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私はこのわれわれがたがいを愛し合うように生まれ育ち、そして体内にその遺伝子を持っていることを主張したい。
だがこの遺伝の指令は遠くから聞こえる音楽のようなもので、われわれの中には耳の遠いものもいるため、そうした愛から遠ざかってしまうこともある。
社会というのは喧しいもので、われわれのつながりやわれわれ自身の音も打ち消してしまう。
かくて耳の聞こえなくなったわれわれは戦いに向かい、全くの聾となって熱核ミサイルを作る。
とはいえ音楽は絶えずそこにあって、もっと耳を傾ける者が増えるのを、じっと待っているのだ。
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ルイス・トーマスという人の言葉らしいのだけど。
これを引用して僕が言いたいことというのはつまり。
待たれたらこたえたいよね、ということだ。
別に愛の遺伝子云々なんてどーでもいい。嘘。どうでもいいってことはないけれど。
つーか、密かに感動したのだけれど、それを共有してくれとにじりよるのは趣味じゃないので。

現代において我々が不幸なのは、愛することに遠慮せざるを得ない状況が、不幸なのであると考えます。
人に、あなたを愛している、と伝えるときに、その人を愛しているという正当な根拠や、わざわざ愛していると伝えた目的を明らかにしなければならないと、わたしたちは思い込まされています。
母と子が幸せなのは、母が子を愛することに正当な根拠があり(少なくともそれが社会的に認められていて)、子はその無知ゆえに母の愛を疑うことがないからであると、わたしは考えます。

愛されることよりも、愛することの方が幸福であるとわたしは考えます。
故に、傲慢からではなく、わたしは愛されることを享受したいと思います。
あなたがわたしを心置きなく愛することができるように。
あなたがもっと存分に自身の幸福を味わうことができるように。
愛している、と伝えられたことに、下心を疑ったりしない人間になろうと思います。

たとえば、愚図、と言われた時に。
脊髄反射のように、罵られた!口惜しい!、と頭を熱くするのではなく。
そうか、わたしは愚図であったのか、と受け止め、次に、はたして自分は今まで愚図であっただろうか、と吟味し、あるいは、今の自分の行動が愚図であったのだろうか、と照らし合わせ、そんなことはないと結論づいたらば、シンプルに「わたしは愚図ではありません」と抗弁をし、あるいは、確かにその通りかもしれないと思ったのならば、なるほど、と黙っているような。
そういう人にワタシはなりたい。
そういうのこそが、きっと、自分ときちんと向き合うということなんだなあ。(2003/03/11)

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