教室に着いて鞄を机の上に置いた。どさり、と少し乱暴な音がする。
真瀬はまだ来ていなかった。
横目で彼の席を確認してから、あたしは窓の方を向いた。
窓を開けて窓枠に顔を乗せ、そのまま中庭を眺めてみる。
ここの中庭は、本当に午前中の日当たりがいい。
さすがに登校時間ということもあって、中庭にいる生徒はいないが、向かいの校舎の廊下を歩く生徒の姿はよく見えた。
あっちは中等部の校舎だ。
あたしは脱力した姿勢のまま、彼らの元気な姿を見る。
廊下を、飛び跳ねたり、駆けたり、なんだか中等部生は本当に元気だ。
あのくらいの年齢だった頃、あたしはどんな子供だっただろうか。
三年前のことをひどく遠い頃のように思い出しながら、ただ、あたしは眺めていた。
どうにも調子が出なかった。

「しなり、昨日どうしたのよ」
声をかけられて顔を引っ込めると、前の席の彼女が自分の席に着くところだった。
彼女の名前は、古池美ゆき。皆、彼女のことをユキ、と呼ぶ。
あたしは彼女におはようを言いながら、彼女の名前を頭の中で繰り返す。
こいけ、みゆき。あだ名はユキ。
名前は不思議だ。
一人一人、みんなぴったりとした名前をもっている。
そういえば結局、真瀬の下の名前はなんだろう。
昨日、住所録を見て調べておこうと思ったのだが、すっかり忘れていた。

そのユキがこっちを向いて座る。
「何、どうしたの、その手」
「あ、いや」
返事に困って愛想笑いをすると、彼女はその笑いをなんだか違う風に解釈したようだった。
「なんで怪我したのよう」
言いながら、乗り出すように机に肘を乗せる。
どうやら彼女は、あたしが何か面白いエピソードを隠していると思っているようだった。
軽く目を伏せ、本当のことを話したとしたら彼女は、どんな顔をするだろうかと考えた。
彼女はどんな目であたしを見るだろう。
今朝から、どうにも調子がおかしかった。
いつも優越感を感じるはずのその瞬間が、不意にすこし虚しくなる。
「転んだだけだよ」
顔を上げてとりあえず誤魔化すと、前の扉から真瀬が入ってくるのが見えた。
迂闊にもあたしは、あ、と声を漏らす。
ユキは弾かれるように振り返り、そこに真瀬の姿を確認したようだった。
「…何、何、そういうこと?」
彼女はまるで重大な秘密を知ったかのように、あたしの方へ、ぐい、と顔を近付ける。
何がどうなって<そういうこと>なのかさっぱり判らなかったが、ユキの表情を見ていると、迂闊に愛想笑いを浮かべるのは危険なような気がした。
昨日の香弥子の困った顔が浮かぶ。
<クラスメイトは詮索好きだからねえ>
なるほど。本当にそのとおりだ。
あたしが何か弁明しようと口を開くのと、真瀬が席にやってくるのは同時だった。
「おはよう」
真瀬が肩から鞄を下ろして挨拶をする。
ユキがあたしにだけ見える位置で物凄く好奇心に溢れた顔をした。
あたしはそんな彼女を横目で睨んで、挨拶を返す。
「おはよう、ええと、昨日は、どうも」
「ああ、いや」
真瀬が微笑んで背を向け、鞄から教科書類を取り出しはじめると、ユキは彼に気付かれないように目を大きく開いて、あたしの顔を覗いた。
「昨日?…昨日って昨日?」
ユキが真瀬に聞こえないような声であたしを追及する。
「ええと」
「やっぱり昨日だ。昨日何かあったんでしょう」
「いや、あのねえ」
本格的に困って口篭もっていると、授業の予鈴が鳴った。
「ああ、授業だ。ユキちゃん、授業だよ」
授業への準備で逆に騒がしくなった周りの雰囲気にまぎれて誤魔化すと、ユキは不服そうな顔になった。
けれど、それを押してまで審問を続ける空気ではない。
仕方なさそうに彼女は、へええ、と呟きながら前を向く。

ほっと息をつくと今度はポケットの中で何かが、ぶるるるる、と、震えた。
うえ、と思わず声を漏らすと、聞き逃さずにユキが振り向いた。
「上?」
「違う、ええと、うああ」
ポケットの中に、震動するようなものは一つしか入っていない。
呼出端末だ。
あたしは思ってもみなかったタイミングの呼出に腕時計を見る。
なんだってまた、こんな時間に。
間違いなく呼出主は、トオマワリだった。
一体何の用事だろう、と、あたしは逡巡する。
昨日の今日というタイミングで彼が、下らない用事であたしを呼び出すとは考えにくかった。
おまけに今は、こんな時間だ。こんな朝っぱらから呼び出されたことなんて、今までに一度だってない。
あたしはトオマワリの事情に考えをめぐらせる。
ヒューヴが動けない今、彼があたしに仕事を頼むなんてことは考えにくい。
そうなるとまさか、ヒューヴに何かあったのだろうか。
その可能性に思い当たって、あたしは息を止めた。
不吉な想像にぞっとしている間にも、時間は一秒一秒と過ぎてゆく。
あたしは困りきってもう一度腕時計を睨み、壁の時計でその正確性を確認した。
授業はもう始まる時間だ。予鈴だって鳴り終わる。ざわざわと首の後ろあたりが騒ぐ。
今朝、それもついさっき、なるべく早退も居眠りもしない、と誓ったのに。
一時限目から早退する、というのはすなわち欠席する、という意味だ。
早退よりも居眠りよりも悪い。
しかし。
「えい」
あたしは目をぎゅうとつぶり、鞄を掴む。
「ちょっとごめん、用事」
短く言い残してあたしは席を立った。
ちょっと、しなり、しなり、ねえ、と呼び止めるユキの声が背中にすがる。


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