[1] 月の夜、屋根の上で
再びさかのぼって8月31日・深夜

「世界に起こることは全て現実。現実しかない」

 僕は階段の上に向けてサプレッサーの付いたイングラムを構えた。
電気のついていない夜のビル内は暗すぎて、聴覚と経験だけしか頼るものがない。
 静かだ。とてつもなく静かだ。余計なものなど何もない。
 イングラムを構える僕の中にあるのは現実。ただ、現実だけがある。
現実は、一度受け入れてしまえばそれほど冷徹でも残酷でもなくなる。
 当たり前だ。
どう思おうと現実は現実。他には、何もない。
目の前に広がっているものが全て現実なのだ。
 もうすぐ僕は真暗な階段の上に向けて引き金を引く。
 抑制された銃声が夜にピリオドを打つ。
 階段の上にもうひとつ、名前も知らない死体が増え、僕の仕事は終わる。
汚くない。綺麗でもない。正しくない。愛着もない。
 けれど、これが僕の現実だ。

 このアーケードに来てからもう、少しで一年になる。
初めてここに来た時、外は雪が降っていた。
ひどい雪が降って首都圏の交通網がマヒした寒い日に僕は、それまでの人生を捨てた。
いつまでたっても逸れたまま軌道を修正してくれない、それまでの人生を捨てた。
い伯父や伯母まで捨てるように出てきたのは少し気が引けたけれど、あの家にいても、何も変わらないことは分かっていた。
 仕様がなかった。卑怯な言い方だが、仕様がなかったのだ。
 一年前、僕は伯父夫婦の家を出て、このアーケードに来た。
何かが変わると思ったわけではなく、ただ、現実を受け入れようと思ったのだ。
 一度ずれてしまった人生は、二度と軌道を修正しない。それが現実だった。
 理不尽であろうとも、行方不明になった父と一緒に僕の人生は、ずれてしまったのだ。
 このまま、伯父夫婦の家に厄介になっていても、変わらないのだ。
一年前の冬、あの家でテレビの天気予報を見ながらふと、そのことに気付いた。
 (東京の週末は雪になるでしょう)
 (来週のクリスマスよりも、残念ながら一週間早めの雪の週末です)
 (週末お出かけの方は十分ご注意ください)
 (それでは次のニュース…)
僕の人生は、もう、平凡には戻れない。天気予報よりも確実に、緩やかに墜落を続けるだけ。
 このアーケード都市は、それに相応しい。そう、思った。
ここは色々な、決して表に出られないものが押し篭められている街だ。
行方をくらませた父と同じ道を、ゆっくりと、確実に墜ちてゆくのだ。
 予報通り雪の降った週末、僕はひっそりと、世話になった伯父夫婦の家を出た。

 暗い階段の脇で、僕はサプレッサーを取り外す。
腰のポケットにそれを戻し、次にマガジンを抜く。
身軽に動けるようになってから、二、三度体の感覚を確かめ、僕は窓を乗り越えて屋根に出た。
見上げると、月が出ていた。明るい月が出ていた。
アーケードの屋根の上はとても、静かだ。人が死に絶えた後の世界のようだ。僕以外の誰も、いない。
屋根の両側にそびえる建物はまるで、背が低くて入り口のない家のようだ。
屋根の上を走る時、屋根の下の道が、まるで地下のような感覚を覚える。
 体をかがめて僕は走る。
音のない世界では、音のないものだけが動ける。
そう、寺田さんは言った。
 僕は寺田さんに教わったことをすべて飲み込み、アーケードの屋根を走る。
音を立てずに、走る。
僕の中から、少しの汗と一緒に、意味が蒸発してゆく。
走りながら僕は、無に近付く。それは、生きていることを忘れられる瞬間だ。
 僕は走る。寺田さんの待つ建物まで、走る。

 今のルームメイトである井筒恭平との同居は、戸惑うことが多い。
彼は、僕とあらゆる意味で対照的だ。
彼のことを思い出すと、僕は、自分の現実を強く意識する。
意識するだけだ。
今の生活から抜け出したいわけではない。僕は、現実を受け入れている。
<中途半端な希望を捨てることから現実の第一歩は始まる>
寺田さんに初めて教わったことだ。
その意味で言えば僕は、現実を、受け入れていたはずだった。
 僕の人生はこんなもの。
そう、受け入れていたはずだったのに。最近では少し、分からなくなってきている。
 本当に、これで…いいのだろうか?
僕の頭の中に一人の少女の姿が浮かぶ。
僕の中に、現実以外のことが、僕を侵蝕している。
「…!」
走りながら僕は愕然とした。
 こんなことは、いままで、一度もないことだった。
動揺して僕は立ち止まった。立ち止まると、一息に体が冷めた。
ざっ、と風が吹きつける。僕は風の吹いてきた方向に顔を向けた。
「…マコト」
音のない世界で、僕の中に音がある。
僕は息を止めて、もう一度繰り返す。
…中途半端な希望を捨てることから現実の第一歩は始まる。
 僕はもう一度繰り返してから、走り出した。
寺田さんの待つビルは、もうすぐだった。

「お前は有能だよ」
 暗い部屋に寺田さんの、紙をこすったような例の声が響く。
家具も何もない、コンクリートが剥き出しのビルの一室。
真っ黒なスーツの寺田さんの姿は、この部屋にとても、似合っていると思った。
「有能すぎて怖いくらいだ」
寺田さんはそう言って、低く咳払いをする。寺田さんは決して笑わない。
「この辺りは…」
寺田さんは僕の周りをゆっくりと、囲むようにゆっくりと歩きながら言った。
「この辺りにはまだ、七年前の傷が残っている」
「…」
「この街は、死につつあるのかもしれないな。傷跡から、また腐りはじめている」
「…」
 寺田さんの声は、とてもしゃがれている。
子供の頃に飲んでいた薬の副作用でそうなったらしい。まだ若そうに見えるけれど、声だけはぎょっとするくらいにしゃがれている。外見と、全くそぐわない。
けれど、その声には、ひどく、威厳がある。
 寺田さんが言った「七年前の傷」というのは、たぶん、アーケード大火災のことだ。
区画ごとに、復興の差は激しい。
特にこのあたり、倉庫街のある区画は、まだ、立ち入り禁止の建物が数多く残っている。アーケードの屋根も、焼け落ちた部分を修復していない部分が多い。
 寺田さんは、いつもこういう場所を拠点に使う。
寺田さんはゆっくりと僕の正面に戻って足を止めた。
「ご苦労だった。また近いうちに呼ぶかもしれないが、今はゆっくり休め」
「はい」
 寺田さんは少し、僕の顔を見つめてから背を向けた。
闇にまぎれるようにして部屋から出てゆく寺田さんの気配を感じながら僕は立っていた。廃ビルの中に僕はいた。
壊れた屋根から忍び込む月明かりは、綺麗だった。
煤や、埃だらけの部屋を照らす光に、しばらく僕は見とれた。
寺田さんの気配が感じられなくなるまで、僕は部屋の中を見ていた。
 家に、帰らなければ。
寺田さんの車が走り去る音を聞いてようやく、僕はスーツケースを拾い上げた。

 僕は、マコト、という名前の女の子のことを思い出していた。
頭にこびりついて離れない。これも現実なのだろうか。
恭平を介して僕達は知り合った。
 僕は彼女のことが好きなのだろうか?
いや、ちがう。
僕は、ただ、羨んでいるだけだ。
恭平のことも、マコトのことも、きっとただ、羨んでいるだけなのだ。
何も行動を起こさず、羨んでいるだけなのだ。

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