[7]ブルーベリータルトのケーキ

9月13日午後



実は、恭平のことが好きだった頃がある。
と言っても、本当に、前の話だ。

あの頃はあたしも、恭平もまだ本当に子供だった。
あのまま、恭平がアーケード街から出て行かない世界が続いていたら、もしかしたらあたしは、あいつと付き合っていたのかもしれない。なんて考えたこともあった。
でも、そんな仮定のことを考えるのはむなしい。
だって恭平は、誰にも何も言わないでこの街を出て行ってしまった。
確かに去年、帰ってきたけれど、何年も音信不通になっていたあいつのことなんか、もう、あたしは知らない。
あたしと恭平の間は、だから、やっぱり少しぎごちないと思う。
一方的にあたしが恭平を気にしているだけなんだろうか。
とにかく、あたしはまだ、あいつのことを完全に許してはいない。
許していないと言うのもおかしいかもしれない。
初めから、あたしと恭平の間には何もなかったのだから。

家を出てすぐにあたしは帰りたいような気分になる。
新しい靴なんて履いてくるんじゃなかった。
不意に、恭平が帰ってきたときのことを思い出したりしている自分がいる。
それはとても、気恥ずかしいことだ。
あの時、あたしは、寸前のところで意気地なしだった。
あれだけ言い合いをして、結局のところ本当に言いたかったことは何も言えなかったし、本当に聞きたかったことは何も聞けなかったのだ。
あたしは首を振る。
変に意識してしまう気がした。頭から追い出そうとしても、逆に、意識してしまう。
すごく、中途半端な気分だ。

修二くんの顔が少し浮かぶ。
一体、あたしは何がしたいのだろう?
誰かを好きになるってことは、他の誰かを好きにならないってことなのだろうか?
そんなことを考えて、あたしはすぐに打ち消した。
そんなことを考えるのは、とても、失礼なことだ。馬鹿にしたことだ。
左手のビルに旗がかかっているのが見える。薄い水色の旗だ。鉄の屋根と合わさって、とても綺麗に見える。空の下では、きっと映えない色なんだと思う。
あたしはそれを視界の隅に入れながらまた、首を振った。
あたしは、これ以上余計なことを思い出さないように、早足で歩いた。
さっさと恭平に会って、さっさと用事を済ませて、帰ろう。
恭平に会ったら、できるだけ不機嫌そうな顔をして、余計なことは話さないようにしよう。そんなことを考えながら歩いた。

ネミッサは平日以上の混雑だった。
土曜日の三時という時間のせいか、ほとんど空いている席がないようだった。
通りから、オープンカフェ風の中の様子はとてもよく見える。綺麗な照明だ。
こげ茶色をしたテーブルと椅子。
明るいオレンジ色のテーブルクロスが、とても綺麗だ。
ざわざわとした幸福な騒音が、近づくごとに肌に触れてくる。
悔しいけれど、少し気分が上向く。本当に、少し悔しい。
これは恭平と会うせいじゃないんだと自分に言い聞かせると、ほんの少しだけすっきりしたような気になる。
入り口まで来ると、少しだけ甘い匂いがした。今日の日替わりケーキはブルーベリーらしい。
あたしは背伸びして恭平の姿を探す。なかなか見つからない。
「あー、こっちこっち」
やる気のない、その癖妙に響く恭平の乾いた声が、テラスに近いほうから聞こえた。
あたしはそっちに顔を向ける。恭平が手を上げていた。
「あ」
体をひねってこっちを向く恭平のテーブルに、タルトの乗ったお皿が見えた。
おいしそう、なんて反射的に思ってようやく、不機嫌そうな顔をするんだったと思い出した。舌打ちに近い気分で恭平のいる席に行く。
緩やかな音楽が、流れている。転がるようなピアノの音が、足音にあわせて流れている。

「ほれ」
音を立ててコーヒーカップを置いて、恭平は小さな包みをひらひらと見せた。
「ん」
席に座らないまま受け取ってあたしは恭平の顔を見る。
口を曲げて、笑うような顔をしている恭平と、あたしの視線は少しだけ絡まる。
「…じゃ、帰れ」
まるでわざとらしく言う恭平を無視してあたしは恭平の前に座った。
座って恭平の顔を見て初めて、自分が、帰りたかった訳ではないのだと気付いた。
こうなることが嫌だったのだ。
一体、何を話していいのかわからない。その「間」はとても苦手だった。自分で座っておいて、ひどく落ち着かない気分になっていた。
なんだか、とんでもないことを口走るような気がする。
恭平は気持ちを逆なでするのがとても上手だ。
恭平と会うと、いつもあたしは自分が押し込めているものを強く意識する。
きっとあたしは、自分が思うよりずっと、恭平のやつを羨んでいるのだと思う。
素直で、自由で、自分の好きなように生きているみたいに見える。
そう、あたしは羨ましがっている。
たぶん、恭平があたしを残してアーケードを出たことまでもを。

「土曜日に一人でボケーッとしてる女って、悲惨だよな」
あたしは返事をしない。
恭平のいやなところはこういうところだ。
恭平は自分のことをあまり話さない。そのくせ黙っていないのだ。
「これ、中身何?」
あたしは意識して話題を変えた。
恭平は乗ってこない。逆に話題を変えてくる。
「美月さん、どこいったんだろうな」
「さあ」
あたしは、自分でもびっくりするぐらいの早さで言い返す。
少し長めの沈黙。
あたりの音が、不意にうわついているような気分になる。あたしの気が沈んだのだろうか。とにかく、なんだか、急に違和感を覚える。
あたりの音が気になりだす。
恭平がにやりと笑った。
「あー、喰えよ、それ」
言いながらケーキの乗ったお皿を人差し指で突く。
恭平の笑顔は、なんとなく、素直じゃない。小意地の悪い感じがする。
慎重に黙って、あたしは恭平の顔をうかがった。
「…いらない」
「そうか、じゃあやらない」
言ってすぐにお皿を引き戻し、恭平は椅子に深く座りなおした。
あたしがため息をつくと、何を誤解したのか恭平は低い笑い声をもらした。

「しっかし、美月さんも勿体ねえことするよなァ」
恭平が何気なく言った言葉に、あたしは弾かれるように顔を上げた。美月の名前が、耳に残る。一瞬文脈すらよく分からなかった。
「あれが原因で喧嘩してんのか」
恭平の声が、段々意味を持ってあたしの中をわんわんと回り始める。
言っていることは分かっても、一体、何の話だか、さっぱりわからない。
少し、気持ちが青ざめるのがわかる。
あたしが知らないことを恭平が知ってるっていうのは、一体どういうことなんだろう?
「でも美月さんのそういうことにお前が文句いうのは、筋違いだろ」
恭平が、説教をするみたいな調子で続けるけれど、あたしは途中で聞くのを止めた。
抑揚がなく、鋭い声があたしの喉から漏れる。
「何の話?」
恭平の開けっぴろげな表情が一瞬、気付いたようにすっと閉じた。ほんの少し黙る。
あたしは、自分の表情がとても硬いんだろうな、と他人事のように思った。
鈍い恭平ですら、気付くくらいに。
「いや、」
恭平はすばやく何かを否定しかけて、口篭もる。
気まずそうな顔になり、きちんとした言葉を出さないまま恭平は、もう一度椅子に深く座った。
深く座ってひとつ大きな息を吐いて、恭平は体勢を落ち着けたようだった。
「ケーキ、食えよ、とりあえず」
ゆっくりと、とても用心深い声で言って、恭平はケーキのお皿を押しやってきた。
「いらないから」
小さい声で強く、あたしは拒否する。硬い声だった。
ケーキで誤魔化すみたい。とても頭に来た。
「なんの話なの」
恭平は答えない。
「いいから、食えよ」
言って、恭平はむっつりと黙った。手を組み合わせて、じいっと、お皿だけを見た。
そして嫌な沈黙が、あたしたちの間に横たわった。

あたしの中で美月がぐるぐると回る。
後姿ばっかりだ。もう美月の表情が、思い出せない。
美月と最後に話したのはいつだろう?
思い出そうとしなければ思い出せないくらい前だってことだけは確かだ。
あたしは恭平に負けないくらい深く、ふうう、と息を吐いた。静かに、体を落ち着けるために。
「…恭平、美月とよく話すんだね」
「そんなことねぇよ」
ぶっきらぼうに返事をする恭平は、さっきのあたしと同じくらいに返事が早い。
返事の早さで質問の答えを思い知る。
最低だ。
恭平にまで気を遣われている。すごく惨めだ。
あたしは目をつぶった。言葉が、ため息のようにこぼれた。
「やっぱりあたしとだけ口きかないんだ、美月」
自分で口に出して、あたしは、自分が静かに追い詰まってゆくのを感じていた。

恭平が、ひどくむずかしい顔であたしを窺っているのを感じた。
「半分でいいから、食えよ」
投げやりとも思えるような口調で恭平は言った。強引な言い方だった。
あたしはそれを徹底的に無視する。
不意にむかむかしてくる。猛烈な勢いで、ここに来たことを後悔し始めていた。
今すぐ帰りたくて仕様がなかったけれど、立てなかった。
話の続きを知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが揃って邪魔をしていた。
綺麗な色をしたブルーベリータルトまでが憎らしくてしようがなくなる。
「落ち着け」
恭平が、美月みたいな声を出す。
押し殺したように言った恭平の目の中に、あたしは決意を見た。
息を吐き出すような調子の恭平の声は、腹を括ったようだった。
どんなことを聞かされるんだろう。
あたしは、初めて自分が怯えていることに気付いた。
あたしはあたしの知らない美月のことを聞かされて、どうするっていうんだろう?
そんなことで美月を分かった気になるの?
それとも、余計に美月を遠くに感じてしまうだけなんだろうか?
なんだか、とてつもなく、途方もない感覚があたしを包んだ。
美月のことを、あたしは、どうやって理解するんだろう。
「…わかった。…どこから話せばいい、どこまで聞いてるんだ」
恭平はすごく低くて、重たい声で言った。
「何も聞いてない」
あたしはバカみたいに頭の中と同じことを口に出しながら、目が回りそうになった。
聞いて、どうするんだろう?どうするの?どうするつもりなの?
ぐるぐると、パニック感だけが喉までせりあがる。

「ちょっと待って」
言ってあたしは右手をテーブルの上に置いた。震えないようにしっかりと、テーブルに押さえつける。あたしは息を吐き出した。
恭平が片方の眉を上げる。暗い表情だ。あたしは恭平が何かを言う前にそれを、ふさぐように言った。
「あたし、ききたく、ない」
あたしは断固として言った。
「…いいのか」
恭平の言葉がいきなりあたしの決意をぐらつかせる。
「あとで聞かせろったって、俺はもう絶対言わねえからな」
恭平はじっとあたしの目を見て、いいのか、と繰り返した。
あたしは息を吸って、少しだけ笑った。
楽しかったわけではない。むしろ、怖かったのだろうと思う。
ふるえるように、笑いが漏れた。漏れた息と、横隔膜の痙攣が、笑いのように見えただけなのかもしれない。
「聞きたくなったら、美月に聞くから、いい」

恭平は、暗い顔のまま、じっと黙る。
「…聞いたって、答えてくれねえと思うけどな」
「どういう意味」
「今まで黙ってたんだったら、これからも言わねえよ。あの人は」
口をあけて、あたしはすごく、悔しい気持ちになる。
美月のことを、よりにもよって恭平なんかに言われるなんて。
「あの人なりに考えがあって黙ってるんだろ」
「あたしには言うよ」
「…」
むきになって言い返して一秒後にあたしは後悔する。
恭平が目をすっとそらしたことで、あたしは自分の愚かさを思い知る。
今の美月に、一番遠いのはきっと、あたしなのに。
恭平が言わずにそらした言葉が、はっきりと分かった。
<でも、おまえ、くちきいてもらえねえんだろ?>
あたしはまだ、美月のことを一番分かっていて、一番分かってもらっているつもりでいる。自分だけは特別だなんて、根拠はもうどこにもないのに。
「帰る」
あたしは短く言って立ち上がった。
最低の気分だった。
いやみで、嘘つきで、見栄っ張りで、なにもできないでいる自分を見つけるのは、やっぱり最低の気分だった。
これ以上一言でも喋ったら恭平に、取り返しがつかないくらい軽蔑される。そう思った。

「待てよ」
恭平はまた、美月みたいな声を出した。あたしは無視して歩き出す。
恭平の横をすり抜けるとき、ぐっと、腕をつかまれた。
「自分見るの嫌いか」
「…!」
恭平の手のひらはとても硬かった。機械のように硬くて、痛かった。あたしの目を見ない恭平が、とても遠くに見えた。手でつながる距離にいるのに、すごく遠く見えた。
恭平は、あたしの腕を掴んだまま、テーブルの上を見ていた。
あたしの方を、これっぽっちも見ようとせず、恭平はテーブルの上のケーキを見つめていた。
「俺からは、お前がよく見えるぜ」
恭平の声は、とても低く、まるで掴んだ腕からあたしの体に伝わったようだった。耳ではなく、腕からその声は聞こえたようだった。
あたしはこっちを向かない恭平を、視線で殺せるくらいに強くにらんだ。
「…っ」
そしてその硬い手を振り解いて、ネミッサを出た。
周りの誰一人として不審に思わないぐらい静かに、あたしの午後は終わった。

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