クララがクララであった最後の記憶。

気が付くと、わたしは汚れた石造りの天井を見上げていた。
体が自由に動かない。
そのはずだ。
わたしは、四肢をもがれて死んだはずなのだから。
不思議と痛みは無かった。
ゆっくりと、記憶が蘇ってくる。

オーク達のぶうぶう言う鼻息や、馬車が焼ける臭い。
友達の悲鳴、笑い声、痛み。
暗い空、遠くに転がるわたしの腕、痛み。
わたしを見下ろすオーク、痛み、オークの体臭。

訳もなく笑い声が漏れた。
すうすうと、まるで人の声ではないような音がわたしの喉から漏れた。
笑いながら、わたしは泣いた。
わたしは犯され、殺されたのだ。

おはよう、と、陰気な声が聞こえた。
聞き覚えのない声だった。
わたしは嗚咽を精一杯おさえながら、顔を向けた。
顔の半分を包帯で巻いた男が、椅子に座ってわたしを見ていた。
「誰なの」
返事はない。
「ここはどこなの」
わたしはしゃがれた声で呟いた。

「ヴィスコヴィッツ」
男は、その女のように赤い唇で返事をした。
「ここは、地獄だよ、クララ」
わたしは再び目をつぶり、ヴィスコヴィッツ、というのが男の名前だろうと理解した。
精一杯ヴィスコヴィッツを睨みつけ、わたしはもう一度笑った。
「ここが地獄なら丁度いいわ」
なぜだかさらに涙が出た。
「丁度死にたかった頃だもの」
ヴィスコヴィッツは表情を変えなかった。

彼は椅子から立ち上がり、わたしのそばに歩いてきた。
彼は包帯の巻かれていないほうの目でわたしの、芋虫のようなからだを見下ろした。
そして、喋り始めた。
「クララ、今君はゆっくりと死にゆくばかりだ。…そう。君はまだ死んではいない。ほとんど死んでいるが、ほんの少し生きている。ここは確かに地獄だが、君はまだ、生きている。生きているのだ」
時計の振り子が揺れるような調子の声だった。
「…これは夢だと思うかね?」
そこまで言ってヴィスコヴィッツはため息をついた。
「クララ、この世界は暴虐と理不尽に満ちている」
「…」
「たまたま今回は、災厄が君を相手に選んだ。何故か?」
ヴィスコヴィッツは、静かな、低い声で続けた。
「それは君が、か弱く、無知で、善良な娘だったからだ」

ヴィスコヴィッツはわたしの目を覗き込んで目をそらさない。
「君は、君たちは、己が望むと望まないとに関わらず、常に世界の暴力と理不尽にさらされているのだ、クララ。クララ、聞きたまえ。君はなにひとつ悪くはない。君はただ不運だっただけなのだ。クララ、私は君の不運を嘆く。しかし、この世界はそういうふうに作られているのだ。君の友達は死んだ。馬車の下敷きになって焼け死んだ。別の友達は君と同じように犯されて死んだ。君の恋人は死んだ。オークに喉を掻き切られ、血を吹いて死んでしまった。あの馬車に乗っていた君以外の人間は皆死んでしまった。何故か?何故かなんて問いは無意味でしかない。悲しい。悲しいことだ。しかし悲しいことだがクララ、世界は」
ヴィスコヴィッツが念を押すようにひとさし指を立て、押し殺した声で囁いた。
「そういうふうに作られているのだよ」
「止めて!」
わたしはその悪魔のような囁き声に耐えられなくなって叫んだ。
もう何も聞きたくはない。
もう何一つ考えたくはない。
叫びながらわたしが不自由な体でもがくと、ヴィスコヴィッツはわたしの胸を、どん、と寝台に押さえつけた。
息が詰まってわたしは肺の空気を全て吐き出した。
目をつぶることが出来ない。
わたしを押さえつけたまま、ヴィスコヴィッツが目を大きく開いた。

「私は、私はね、クララ、この世の暴虐と理不尽を、暴力で消し去ろうとする者の一人さ」
「止めて!」
「だから私は、君を選んだ。君の魂を選んだ」
ヴィスコヴィッツはぎらぎらと光る一つの目でわたしを睨みつけ、そして宣告した。

「生きろ!」

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