はつこい
それは、中学三年の夏。国語の授業だった。 詩をつくろうだとか物語を書いてみようという類の延長で、ラブレターを書いてみよう、という授業だった。しかもただのラブレターではない。クラスの誰かに向けてラブレターを書いてみましょうという、正気の沙汰とは思えない発想だった。 それを担任のみなみ先生が発表した時、当然のようにクラスは一瞬にして騒然となった。ある子は「無理!絶対無理!」と叫び、また別の子は顔を赤くしてうつむいた。男子の中には、げええ、と叫びながらわざとらしくクラスを見渡す失礼なやつもいたし、「お前誰に出すんだよォ」と、さっそくリサーチを始める子達もいた。しかし、その大部分がその反応の裏に困惑を隠していたのは間違いない。 もちろんわたしだって困った。あたりまえだ。 急にそんなことを言われても困るし、そもそも好きでもない相手に向けて書くラブレターは原理的な意味でラブレターの意味を失い、人に愛していると伝えるみずみずしい心を育む授業の筈が、無理矢理書かされたことによって「ラブレター」というものにトラウマを抱かせてしまう可能性だってある。それではまるっきり授業目的に矛盾しているのではないか。 ……と。 小理屈をこねようと思えば幾らでも反対の意思を表明できそうなものだが、残念なことにわたしはたいへん素直な子供だった。先生の言うことを疑うという素養がなく、言われたことをこなすのは当然だと思う子供であった。勉強は好きだが、逆に勉強以外はまったく不得手だったのである。 ともかくもみなみ先生の突拍子もない思いつきに困って、わたしはどうしようと考えた。まったく途方にくれてしまったと言ってもいい。ラブレターの書き方というものが判らないというのもそうだが、なによりまのわるいことに、わたしには好きな相手がいたのであった。 恩田くん、とわたしは彼のことを呼んでいた。彼がわたしを呼ぶときは「小田」と呼び捨てだった。実際、苗字で呼び合っているあたりから、わたしと彼の関係を推して知ってくれると嬉しい。 べつにわたしと恩田君はまったく親しくない、というわけではなかったが、それは決して特別な関係ではなかった。スクールバスに同じあたりから乗るので、常識的な少しの会話くらいするが、誓ってそれ以上の関係はなかった。 わたしは、恩田くんの方を振り向かないようにして先生の顔を見つめた。恩田くんはどんな顔をしているんだろう。何か喋っていないだろうか。しかし、幾ら耳に神経を集中させても、野次や悲鳴の中に恩田くんの声は聞こえなかった。 「ラブレターを書くときに大事なことは」 みなみ先生がクラスを見渡して張りのある声を上げた。 「相手の事を考えることです」 そのときの先生の顔を見て、わたしは先生自身がラブレターを書いた直後なのではないかという風に思った。うまく言えないが、先生の表情はずいぶん優しかった。先生はむずかしいことを言わず、それだけを言ってクラスを静めた。まだぶつぶつ文句をいっている子たちも、その先生の表情に圧倒されたようだった。 わたしは前から二列目の席で、先生の表情を見上げながら黙ってしまった。もともと何も喋っていなかったが、今は何を聞かれても返事が出来ない、と思うくらいにわたしは黙った。わたしの中から言葉が消えた。 「ということで、これ、宿題です。明日までに書いてもらいますからそのつもりでね」 先生はまったく簡素に、逃がさないわよ、と釘をさして、参考になるかどうかはわかりませんが、と、ラブレターを紹介し始めた。 こんなものもあります、と先生は微笑んで一通のラブレターを読み上げた。読み終えて、これは青森で働いている人が遠くに住む恋人に送ったものですと言った。次には病気の女性が両親にあてたラブレターを読んだ。その次は母親がまだ小さい我が子へ送ったラブレターだ。そんな調子で次々と、世界一短いラブレターや、有名作家のラブレター、名もない中世の修道士のラブレター、大正時代のラブレター、特攻隊員の遺書のようなラブレターから、お父さんが家族に向けたラブレターまでをどんどん読み上げてゆく。それは相当な数にのぼった。 先生はどのラブレターに対しても、ただ書いた人の略歴と誰に当てたものかを読み上げるだけで、その内容がどうだとか、どう思うだとか、そういうことを一切言わなかった。 わたしは指を組んで唇に当て、今読み上げた中にもしかしたら、先生が貰ったラブレターや先生が書いたラブレターも入っているのかもしれないと思った。表情を窺ってみるが、まだ若いわたしには大人である先生の表情は読み取れなかった。先生はどのラブレターを読むときにも、幸福そうな顔をしていた。 淡々とした調子で次々とラブレターを読み上げられているうちに、わたしは不思議な世界に迷い込んだような気分になった。もはや男子たちも野次をあげたり囃し立てたりすることもない。いつのまにか教室はすっかり静かになっていた。 いつしか、ラブレターを書くのは人間として当然であるような気になっていた。他の子がどうなのかは知らなかったが、とにかくわたしはそう思った。 帰りのバスは、恩田くんと同じではない。 わたしが帰る時間に、恩田くんは部活をしている。放課後のわたしはバス停に向かいながら、グラウンドを走っている恩田くんを少しだけ目で追った。それは後ろ姿だった。赤いハーフパンツに真っ白いシャツ。恩田くんはまったく健康的な姿でトラックを回っていた。 自分にないものを持っている人を好きになる、というのはある一面で真実だと思う。わたしは生まれてからこのかた、運動に夢中になったことのない人間だった。別に運動神経が千切れているというわけではないので、物理的にというよりも心情的に苦手なのだと思う。 さて、それならば恩田くんが爽やかに汗を流している間、わたしは家で何をしているのだろう。そう考えると少し憂鬱になった。 運動部に入っていない分、自由に時間を使えているはずだなあと考えて、ああ、わたしは嘆きのあまり声を漏らしそうになった。わたしの自由な時間などというものは、考えてみればほとんどないということに気付いたのだ。 わたしは、きちんと寝ないと駄目な人間であった。睡眠は何にも替えがたい。しかし、いくら眠っていたいからといって毎朝遅刻するのは困る。バスの時間だってあるし、年頃の娘としては身だしなみにも気を遣いたい。そういうわけで、わたしの逆算は始まるのであった。 朝、たっぷりとした睡眠を取ってなおかつきちんとした時間に起きる為には、ある程度の時間に就寝しなければならない。だから寝る時間を遅くするわけには行かないし、そのためには課題などはもっと早く済ませておかなければならない。 課題をするためには、家のことを先に片付けなければならないし、家のことといっても、もちろん学校から帰ってこなくては出来ない。学校から何時に帰れるかといえば、急いだって大概四時から五時といった時間帯で、少し用事があったりするとそれだけですでに五時や六時だった。そこから犬の散歩をして、夕食の手伝いなんかを済ませると、むろんのことだがすぐ夕食になる。夕食の後、眠るまでの間で自由になる時間は本当にわずかしかない。その時間の中で、学校の課題なんかを始めてしまえば、時間はあっという間に過ぎる。時計を睨みながらなんとか消化してみても、学校の課題は五分や十分で終わるものではないから、もはやお風呂に入る時間になってしまう。そして、お風呂に入る時間ということは、お風呂から出たらその次は眠らなければならない時間になるということである。 まったくもってわたしの生活は、逆算によって運行されていると言っても過言ではなかった。 今まで気にも留めていなかったが、そう考えると、いよいよわたしの生活は窮屈のように感じた。わたしはまったく無趣味だ。しかし、この窮屈さは無趣味だからの一言で済まされていいような問題ではない気がした。一体他の友達は、日々をどういう風にして暮らしているのだろう。テレビを見たりゲームをしたりする時間を、どうやって作り出しているのだろうか。別にテレビを見たいというわけでもゲームをしたいというわけでもなかったが、時間の創出方法については興味が湧いた。暇な時間はあって損するものではない。悩んでいるうちにバスは家に辿り付く。 結局、いくら考えても時間を作り出す魔法について思いつかなかったので、今日のところはいつもわたしのしていることを代わりに母へ頼むことにした。明日友達に会ったら、時間をどうやってやりくりしているのか聞いてみることにしよう。 台所でわたしは宣言した。 「わたし今日は課題があってニーチェの散歩行けないからお母さんよろしく!」 一息で言いながら猛然と牛乳をコップに注ぎ、それが命のガソリンであるように、息を詰めて飲み干す。居間でテレビを見ていた母は、親の敵のように牛乳を飲むわたしを少し呆気に取られて眺め、どんな課題、と尋ねた。一瞬、牛乳が固まりになったように、喉でつっかえた。 「……難しい、課題!」 なんとか言い切って、わたしはテーブルに置いた鞄を取り上げた。しかし、どんな課題なのかについてはなるべく追及は受けたくない。急いで牛乳を冷蔵庫に戻すと、びんが触れ合ってがろがろと涼しい音が響いた。 「ぜったい邪魔しないでよ」 わたしは母に背中を向け、釘をさして自分の部屋に向かった。 部屋の戸を閉めて着替え、机にノートを広げた。下書きをしようと思ったのだ。 「恩田くん」 そこまで書いて、わたしは早速頭を抱えてしまった。比喩でなく、自分の両腕で自分の頭を抱えてしまった。馬鹿か、わたしは。課題で提出するというのに、宛名を書いてどうするというのだ。わたしはページを破いて丸める。ゴミ箱に放り込む寸前に広げ直し、念のため恩田くんの名前を消してから、もう一度丸めて捨てた。 いきなり壁にぶつかってわたしは途方にくれてしまった。どうやって書けばいいのだろう。書き出しから悩んでいるようでは先が思いやられた。具体的なことはなにひとつ思い浮かばなかったけれど、とりあえずなにかを書き付けようと思った。 「わたしは」 そこまで書いて鉛筆を置いた。今度はいい。この書き出しはなかなか悪くない。問題はこの続きだった。焦ったり息巻いたりしても、何も始まらない。仕方ないので心を落ち着けて、先生の言葉を思い出すことにした。 ラブレターを書くときに一番大事なことは、相手の事を考えることです。 わたしはそのときの先生の表情を思い出した。先生は微笑み、頬にえくぼを作った。それはとてもチャーミングな表情だったと思う。先生のようなやさしい顔で、わたしも恩田くんに微笑みかけてあげられればいい。けれど、それはもしかしたら虚しい願いなのかもしれない。 だって、わたしには、恩田くんに微笑む理由がない。理由なく微笑んでみせたって、変に思われるだけだろう。なにかしら微笑むに足りる理由を作りたいとわたしは思った。例えば、恩田くんに感謝するとか、恩田くんから感謝されるだとか、愉快なことを言うとか冗談を聞かされるとか、なんだっていい。 不意に頭の中で、「わたしは」の続きが浮かんだ気がして慌てて鉛筆を握った。文章の切れ端のようなものが、頭の中を飛び回る。しかし、それはすぐにぼやけて、像を結ばなくなってしまった。なんだか、耳や鼻からこぼれて行ってしまうような気がした。わたしは息を止めてノートを睨んだ。段々苦しくなってくる。溺れるような感じだった。 「わたしは」 その四文字が目の中で踊った。なんだか、つけくわえようのない文章のような気さえしてきた。これ以上何かを付け加えてしまっては、すべてがぶち壊しになってしまうような気分だった。「わたしは」と、そこまではきっと正しいのに、その先を続けることが出来ない。ミロのヴィーナスの、欠ける前の両手はどうなっていたのかと想像しているような途方もなさが、わたしを包んだ。さっぱり思いつかない。形にならない。自分に文才がないのが悔しかった。 耐え切れなくなってわたしは深く息を吐いた。そして、両手を机の上に置いたまま、深く息を吸った。いっぺんに脳に酸素が送られて、目の前がくらくらする。鉛筆を置いて立ち上がり、ベッドをみつめた。ニ、三歩よろよろ近付いてから、飛び込むようにばたんと倒れた。体をひっくり返して時計を眺めると、ラブレターを書こうと決意してからまだ三十分も経っていなかった。 わたしは深い敗北感にさいなまれつつ、もう一度、先生の言ったことを思い出した。思い出すだけでなく、声に出した。 「相手の事を考えることです」 そうか。そうだった。 わたしは、恩田くんのことを考えた。目をつぶり、校庭を走っている恩田くんの姿を思い浮かべた。後ろを振り返り、チームメイトに手を振りながら走る恩田くんの姿。思い浮かべる姿は、何故だか恩田くんの外見ばかりだった。恩田くんの内面を想像しようとしても、うまく行かなかった。恩田くんの怒る様子や、笑った顔が浮かぶばかり。これって、恩田くんのことを知っているといえるのだろうか。内面と外見と、片方だけしか浮かばないというのはなんだかアンバランスだ。ほんとうに人を好きになったなら、内面も外面もひっくるめて好きになるんじゃないだろうか。「人をほんとうに好きになるとはどういうことか」という難題にぶつかって、わたしは再び身悶えた。 もしかしたら、わたしは恩田くんのことを、それほど好きではないのだろうか。 その可能性について考えると、なぜだか仰向けではいられないような気分になってしまった。胸の間にぽっかりと穴が開いて、空気がどんどん流れ込んでくるような感じだ。この穴は塞がなければならない。わたしはもう一度うつぶせになって、胸に枕を押し付けた。勿論穴なんて開いていない。これはわたしの心が感じているものなのだ。しかし、枕をつよく抱き締めるとその不安定さは少し落ち着いたような気がした。 まるで亀のように枕を抱いたまま、わたしはベッドが接しているクリーム色の壁を眺めた。うっすらと模様の入った壁紙を眺めた。この姿勢のまま、ずうっと動かないで壁を見つめていたら、どこかの偉いお坊様のように悟りを開くことが出来るのだろうか。本当に途方にくれつつ、わたしはわたしの体温を感じていた。恩田くんの体温は、わたしより高いだろうか、低いだろうか。壁に顔をぐうっと近づけて、息を吐いてみる。少し熱い。恩田くんの息をかけられたら、やっぱりこんな風に熱いと感じるのだろうか。わたしはもう少しで壁に唇をつけそうになって、すんでのところで我に返った。 「馬鹿」 短く罵って、唇の代わりに額を壁に打ち付ける。ごん、と振動が体に伝わった。脳がゆわんと揺れる。 拝啓、お釈迦様、わたしは煩悩の固まりかもしれません。こんなわたしには、ラブレターなんてピュアなものは書けそうにありません。死んだらきっと、地獄とかに行くような気がします。 わたしは額をおさえ、もぞもぞと体をよじってベッドから足を投げ出した。足が下りたついでにノートを畳もうと思ったが、起き上がるのは億劫だった。 鼻水が出てきたようなので、わたしはしかたなく起き上がった。ずいぶん水っぽい鼻だった。 「あ、あー、あー」 声を出しながらティッシュを探す。こらえきれなくて鼻が垂れた。あわてて左手で受ける。なんと情けないことか。おまえはラブレターからどんどん遠くに行っている。わたしはまったく嘆かわしい気分になって、垂れた鼻水に目をやった。 「あ、ああ、ああー!」 しかし、そこに見えたのは血だった。鮮やかな赤い色。それは見紛うことない鼻血であった。わたしは慌て、ティッシュを一度に三枚くらいひったくって鼻をおさえた。幸い服にもベッドにも血は落ちていないようだった。ついで手のひらをぬぐい、立ち上がる。ぬぐいそこなった血の残りが、手のひらでもう乾き始めてかさかさした。鼻がつまり、頭がぼうっとする。鼻血を止めるには、上を向くんだったか、それともうつむく方がいいんだったか。とりあえず喉に血が落ちてしまうのは気持ち悪かったので少し下を向いた。そして首を捻り、壁に立てかけてある姿見でそんな自分の格好を見た。なんだか泣いているようだった。先輩にラブレターの受け取りを拒否されて、体育館の裏で立ち尽くして泣いている子のような格好。わたしは目をつぶり、ため息をついた。そんな可愛らしいものだったらいいけれど、ちり紙で鼻血をおさえているのだからまったく格好がつかない。わたしは机までよろよろ戻って椅子に腰掛けた。背もたれに半身をあずけてうつむくと、目の端に広げたままのノートがうつった。 「わたしは」 正確にはもっと不明瞭な発音だったが、とにかくわたしは目に映る文字を声に出して読んだ。わたしは、この続きに何を書こうとしていたのだろう。わたしは無理に恩田くんのかたちを想像するのをやめた。かわりに真っ暗な闇を想像した。そうするのが自然のような気がした。顔は浮かばないけれど、この闇の向こうに、恩田くんはきっといる。この真っ暗な中にいる。そうか、相手のことを思い浮かべるというのは、こういうことだったのだ。目をつぶり、わたしは闇に語りかけた。 恩田くん、聞いていますか。考えているうちにわたしは、あなたのことを好きなのか好きじゃないのかすらわからなくなって、挙句の果てに鼻血まで垂らして、こうやって、ぐったり座っているばっかりです。馬鹿でしょう。呆れるでしょう。でも、わたし、こういうやつなんです。 ゆっくり目を開けて鉛筆を拾い、わたしは、「わたしは」の続きを書いた。 わたしはあなたの事を考えるだけで鼻血が出ます。 ははは、と笑いが漏れた。これでは馬鹿丸出しだ。まるっきりロマンスのかけらもない。授業で読み上げられたうちのどのラブレターにもかなわない。こんな書き出しのラブレターを貰ったって、きっと笑いしか浮かばないだろう。けれど、不思議とそれを消す気にはならなかった。 わたしは頬杖をついて、このまぬけな文章を眺めた。そして、恩田くんのことを思い浮かべた。今度は机の前で唸っていた時や、ベッドで転がっていた時とうってかわって、なんだか幸福な気分になった。おそらく、わたしはきちんと恩田くんのことを好きなのだと思った。 わたしはまったく自発的に微笑んだ。首を振ってわたしは、ちり紙の様子を確かめた。まだ鼻血は止まっていないようだった。鼻が、まるで初めて空気に触れたかのようにすうすうした。 ちり紙を替え、しばらく頬杖のまま窓を見つめてわたしは、鼻血が止まったら犬の散歩に出かけようと思ったのであった。 |