 一緒に住んでいる頃、あたしは美月のこんな姿を見たことがない、と思った。あたしは戸惑っていたのだろうか。美月の肩からちくちくと痛みが伝わってきた。息をすることさえ苦しそうに、美月は、じっと自分の足元を見つめていた。
美月がゆっくりとこっちを向くのを、あたしは息を殺したままで見た。
「………」
美月は黙ったまま、あたしの足元に張り付いている影を見ているようだった。美月はゆっくりと、打ち消すように首を振った。あたしはどうしてだか息が苦しくなって、美月から目をそらした。
部屋の中の空気が、怖いくらい美月でいっぱいになっていた。息をするだけでも、あたしは美月に溺れてしまいそうにな気がして、本当に怖かった。
 ひどく長い間、あたしは黙っていた。美月も喋らなかった。
「…朝ごはん…」
あたしは美月の方を見ないで小さく言った。
声を出した瞬間、あたしはここにいてはいけない、と感じた。美月はぴくりとも動かなかった。けれど、どうしてだか、もう、あたしがここにいること自体が美月を苦しめている、と直観的に感じたのだ。
「ごめん」
 あたしはなるべく美月に聞こえないように言って、ドアを閉めた。
さっき美月が寝言で言った“すまない”という言葉が、やけにあたしの中で響いた。       


 あたしはいつもと同じように一人で静かに朝食をとった。
美月の寝室からは、人の気配がしない。動いてる様子もない。まるで息を潜めてるみたい。

 確かに美月が朝ごはんを食べないのはいつものことだ。
あたしがごはんを食べている間、いつも美月は眠ったまま、食堂に姿を見せない。そして、あたしが片付けを終えて、洗濯を始める頃、隠れるようにして起きだしてくるのだ。もう、この二ヵ月、ずっとそうだ。一緒に住んでるときは、美月が朝ごはんを食べないことぐらい、全然気にしてなかったのに、最近何だかすごくイライラする。

 あたしは、さっきの、うつむいた美月の姿を思い出す。あたしは急ぎすぎたのだろうか。
今はただ単純に悲しい。あたしの席の前に、美月の分のたまご焼きがおかれている。たまご焼きはゆっくりと冷めてゆく。あたしにそれを止めることは出来ない。あたしは冷えてゆくたまご焼きを見つめることしか出来ない。
<あたしと一緒にごはんを食べたくないなら、そうはっきり言ったらいいじゃない!>
 そんな風に言えたらどれだけ楽だろう。最近美月は口を利いてくれなくなった。
…でも、美月はあたしのことを愛してくれている。美月はあたしを、自分の子供でもないのに、すごく苦労して育ててくれた。美月とあたしはきっと、血がつながっていないからこそ、強くつながっていたんだと思う。あたしと美月はいつも、お互いのことを思ってきた。
だから、口を利いてくれないのも、きっと、何か、理由があるんだと思う。そう思い直してその言葉を、あたしはいつもしまいこむ。

<美月、どうして、話してくれないの?>

 あたしは少しだけ泣きそうになった。
あたしは黙って、少し冷めてしまったたまご焼きを食べた。甘かった。おいしかった。
 あたしはほんとうに泣きそうになってしまった。
 ごはんって、おいしい。ほんと、ごはんっておいしい。


 ごはんを食べてあたしは、美月を置いて出掛けた。
行き先さえ決めずにあたしは部屋を出た。とにかく今は外に出掛けたかった。行ってきますさえ言わなかったのはたぶん、美月と顔をあわせるのがつらかったからだ。
だってもう、どんな顔をして美月におはようを言えばいいのか、見当もつかない。今のままでもう一度会ったら、絶対にあたしと美月は、傷つけ合わずにはいられない。と思う。今日はもう、美月と顔を合わせられない。
 いつかきっとあたしは、美月を、そしてあたしを、本当にざっくりと傷つけてしまうと思う。あたしと美月の間には、取り返しのつかないことが待っている気がする。
 いっそのこと、家を出た方がいいんだろうかと思う。あたしと、美月は、やっぱり一緒に住んではいけないんだろうか。
あたしは二番街への道を歩きながら、ゆっくりと、天井を見上げた。
 屋根の外、今日は晴れ?曇り?洗濯するにはいい天気なのかなあ?
あたしは考えて、少しだけかなしい気持ちになった。
 全部のことを忘れたい、と思った。

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