[6]でかける

9月13日・午後






宗谷さんはどういうわけだか恭平と仲がいい。
恭平は修二くんと同居しているみたいだけれど、それほど仲がいいってわけではないようだ。
そして修二君は翔子のことを知らない。宗谷さんとも会ったことがない。
翔子は今のところ宗谷さんに夢中だったりする。ダメなところがいいんだそうだ。
美月は翔子の事を苦手にしているけれど、翔子の方は美月のことを気にしている様子もない。
美月みたいな人と宗谷さんがどこで知り合ったのか分からないけれど、二人はもうずいぶん長いこと知り合いのようだ。
あたしは恭平に、まだぎごちないままで、恭平は翔子を良く知らない。

環のようで環ではないあたしたちの間には、いろいろなものが横たわっている。
あたしたちは確かにひとつではない。全てがわかりあうことなんて、きっとできない。
この間修二くんに返した伝記の中に、こんな言葉があった。
「生きることが前に進むことならば、僕たちの払う苦痛は決して無駄じゃあない」
でも、本当にそうだろうか?
あたしは、また美月のことを考えている。
土曜日の、ゆっくりと行き詰まってゆく午後の中であたしは、また、美月のことを考えている。
ひたすら後ろを向いて、美月のことを考えている。

昨日の夜、また美月の夢を見た。
自分と美月のことが、またひとつ嫌いになる。
気持ちが上向き始めると、決まってあたしは自分で自分をどん底に突き落とす。
美月の考えていることは、これっぽっちもあたしには理解できない。
これだったら最初から一人きりだった方がましだ。そんな風に思う。
美月がいるから。
美月が毎日顔を見せるから。
あたしは寂しくて仕様がなくなる。言葉が通じないわけじゃないのに。

体を倒すと、ソファーの冷たさが気持ちよかった。
見上げる天井は、青白くて、まるで何もないように見えた。全ての空間が世界から切り離されて、箱を作っている。そんな風に思った。
あたしは天井をただ、見つめている。
この一枚の屋根を通して、屋上が広がって、空が広がっている。不思議な気分だ。
あたしの背中の下のほうには、美月がいる。
壁一枚、服一枚、たった皮膚一枚、ただそれだけがあたしと、他のものを、美月を隔てている。
なんだかすごく不安で、イライラした。

昔、あたしがまだジャンパースカートなんかをはいていた頃、美月が作ってくれた鯖寿司を不意に思い出した。あれは幾つの時だろう。誕生日のことだった。
鯖寿司なんて、食べたことがなくて、おまけに地味で、あたしは泣いたっけ。

でもなんで急にこんなこと、思い出すんだろう。
別に美月が作ってくれた料理なんて、鯖寿司だけだって訳じゃないはずなのに。
なんとなく落ち着かなくて、あたしはクッションを投げた。
なにか、体を動かしていないと頭がへんになるような気がしていた。
テレビを消して、冷蔵庫を開けて、あたしは外に出かける理由を見つけようとした。
理由がないと、あたしは何も出来ない。
座ったり、寝転んだり、ただ、だらだらと過ごしている。動き出せないでいる。
食器を洗い、音楽をつけたところで、ようやく外に出る決心がついた。
「はぁ…」
わざと大きな声で溜息をついて、鳴り出したばかりの音楽を消す。
着替えることにした。

着替えている途中で電話が鳴った。
セーターをかぶりながらあたしはリビングに出る。なかなか首が通らない。
ようやく首を出してあたしは受話器を取った。
「もしもし?」
どういうわけだかあたしの声は弾んでいた。
そういえば、人と話すのなんて、ちょっと久しぶりだ。
昨日は一日中下で店番だったし、今日だって起きているのか死んでるのかだって分からない美月に、ドア越しに「おはよう」って言っただけだ。
「あー」
受話器からどこかで聞いたような声が聞こえてくる。雑音混じりなのに、やる気のなさだけが際立っている声だ。
「もしもし?」
いやな予感がした。
「俺だよ、俺」
声は恭平のバカだった。
「はぁ?」
「あのさ、美月さんいる?」
「何、いきなり」
「いいから、美月さんいる?」
「…」
あたしはなんとなく、答えにつまった。
「いない」
反射的に短く答える。反射的に嘘をついてしまう。
「あー」
恭平の乾いた声が、考えるように伸びた。後ろでガチャガチャと騒音が聞こえる。
外からかけているみたいだ。
「しょうがないな」
はっきりとした声。肩をすくめている姿が目に浮かんだ。
あたしは一瞬、深く後悔する。なんで嘘なんてついてしまったんだろう。
「じゃさ、お前でもいいや」
「?」
「荷物預かって欲しいんだよ、美月さんに渡す分なんだけど」
「…」
あたしは少し黙る。
恭平はいつも自分のペースで話す。
あたしがすごく、恭平と話すときに微妙な気持ちになっていることを気付いているのだろうか。
「今どこ」
低い声で、用心深くあたしは聞いた。
「ネミッサにいる」
「ネミッサって、ネミッサ?」
「そうだよ」
「あのさ、」
「じゃ、待ってるからな」
ぷつん、と乱暴なくらい唐突に電話は切れた。
「…ちょっと?」
電話が切れたことくらい分かっていたけれど、あたしは聞き返し、ため息をついた。
「…ええと」
受話器を下ろしながら壁の時計を見る。二時半だ。
ネミッサという喫茶店は、割と雰囲気のいいお店で、うちからは十分もかからない距離にある。
少なくとも、今から美月の部屋に行って美月を起こすことに比べれば、行く気にならない距離ではない。

でかけようとしていたところの電話に、あたしは少しくやしいような、変な気分になっていた。
セーターの裾を直して、あたしは髪の毛をかきあげる。
確かに用事はない。どこかに行くとか、何かを待たなければならないなんて事はない。
けれど、なんとなく癪だった。
結局のところあたしはネミッサに出かけるのだろう。
行かない理由なんてどこにもない。タイミングが良すぎるのか、悪すぎるのか。
あたしは無神経な恭平の笑顔を思い出して少し、不機嫌になった。
会いたくないわけではないけれど、どういうわけだか不機嫌になった。
窓に映る自分を見て、つい、激しく共感してしまう。
そこにいるあたしは、すごく、困っている顔をしている。
そんな自分の顔につい苦笑して、やっぱり恭平に会いに行くことにした。
もう、あいつに会うのも、ずいぶん久しぶりだ。何週間振りだろう。
あたしはあいつの顔を思い出しながら靴を履いた。

NEXT

BACK

HOME