階段を駆け下りながら鞄を背負う。インカムはバイクの中にしまってある。
もしヒューヴに何かあったらどうしよう、と、なんだか耳の奥がわんわん鳴るような想像をめぐらせながら、あたしは祈った。
予鈴の鳴りおわった校舎は、不気味なくらい静かだった。
バイク置き場まで走り、あたしはバイクの影にしゃがみこんだ。
回線を繋ぐためにエンジンをかけて、声をひそめる。
ととととと、とエンジンの動く音が心臓の鼓動のように思える。
「もしもし、トオマワリ、こちら鈴木、授業サボって抜けてきました、ドーゾ」
バイクの陰に隠れて呟きながら、返事を待つ。自然と声が低く、短くなる。
返事を待つまでの間が、おそろしく長く感じた。
ががが、とノイズが入ってからしばらくして、トオマワリの声が聞こえてきた。

「しなり、聞こえるか、大変なことになった」
声がところどころやけに遠い。胸が騒いだ。
「大変なことって何よ、ヒューヴ、ヒューヴは平気なの?」
「ああ…違う、そうじゃない。ヒューヴァーは平気だ、それより」
うまく聞こえない。聞こえの悪いラジオのように、彼の声はひび割れている。
ここが校舎の影だからだろうか。あたしはちら、と振り返って校舎を睨んだ。
「もしもし」
「ああ、聞こえるか、今どこにいる」
「学校。…ちょっと、何があったの?」
「聞こえなかったのか、なら聞いて驚け、あのな、今日、初夢姐さんが帰ってくるらしいんだ」
思ってもみなかった言葉に、あたしは耳を疑った。
「はい?」
「な、やっぱり嘘だと思うだろ。俺も驚いたよ」
「だって次に休みが取れるのって、来年の春じゃなかったの?」
「なあ、まったくあの人も急だよな、おい」
ようやく通信が安定して、声が鮮明に聞き取れるようになってきた。
もっと驚け、とトオマワリは物足りなそうな声で言う。
あたしが初夢さんと最後に会ったのはいつだったろうか。随分前だったことだけは確かだ。
次に会う時は歳下かも知れないね、なんて言って初夢さんは手を振ったっけ。
初夢さんの事を思い出して、それから地続きにヒューヴのことを思った。
ヒューヴの名前を付けてくれたのは、初夢さんなのだ。
あたしは言った。
「今から行くよ」
「お前、いいのか、授業は」
「何だよ、自分から連絡してきたくせに」
「…そうか。そうだったな。そういや」
通信の向こうの浮つき加減に空を仰ぎ、聞こえないように、ばか、とあたしは呟いた。
彼のその単純な感情表現は嫌いではなかったが、少し浮かれすぎだと思った。
大人の癖に、と八つ当たりのように密かに彼を責める。
「まあ、とにかく行くから」
なるべく素っ気無く聞こえるように告げて、あたしは通信を切った。

通信を切り、あたしは大急ぎでホバーバイクを引いて裏門の外まで出た。
フェンスの外から見る校舎に、少しだけ心が引かれた。
こんな早くから学校を抜け出すのには罪悪感があった。
きっと、今頃どの教室でも授業が始まっているに違いなかった。
コンクリートの壁何枚かを隔てた向こうでは、あたしと同じ歳の子たちが、同じ方向を向いて同じ先生の授業を聞いているのだ、と思うとひどく不思議だった。
どうしてあたしはあそこから抜け出してばかりなのだろうか。
もし、生きもの以外を透けて見せる眼鏡があったなら、この風景はどういう風に映るのだろうか。
空中で、妙な中腰になって同じ方を向いている集団と、それを見上げるあたし。
不意に想像して、どうしてこんなことを考えるのかと首を振った。
苦笑いのような、けれど苦笑いではない、変な笑いが漏れた。
しばらく目に焼き付けるように校舎を眺め、あたしは顔を背けた。
「明日こそは、きちんと学校、行くよ」
誰にともなく呟いて、ゴーグルを上げる。


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