(4)

 とりあえず校内の電話からかけたが、船橋路瑠は不在だった。
電話口では母親らしき女性が不審そうに、路瑠なら今日は少し遅くなると言ってましたけれど、と告げ、俺は自分の連絡先を聞かれそうになる前に電話を切った。
船橋路瑠の不在が示すのは、彼女が待ち合わせの場所に向かっているという事実だ。
否が応でも切羽詰ってくる。
時刻は六時を少し回ったところだった。七時まで、一時間しかない。

 軽田が肩をすくめるようにして、参ったね、と俺を見る。
確かに、と言おうとした瞬間、ふい、と軽田が俺から目線をはずした。

 柿島先輩!

 軽田が硬く、大きな声を出した。
その視線の先を追うと、廊下の向こうに、剣道着を着た集団が見えた。
連中は体育館からあがるところのようだった。
呼ばれた坊主がタオルで顔をぬぐいながら、ああミヤちゃんか、と静かに身体を向ける。
坊主は白い剣道着を着ていた。
よく見ればさっき俺に木刀をお見舞いしてくれた豊田が、隅の方にもいた。
船橋路瑠の件が片付くまで、こっちは放っておいてやろうと思ったが出会ってしまってはもう遅い。
 ぐっと俺の鼓動が早まる。

 そこの人もちょっと!と、近づきながら軽田は、豊田を指差した。
そこでようやく軽田が剣呑な雰囲気を発散させていることに気付き、俺は軽田を追いかけた。
 聞こえなかった振りをして残りの連中に混じり、引き上げようとする豊田を、坊主が続けて呼び止めている。

 近づくとようやく、坊主と豊田は俺に気付いたようだった。
坊主が表情を硬くして、持っていたタオルをゆっくりと下げた。
豊田が、坊主の影にさりげなく隠れる。
 昼間の決着は結局ついていない。二対一、上等。
ゴタゴタはひとつづつ片をつけていかなければならない、か。なるほど。
もうここまで来たら誰をぶちのめすのも、誰にぶちのめされるのも一緒だ。
 豊田が腰の引けた声で、なんやお前、と坊主の影から俺を見る。
坊主は冷静な顔で俺を窺ったままだ。
やるかこの野郎、と言いかける俺を軽田が押しのけて啖呵を切った。

 なんやお前、は、こっちの台詞じゃ!

 芝居のように張りのある声だった。
言いながら軽田が、たん、と小気味よく一歩踏み出し、豊田と、つられたように坊主までが一歩退いた。
一拍おいて俺は軽田の方に、顔を向けた。
 …方言だって?

 何やのあんた!
軽田は、俺が口を挟む間もないくらい威勢のよい方言で豊田に詰め寄った。
ちょっと待てよミヤちゃん何のことや、と坊主が二人の間に割り込むと、軽田は憤慨した顔で、豊田と俺のほうを指差す。
 さっきそこの下膨れが村上くんのこと、木刀で殴りよったんですよ!
坊主は困惑した顔で豊田の方を見た。
 なんや豊田、本当か。
豊田は俺と坊主を見比べ、一拍遅れて首を振る。

 その返事を見るなり軽田は、ひゅっ、と恐ろしくシャープな角度で振り向いて、俺をまっすぐに見つめた。
ほんの少しため息をついて軽田は、いきなり俺の右肩をばしんと叩く。
遠慮のない力具合に俺は、でっ、と唸ってうずくまった。
何すんだ馬鹿、とうめく俺を無視して軽田が坊主の方へ向き直る。
 こんなになるくらい叩きよったんですよ!
見上げる俺の目の前でスカートの裾が翻る。
軽田の足の向こうに、固まる坊主と、挙動不審な豊田が見えた。

 豊田が苦し紛れに俺を指差し、そいつが先に、と何かを言いかけると軽田は、後ろから見て判るくらいに毛をそばだてた。
 何やと?
軽田はクレッシェンドしてもう一度繰り返す。何やと!?
 あんた、よくそんな恥知らずなこと言いような!?
豊田はひきつったような表情で口を開けた。
俺は軽田に飲まれ、言葉が出ない。
今にも掴みかかりそうな軽田と豊田の間に坊主が、す、と体を割り込ませ、難しい顔をした。
軽田は坊主にまで食ってかかろうとする。

 よせよ、と肩を引っ張ると、軽田は怖い顔のまま振り向いた。
そのまま俺の手を掴み、村上くんもう行こう、アホがうつりよおで、と軽田は口をへの字に曲げた。
ぎょろりとした目で坊主が軽田を見ると、軽田は真っ直ぐな顔で坊主を見返した。
 アホの味方するんはアホやと思うし、それ以上そのアホの味方するのんやったら、あたし、柿島先輩のことも軽蔑しますけん。
 さよなら、と痛烈な一言を残して軽田は俺を引きずり、坊主に背を向けた。

 校門へ続く並木道。
第一校庭では、どこかの部がまだ、トラックを走っていた。
土臭い音が響いている。
 なあ、と俺は、つかつか硬い足音で先を歩く軽田の背中に声をかけた。
返事はなく、何から言えばいいのか、少しだけ途方にくれる。

 校門を出てすぐ左に折れ、黙ったまましばらく歩いた。
道沿いに、あまり水量の多くない川が流れている。
水量が多くないくせに、川幅だけは広い。この地方独特の川の感じだ。
白い鳥が一羽、その泥の中に佇んでいる。
橋の手前にあった案内板に、矢印して大吠駅跡記念公園、と書いてあった。
そう遠くない。
 川べりの木立の根元が、そろそろ影に飲み込まれ始めている。
夕焼けは泥の色だと言ったのは誰だったか。
そんなことを考えながら歩き、俺はもう一度口を開いた。

 お前も、方言で喋ること、あるのな。
返事を期待しないで言うと、ようやくちろりと横目で俺を見やって軽田は口を曲げた。
 おかしい?
 いや、方言喋らないやつなのかと思ってたから。
 そういうわけではないよ。
不機嫌かと思われた軽田の声は、全く意外なことに、とてものびやかだった。
その声は夕暮れてゆく川辺に映えた。

 柿島先輩、責任感強い人なんだけど、そのせいで身内に甘いのだよ。
しばらくすると軽田は、そんなことを言ってくすりと笑った。
 けど、あれだけ言えば、柿島先輩も少しは分かるでしょう。
同意を求めるように軽田が肩をすくめてこっちを見る。
 殴ってやればよかったんだよ。
毒づいて俺は、保護者面をした軽田に顔をしかめた。
 殴りあうだけが喧嘩ってわけじゃないし、と軽田は鞄を振りながら横に並ぶ。
余計なお世話だ、と俺が言うと軽田は、呆れた、という風に首を振った。
 …そういうの、すごく男の子っぽくて、面白いと思うけど。
呟くような軽田の声が俺をくるむ。
 変な意地張らなくてもいいんじゃない?
軽田が前を向いたまま目を細める。
 ねえ、覚えておいて。
軽田の唇がすっと開く。内緒話のような声。

 別に村上くんの味方が、どこにもいないってわけじゃないんだよ。

 秘密を打ち明けるような声が、突然俺の頭から何かを蹴っ飛ばして真っ白にした。
俺は、ぽかんとしたまま、軽田の横顔を見つめた。
 ぞぞわと、静かに背中が騒いだ。
不意に、息をすることを忘れていたことに気付き、慌てて息を吐いた。
軽田の横顔から目を引き剥がす。
 なんだそれ、と呟いて誤魔化そうとすると、軽田はいつものように、にいー、と笑って俺を見た。

 あたしは、高校卒業したら東京の大学に行くの。
言って軽田は、肩をすくめて川のほうをむいた。
 なんだよ、急に。
 方言の話。東京にいくから方言、矯正してる、という話だよ。
軽田は振り向いて目を細め、俺を見る。
 あたしは東京の大学にいって、勉強して、医者になるの。家が医者だから。
目を細めたけれど軽田は笑わなかった。
 退屈そうな進路でしょう、と、そのままの顔で言う軽田に、俺は返事ができなかった。
医者っていう職業自体はやりがいもありそうだし嫌じゃないよ、でも、と軽田は続ける。

 でも、今のあたしには何もできないから。

 その声を合図にしたように、ざっ、と風がふいた。
暑さの残りを撫でるような風だった。地面を這うように、風が流れた。
 だから高校を卒業するまで、退屈から逃げられないんだろう、と、思うんだ。
軽田の落ち着いた声は、その低い風に乗る。
俺は黙ったまま軽田が喋るのを聞いていた。

 ほんの少しだけ、軽田の気持ちがわかる気がした。
喧嘩の後の感覚を、俺は思い出していた。
俺から逃げていく充実感の尻尾。
幾ら喧嘩を繰り返しても、充実した瞬間、なんてものは俺を迎えてはくれない。
一秒前のあの瞬間が無駄だったのかもしれないと思うことがある。
 俺は、何も、できない。
そのことが、俺を焦らせる。

 今、軽田は退屈と言った。
退屈と焦燥は類義語ではない。そんなことくらいわかっている。
けれど、何故だか、その二つは別のものではないという風にも思った。
俺たちを捕まえているものは多分、一緒なのだ。
 今の自分には何もできない。
それが俺たちを捕まえているのだ。
軽田はそれを「退屈」と表現し、俺は「焦燥」と表現する。
それだけのことなのだ。

 黙って足元の石を蹴ると、軽田がちらりとこっちを見た。
解るよ、とだけ俺は言った。
それを聞くと軽田は、一瞬、ひどく嬉しそうな顔をして俺に鞄をぶつけた。
 味方がいるって、そういうことよ。村上くん。
少しだけ勝ち誇ったような軽田の声に、俺は口をあける。
とっさには憎まれ口を叩くことさえ出来ず、俺はただ、軽田の顔を見つめた。
何かを言おうとして、やめた。

 大吠駅跡が、近付いてきていた。

続く

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