[2] 少年と出会う。

9月2日深夜から9月3日早朝にかけて




 あたしは夜のアーケードを歩く。
美月が二階に引っ越してしまってから、あたしはあまり眠れないようになった。あれはもう二ヵ月も前のことだ。もう、二ヵ月もあたしは満足に眠れていない。
 もちろんこんなこと、美月には言えない。言ってもしょうがないと思う。それに、たぶんそれは美月を困らせるだけだ。あたしは、美月の邪魔にだけはなりたくない。
 結局あたしは一人で夜に立ち向かう。
夜に見る夢も、目が覚めた後の真っ暗な部屋も、あたしの世界だ。だから、あたしが、自分で決着を付けなければならないと思う。
 けれど、まだ、あたしは眠れない夜に対抗する手段をまだ持っていない。
どうすれば、眠れるようになるのだろう。

 夜を歩くのは半分、あたしの日課になっている。
決して楽しいわけではない。怖いなと思うこともある。けれど、ぐしぐしと、ベッドの中で丸くなっているのはその何倍もつらい。だからあたしは夜のアーケードにすべりだす方を選ぶ。何も考えないで、歩く。それも、必要だと思う。夜も開いているお店の窓ガラスに映るあたしの顔は、人形のように無表情だ。夜の間、どんな顔をすればいいのか、分からなくなる。
歩くコースは決めているわけではないが、大体行けるところは決まっている。ロッサ・カンディーダだとか、カエサルだとか、あの辺りまで行くとあたしは大抵、帰りたいと思うようになる。心細くなるわけではないが、もう、帰る時だという気持ちになる。
一度、ロッサ・カンディーダがショーウインドウの模様を替えているのに出くわして、朝までそれを見ていてしまったことがある。その時のことが関係しているのかもしれない。
 朝まで気持ちをひきずっていてはいけないと思う。朝になればあたしには明日の生活が待っている。美月とも会わなければならない、他の人とも会う。
 朝まで気持ちをひきずっていてはいけない、と、思う。

 ロッサ・カンディーダのそばの裏道を通っていた。
その少年に会ったのは、もう帰ろうかと思い始めたときだ。
城山ビルの、ぶち抜きのトンネルの所に彼はいた。地面に座り、靴磨きの道具を鞄にして、彼はいた。浅黒い肌の、子供だった。外国人らしかった。子供と呼ぶのは彼にとって失礼になるかもしれない。彼は、しなやかな、少年だった。
 あたしは夜の中に住む彼を見た。
なんだかそれは、絞られるような気持ちだった。漆喰と落書きのトンネルの中に溶け込むようにして座っている彼を見ているのは、なんだかいけないような感じがした。
 彼は、見られることを望んでいない。そう、直感のように思った。
しかし、彼の様子が変なことにあたしは気付いた。彼から眼を離そうと思う直前に、彼がうずくまるようにしていることに、あたしは気付いた。
 あたしは近寄って声をかけた。彼は気を失っているようで、返事はなかった。
それがあたしと、彼の出会いだった。

 あたしは気を失っている少年を背負って、林先生の所へ行った。
どうして彼を林先生の所に連れていったのかと聞かれても、あたしは答えられない。けれどそんなことを言うなら彼を放っておく理由だって、どこにもない。人が動くこと全てにいちいち理由があるというのは多分、あまり生産的な考えではないと思う。
 あたしの背中で彼は少し熱っぽく、汗をかいているのか少し湿っていた。彼の荷物を抱えて、彼を背負うと、結構な重さだった。あたしは彼と同じように少し汗をかき、時々は休みながら、彼を背負って歩いた。
建物の前に着くまで、あたしは、今が夜だということを意識していなかった。背負った少年が死んだらどうしようとも、考えていなかった。なんだか、ふわふわと漂っているような気分だった。これは夢なのだと言われれば、ああそうなのかとあたしは納得しただろう。
 しばらく歩いてようやく辿り着く頃には、もう、彼はあたしの体の一部のようになっていた。変な一体感があった。
 あたしは彼を背負って林医院の入口の前に立った。もう随分な時間だというのに、どういうわけか林医院の扉は開いていた。アーケードの夜間照明を切り取るように入り口から黄色い光が漏れていた。
その明かりを見ながら、初めてあたしは今が夜なのだということを理性で理解した。もしも林先生が寝ていた場合、あたしはどうしたのだろうか。こんな半端な気持ちのまんまで林先生を叩き起こしたんだろうか。なんだか、少し怖くなった。
少し不思議に思いながら中に入ると根っから夜の住人みたいな顔をした林先生が入り口の横の椅子に座っていて、顔を上げた。
こんばんはマコトさん、と林先生は言った。林先生のいいところは、あまり、驚かないところだ。林先生は少し疲れているように見えたけれど、少なくとも少年を背負っているあたしを見て驚いた様子はなかった。林先生はとても、落ち着いているように見えた。
 先生こんばんは、とあたしは言った。変に落ち着いていた。

 切り出し方を迷って、この子なんですけど、とあたしは言った。考えてみると彼の名前すら、知らなかったのだ。そこで初めて林先生は、困ったような不思議な顔をして、あたしの背中で息をしている彼を見た。
どうしたの?と先生は聞き、道に倒れてたんですとあたしは答えた。
 なんだか、奇妙な会話だった。とにかく見てみないといけないね、と林先生はあたしの背中からそっと彼を受け取ると、奥の診察室に連れていった。
 あたしは、さっきまで林先生が座っていた椅子に座ってため息をついた。
あたしの降ろした靴磨きの道具を詰めた鞄が、木の床にぽつんとしていた。
喉が渇いたなと思った。とても静かで、何だかさびしかった。あたしは、あたしの背負ってきた少年と、あたしのことを考えた。あたしと彼は数十分前まで、まるで接点がなかったのに、どうして、こんな気分なんだろう。あたしはもう一度、ため息をついた。

 診察室から出てきて林先生は、一日は寝かせなければならないね、と言った。
 <彼の家分かりますか?>
林先生は小さな声で言い、あたしは首を振った。本当に分からなかったのだ。
林先生は少し困ったような顔をした。あたしは、前に置いてある少年の鞄を見つめた。
 大丈夫なんですか?とあたしが聞くと、先生は、平気ね、死なない、と笑った。
少し間が空いて、あたしと林先生は息をついた。
林先生はやっぱり何か少し、疲れているようだと思った。あたしは、先生が何を考えているのだろうと考えた。先生のふっくらした横顔は、まるで赤ん坊のようだった。

 そうだ、お金。とあたしは唐突に思い出した。
 <あの、これで足りるといいんですけど>
あたしは五千円札をおさいふから取り出した。
 自分でも、どうしてそこまでしてあげる気になったのか、分からなかった。もともとあたしは金銭感覚にも疎いところがあるけれど、五千円という額が小銭の単位でないことぐらいは分かっていた。お金が絡むと、いつもややこしくなる。
 マコトさんアナタあの子の知り合いか?と林先生は訊ねた。
またあたしが首を振ると、林先生は少しだけ驚いた顔をして、それから穏やかに頷いた。
林先生の顔はいつでもやさしい。つらいことも、美しいことも、全部を、分かっている人みたいな顔だ。
 林先生はやさしい声で、また明日来なさい彼も感謝する思うよ、と言った。



 そしてあたしは、彼を置いて家に帰った。
別に、感謝されたくてしたわけじゃない。彼を憐れんだわけでもないと思う。
けれど、どうしてお金を出したのか聞かれても、きちんと答えられないのは確かだった。
 あたしは何を考えているんだろうと医院を出ながら考えた。
振り返って見上げると、二階の隅の部屋に明かりがついていた。
本当の夜のなかで見付けた明かりのような気がした。力強い明かりではなかったけれど、あそこにいる人はたしかに今、起きているんだと思うと少し、気持ちが強くなった。
 海の底みたいな蒼い照明の下、あたしは前を向いて、きちんと、家に帰ろうと思った。

 家に着くともう四時に近かった。あたしはシャワーを浴びて、ベッドにもぐりこんだ。目が覚めたら、朝になっているはずだった。実際朝はすぐそこまで来ていた。
 体は正直に疲れていたらしい。
干したままの洗濯物のことも忘れ、ベッドに入ってすぐにあたしは深く、眠った。

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