[2] 弁天街にて

9月2日・昼

 空っぽな気持ちだ。
ソファーに体を埋めて、天井を見上げる。
屋根で塞がれたこの町と同じように、家というものは、人をふさぐ。
 ただ入れ物に塞がれて、徐々に僕達はあるべき形に慣らされてゆく。
顔のない、四角いなにか、別のものに変わっていってしまう。
ゆっくりと部屋の形に近づいて、僕はどんどん記憶をなくしてゆく。
昨日の出来事も、全て夢のように、薄れてゆく。

 全部、夢のように。
ただ、薄れてゆく。現実は過ぎ去った瞬間過去になり、そして、薄れてゆく。
薄れないものは、ただ、僕を縛るだけだ。
全てが現実ならばいいのに。すべて、薄れて、過ぎ去ってしまえばいいのに。
 僕は、何年たっても薄れない感覚に縛られながら、天井を見つめつづけた。

 このアーケードには、様々なものが流れ込んでくる。
そう寺田さんは言った。
 全ての人間が必要な役割を果たし、あるべきところにあるべきものを配置すること。
それが必要だと寺田さんは言った。
僕は寺田さんの、しわがれた声を思い出しながら、目をつぶった。
目をつぶると、いろいろな人の声を思い出す。
声だけが僕の中に戻ってくる。何を喋っているのか時々分からないこともあるけれど、声が聞こえる。
声の中には、とても懐かしい声も混じっている。
だから目をつぶるのは、時々、嫌いだ。

「おい水本、起きてるか」
 大きな声で僕は身を起こした。
同居している恭平の声だった。この部屋は少し変わった形になっている。
玄関は二つあるのに、中でつながっているのだ。二つの部屋の間に、共有の空間がはさまれている形になっている。
 僕は髪の毛をわざとかき回し、たったいま目が覚めたような顔をして真中のリビングにつながるドアを開けた。
「…起きてるよ」
「飯食いに行こう、飯」
恭平はすでに出かけるような格好に着替えていた。
「いいよ、僕は」
前のときと同じ返事。
「うるせえな、俺は独りで飯を食うのが嫌いなんだよ」
前のときと同じ悪態。
まるで儀式のように繰り返して僕達は外に出た。

「なあ、お前、ちゃんと飯食ってんのか?顔色悪いぞ」
 恭平の声は、少し羨ましい。明るい、通る声だ。
「なあ」
とりあえず、僕達は弁天街に向かっているようだった。
弁天街は、名前から色街に間違えられることが多いが、実際は屋台街だ。
とにかくたくさんの屋台が出ている。圧倒的な量の食べ物が、売られている。
あの辺りに出かけて、この中に自分の知っている人が一人もいないと思うと、少し、気持ちが酔うような感じを覚える。自分が、ただのかけらでしかないと、実感できる。
その感覚は、とても途方がなくて、いいと思う。
 ぼんやりと、食べるものを考えていた。
「水本お前、聞いてるか?」
「…うん、聞いてない」
「今日は麺類食いたくねえなあ」
「そうだね」
 僕たちの会話は、微妙にかみ合わない。
「あー、かったりいなあ、くそ」
恭平が首を回しながら、何かを放り投げるような調子で言った。
顔を上げて恭平の横顔を見ると、言葉と裏腹にとても、楽しそうな顔をしていた。
時々、ひどく彼の、ものを気にしないところが羨ましくなる。
いや、違う。羨ましいというより、ただ、劣等感だけを感じるのだ。
恭平はそれに気がついていない。気が付いているのだろうか。
僕は別に劣等感を感じたと言ってどうということもない。
いつも通りの顔で、いつもどおりの息を吸い、吐くだけだ。
ちらほらと屋台が見えてくる。
「何を食べようか」
「よし、今日は肉食おう、肉」
恭平は叫ぶように言った。

 屋台の喧騒が、熱気に溢れているのだろう。
物理的な熱気が僕たちを包んでいる。この辺りの気温は、確かに、高い。夏のように蒸している。
アーケードの屋根に閉じ込められて、温度は辺りの季節を変えている。
「あー、適当に、肉。体力つきそうなやつ、ふたつ、よろしく」
パキスタン料理の屋台に座り、恭平は店員のおばさんに注文した。
屋台と言っても、この辺りのものは結構本格的だ。規模も、それなりに大きい。
中には二十人くらいが座れるような屋台だってある。
今、僕達がいるのは中規模の屋台だ。
「勝手に決めたぞ、悪いけど」
水を飲み干しながら恭平は僕のほうに椅子を向けた。ガタガタと音がした。
僕は勝手に納得する。一人で二つ食べる気なのかと少し、思っていたからだ。
料理が来るまで、しばらく僕たちは黙った。

 恭平が、不意に口を開いた。
「お前、外に帰りたいって気持ち、ねえの?」
黙っていると、恭平は体をこっちに向けなおした。
「おい、返事くらいしろ」
「聞いてるよ」
僕たちの背中をオート三輪がクラクションをけたたましく鳴らしながら走り抜ける。
いや、走ってはいない。通り過ぎるだけだ。
クラクションの音は長く尾を引いて、まるで遠ざかってゆかない。道が人で混んでいるのだ。
 横で恭平が舌打ちをする
「ちきしょう、うるせえな」
言葉ほど凶悪な口調ではない。僕はもう一口水を飲んだ。
喧騒の中で僕は、ぼんやりと外の生活を思い出していた。
外と比べると、ここは外国のようだ、と思う。賑わいも、街並みも、外とは切り離されている。まるで、別の世界のようだと思う。
 ここにいたい、と思うわけではない。けれど、外に帰りたいとも思わない。
僕は少しだけ、伯父夫婦の顔を思い出そうとして、はっきり思い出せないことに驚いた。どんどん記憶は薄れてゆく。
口に出すと決定的に、伯父夫婦の記憶は僕の中から消えてゆくような気がした。
 少しだけ、躊躇して、僕は言った。
「帰るところなんてないからね」
ぴたっと、恭平が動きを止めた。少し驚いたようだった。
やがて僕が質問に答えたのだということに思い当たったように、少し、考えるような顔をした。
「あー」
何かを言いかけたところで料理がきた。
料理を運んできておばさんは、慣れた様子でクラクションの音がするほうを、ちらりと眺めた。
僕の中で、伯父夫婦の顔は薄れて、消えた。

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