自称<作る側の人>たちのこと

もういい加減腹に据えかねるので言ってしまいます。
でもちょっと気持ちの良くない文章なので、読んで気分が良くなかったらすみません。
ですが割と僕の内臓なので文字色反転はさせません。重ね重ねすみません。

それは<自称「作る側」>の人の話なのです。
大学で映画のサークルに所属して、ちょっと前までは脚本も書いて、寡作ですが映画も撮っていました。
で、そのサークルの関係で映像系の大学生と関わって来たのですが、中にはひどい連中がいました。
<自称「作る側」>の人たちです。

例えばこんな人がいました。
「俺の脚本はさ、まだ人に見せられるレベルじゃないんだよ。だから今は撮らない」
僕は彼に言いました。
「いつ撮るの?」
彼は答えました。
「完璧な脚本が出来たら撮るよ。それまでは撮らない」
それはスタンスの違いなのかもしれませんが僕は、脚本の質だとかなんだとかはとりあえず作ってみて、撮ってみたほうが成長の度合いは著しいものだと思っていました。
けれど完璧じゃないものを提出するのは恥ずかしい、と思う気持ちは僕だって分かります。
だから彼に、別に誰も笑わないから撮ってみたらいいんじゃないか、という意味のことを言いました。
でも彼は、「脚本家とはこうあるべきだ」とか「創作とはこうあるべきだ」とか、そういう観念的なことばかり言っていました。
話は全然噛みあいませんでした。

こんな人もいました。
「映像にこだわらない監督は屑だよ」
僕より幾つも年上の、他所のサークルの人でした。
僕はその言葉に正直ぴんと来ませんでしたが、まあそういうものなのかもしれない、と思って話を聞きました。
話を聞けば聞くほど、まあそういうものなのかもしれないなあ、と思わせるような、立派なことばかり彼は言いました。
僕は正直に、彼がどんな映画を撮ったのかとても楽しみになって、あなたの作った映画を見せてください、と言いました。
彼のスタンスはとても良い、と思ったのです。
ですが彼は「まだ撮ってない」というばかりでした。
なんだか意地悪な質問をしてしまったような気がして僕が黙ると、彼もやっぱり「映像作家とは」とか「創作する人間の心構えとは」だとか、そういう観念的なことばかり言うようになったのでした。

そして今回、似たような目に遭いました。

僕は<自称「作る側」>の人が嫌いです。
何ひとつ手の内を見せず、観念的なことばっかり言ってあたりを煙に巻く人が嫌いです。
僕はそういう風に自称する人を否定します。大嫌いです。
作ったものが何であれ、それを「自分が作ったものです」と人に紹介している人が好きです。
自分はこういう人間です、というのを直接的にも間接的にも表に出さない人は嫌いです。
いかにも含みがあるように見せる人は嫌いです。正直でない人が嫌いです。
偉そうなことばかり言う人が嫌いです。経験論以外信用できません。
観念論や概論が一番偉いと思っている人とは生理的に合いません。
そういうものを、さも経験論のように語る人には近寄りたくもないと思います。
嫌いで嫌いで仕方ないのです。

どれだけビッグマウスでも、凄いものを作れる人なら仕方ないや、とか思ってましたが。
もう駄目。無理。地蔵も限界。

以上、いい加減なワタクシにも主義主張や生理的嫌悪感くらいあるんですよ、というお話でした。
引っ掛かりの良くない文章、御静聴有難う御座いました。

言うだけ言って(僕は)すっきりしたので、明日からはザルデュシュト2、今までどおり、割といい加減なスタンスで運営していきます。
今後ともよろしくしてくれると嬉しいです。

蛇足のようですがちょっとだけ。

自称「作る側」の人が嫌い、と言いましたが、それは「自称」でなければ好き、というロジックではありません。
なので無論、自称「作る側」が嫌い→作る人が好き→作らない人が嫌い、という結論も導き出しません。念のため。
僕は生身で生きている人全てを愛します。
作ろうとしてやっぱりうまく行かなくて、しまった駄目だ、と挫折してしまった人を愛します。
なにかを作ろうとか思っているのだけれど、喉で止まって動けなくなっている人も愛します。
作ろうなんてさらさら思わなくて、享受することのほうによろこびを感じる人も愛します。
作ってみたけれどうまくなくて、おなかの中にしまってしまう人も愛します。
忙しい日々、なにかを作ろうにも時間が取れない、そんな人も愛します。
黙って生きて、時々花を咲かせよう、そんなことを考えている人を僕は愛します。
全てにあてはまるあなたを、全てに当てはまる自分自身を、僕は愛します。

生身で生きているという感覚を無くした人以外を、僕は愛します。

生身で、生きてきましょうね。

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