(5)


 大吠駅跡、というのは聞いたとおり、ただの小さな記念碑だった。
この町に初めて機関車が通った時の駅の名残だという。
小さな記念碑の裏には資料館と、小さなプラネタリウムが建っている。

 低い鎖で囲まれたその記念碑の前に一人、俺は立っていた。
時刻はそろそろ予定の七時。
見晴らしはあまりよくない。
記念碑の前、数メートル四方の開けた場所を囲んで、辺りはすぐ林だ。
夕暮れはいよいよ深くなり、影はますます暗く、濃くなっている。
ひぐらしの他は、とても静かだ。
船橋路瑠も、例の三年生も、まだ、いない。
 俺は独りだ。
暗い地面から目をはがし、雲の流れない空を眺めて俺は、息をつく。

 静かに、軽田のことを考えた。
公園の入り口で、軽田を帰した。
じゃあここで、と先手を打って俺が言うと、軽田は話の腰を折られたような顔になって、ああ、ああ、と二度、繰り返して頷いていた。
そして少し目を伏せて、軽田は少し黙った。
 がんばりたまえ、とだけ軽田は言った。

 考えてみると、今日ほど長く、軽田と話をしたことはなかった。
昼の焼ける屋上を思い出し、それからまだ半日しか経っていないのだと思ったら、なんだか妙な気分になった。
色々なことがありすぎたんだ、と俺は呟いた。
全く色々なことがありすぎた。

 俺は手首をほぐしながらひとつひとつ、思い出してゆく。
振り返る坊主のぎょろりとした目。
三年生のシャツ。
浴びせられた水。
坊主の頭突き。
油蝉の声。
船橋路瑠の下げていた大きなトートバッグ。
木刀の衝撃。
屋上で見上げた青すぎる空。
手紙を覗き込む軽田の体温。
水飲み場の流しの音。
 記憶が少し混ざり、一瞬だけ、その順番で全ての因果関係が繋がっているような錯覚を覚えた。
けれど。
すぐに記憶は、井戸の中へ小石が沈んでゆくように、消えてゆく。
関係のあることなんて、なにもない。
ただ、時間が流れているというだけだ。
連続しているのは時間だけだ。

 玉砂利を踏む音がした。
ざり、ざり、ざり、と音はプラネタリウムの方から近付いてくる。
それなりに歩幅のある、男の足音だ。
聞きながら左手で左眼を覆い、そのまま俺は髪をかきあげる。
大きく深呼吸して、俺は自分の体がここにあることを確認した。
 呼吸も乱れていない。
考えるのはもうやめだ。
俺は手をゆっくりと下ろす。覚悟は出来た。

 のこのこ来てるんじゃねえよ馬鹿。

 俺は植え込みの影から姿を見せた三年生に、低く声をかけた。
三年生は一瞬固まり、俺を認識して、凶悪な顔になった。
甲高さの混じった声で、てめえ、と奴は俺を睨む。
そういえば、俺はこいつの名前も知らない、と小さく思いながら俺は動いた。
 ざりり、と足元の音が蝉の声を止める。
これが済んだら喧嘩だとか止めたら?と言った軽田の声が少しだけ頭の隅に浮かんだ。
 俺は奥歯を噛み締め、軽田を頭の中から追い出そうとした。
…喧嘩の前に気が散るようなこというなよ。
独り言のように思うと、軽田が肩をすくめ、暗闇にぱちん、と消えた。

 三年生もジリジリと近付きながら威嚇するように間合いを詰め、殺すぞボケ、と高くしゃがれた声を出した。
再び、ぱちん、と指を鳴らすような音が頭の中に響くのを感じた。

 来いよ。
手招きをして、三年生の顔を見ながら俺は叫んだ。
 来いよ!マヌケ!
聞いて三年生は震えるように鞄を投げ捨て、おああ、と吠えた。
ざ、ざざ、ざ、と乱れた足音が響く。
攻撃態勢でこっちへ走る三年生の腕が上がった。
 息を吐いて俺はその懐に一歩踏み込む。
三年生の拳が俺のこめかみの上を捉えたが、浅かったので構わず腹へ反撃をお見舞いする。
柔らかい手ごたえがあった。
 ふっ、と息を吐き出す三年生を突き飛ばすと、奴はよろけながら何歩かつんのめって体勢を立て直そうとした。
踏みつける砂利の音と、息遣いの音が、いやに響く。
離れるときにぶつかった右肩が、じわりと痛んだ。
 肩に構わず俺は、整わない相手の体勢に掴みかかった。
掴んで引き倒そうとすると、再び肩が痛んで、俺は思わずうめいた。

 その隙に手を払われて、もう一度こめかみを殴られる。
一瞬視界が真っ黒になって、俺はよろめいた。
殺す、殺す殺す、と喚きながら掴んでくる奴から左目をかばい、俺は左手でその襟首を掴んだ。
 てめえこそ死ね、と頭突きを叩き込むと奴の顔に血がしぶいた。

 思わず掴んでいた手を離すと、三年生はひわあ、と情けない悲鳴をあげて尻餅をついた。
俺は奴を見下ろしながら拳を握り、少し逡巡した。
 やがて、その血が三年生の血ではなく、俺の血だという事に気付く。
手をあげて自分の顔を触ると、べたっと血がついた。
それほど多い出血ではないようだったが、一瞬背中が寒くなった。
どこをどれくらい切ったのか。

 顔を切った、と思うと不意に血が滾った。
振り切るように俺は、尻餅を突いたままの三年生に再び掴みかかった。
馬乗りになって殴りつけると、殴るたびに、ぴ、と俺の血が飛んだ。
奴のはだけた胸や、ワイシャツに血の跡が跳ねる。
血を見たせいか、負けを悟ったせいか、三年生は喧嘩を続ける気をなくしたようだった。
俺は両手で顔をかばうだけになった奴の襟を掴んだ。

 冗談じゃない、全く冗談じゃないぜ、畜生!
それだけ言って、続きが出てこなかった。
訳のわからない衝動が、俺を支配していた。
顔から流れる血や、船橋路瑠のこと、突き飛ばされた軽田のこと、何度も蹴飛ばされた脇腹の痛みが頭を駆け巡っていた。
 もう一度殴ると、判った、もう判ったけん、と三年生は悲鳴をあげた。

 それを聞いて、不意に、何かが剥がれ落ちるように全てが消えた。
勝負はついていた。もはや、俺の中に燃えるような激情は残っていなかった。
 燃えかすのように、肩がしくしくと痛み始めた。

 俺は三年生を引きずり起こした。
痺れるように右肩が痛んだが、むしろその痛みを味わうように俺は乱暴に三年生を引き起こした。
 帰れよ!てめえ、帰れよ!
立ち上がろうとする三年生の尻を蹴飛ばして、俺は叫んだ。
怯えた顔で三年生はつんのめり、砂利に突っ込んだ。
怒りというよりも、寂しさのようなものが俺を満たしていた。
 畜生、帰れ、豚野郎!
俺は大声で叫び、三年生が鞄を拾って逃げて行くのを見た。
やがて、奴の姿が見えなくなって俺は小さく、ばかやろう、とその場に座り込んだ。
どん、と寝転がって俺はもう一度、ばかやろう、と呟いた。

 もう、さすがに空の色は夕焼けから青へ、夜へと向かっていた。
背中の玉砂利はひんやりしていたが、大粒過ぎて、少し痛かった。
記念碑の落とす影は、すでに地面の色に溶けている。
 まるであっけないじゃないか。
玉砂利に冷やされるように、感情が、背中から地面へ溶けてゆく。

いいことねえよ、と一人呟いて俺は血でべとべとした手で、顔を掴んだ。
切れたのは、左の眉の脇のようだった。
指でなぞると傷口がそれほど大きくないことが分かった
掌の血は、もうゆっくりと乾き始めている。
出血も、もう止まり始めているようだった。
落ち込みそうだったので、ははは、とわざと笑ってみた。
あまり変わりはなかった。

 ネクタイを緩め、肩に手を入れて俺は、湿布の裏で手を拭いた。
湿布の裏の、綿のような質感が、掌に心地よかった。
船橋路瑠がここにやってきたとして、俺の有り様を見て、なんと言うだろうか。
俺はなんと説明するのだろうか。
 ゆっくりと、俺は体を起こした。
起こすときについた右手をつくと、肩が我慢ならないくらいに痛んだ。
あえいで俺は立ち上がり、顔を拭う。

 ここに来る途中で見た公園内の水飲み場で、顔と手を洗おう、と思った。
俺のワイシャツにも点々と血が飛んでいる。
この格好で一人、家まで帰るのかと思うと気が滅入った。
 とぼとぼと歩きながら、俺はもう一度空を見上げた。
ほんとうに青かった。

すこしだけ続く

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