恋人のいた風景
夜中過ぎにふっと目が覚めた。 今もそうだ。咽喉がひどく痛かった。焼けるようだった。 そういえば前にもこんなことがあったなと思い出した。 布団から這い出して麦茶を飲みながら、思い出した。 * 彼女とは動物園に行く約束をしていた。 パンダが見たいの、と彼女は子供のように呟いていた。 衝撃的なニュースタイトルが並ぶ時代の中で僕は彼女のそういうところにいかれていた。 味のない、ファーストキッチンのポテトを二人で分け合いながら次の二連休についてずっと話していた。 確か、雨が降っていた。 僕が彼女と会うときはなぜかいつも雨だった。 窓ガラスは、曇っていつも真っ白だった。 パンダを見る予定だった土日は、晴れだった。 彼女は死んだ。 彼女はパンダを見ることができなかった。 パンダを見に行く前に、僕のいないところで死んだ。 僕はパンダのかわりに彼女のお葬式に出た。 * 布団の中で、次第に痛くなる喉をかきむしりたいのをおさえていた。 彼女のことを思い出したら眠れなくなった。 そして彼女のことを考えるかわりに、前に一度あった「こんなこと」がいつ起こったのか思い出そうと目を閉じた。 * 僕は黒ずんだ木の床の部屋にいた。 黒い革張りの長椅子に座っていた。 いくつか手書きの張り紙と、花粉症のポスターが古ぼけた壁に貼ってあった。 窓ガラスは濡れて、外の色をつやつやと光らせていた。 蛍光灯も古いのか、薄暗かった。ストーブが真っ赤な内面を僕に見せつけていた。 どうだ、俺はこんなに燃えているんだぞ、とでも言いたげな自信に満ちた古いストーブだった。 * ここは大木耳鼻咽喉科医院だと僕は思い出した。 僕は夢を見ているんだと、思い出した。 * 濡れた窓ガラスの向こうの景色の中に暗く鮮やかなオレンジ色が見えた。 柿の木だった。時々雷がなりそうな気配がしていた。 変な明るさの外を見ながら、彼女は言った。 「雨、すごいね」 * 彼女?と僕は思い出した。 * 待合室の中央にはこげ茶色のテーブルが、でんと置かれていた。 雑誌が二冊投げられたように無造作に置かれていた。 待合室にいるのは僕と彼女を含めて四人しかいなかった。 どこかでキコと、何かのきしむ音がした。 ストーブが暖かい湯気を吐き出していた。 「ごめんね」 と僕は言った。彼女は僕のとなりで首を振った。 * 目が覚めた。 * 僕は彼女が死んだとき、泣かなかった。 彼女が死んだであろう瞬間に僕は、笑ってテレビを見ていた。 彼女が死んだ次の日、僕はその事実を知ったのだった。 彼女が死んだ。 彼女がいなければ動物園に行けない。違う。動物園に行くことはできる。 彼女がいなければパンダを見られない。違う。見るだけなら一人でもできる。 僕はなにが出来ないんだろう? 分からなかった。 * うがいをしたが、喉の痛みは消えなかった。 これじゃあ学校は無理だなと僕は思った。 変な気分で寝なおすことにした。時計を見るとまだ夜といっても通る時間だった。 夢をまた見た。 * 僕は頭を抱えていた。 彼女がいなくなったことをどうやって実感すればいいのだろう。 分からなかった。 「どうせこんなものさ」と誰かが言った。 ぐにゃりと曲がった時計の下で僕は、彼女のことを本当はあんまり好きじゃなかったのかな、なんて思っていた。 * 目がまた覚めた。 僕は着替えて、大木耳鼻咽喉科へ行こうと思った。 息をすると相変わらず苦しかったけれど、熱はないようだった。 僕はネクタイを締めた。 * 彼女の顔をたどってみた。 よく思い出せなかった。 彼女は本当にいたのだろうか? 訳のわからないことを考えた。 「君がいないと僕は」 「君がいないと僕は」 続きが出なかった。 * 雨が降っていた。 歩きながら僕は、大木耳鼻咽喉科医院の待合室にはこげ茶色のテーブルがでんと置かれているだろうと思った。 そしてその上には雑誌が二冊ほど、投げられたようにばさりと置いてあるだろうと思った。 受付で保険証を出して、僕は待合室に入った。 * 彼女とはいろいろなところに行った。 そしていつも僕は彼女よりよく喋った。 そうだった。 咽喉をいためるほどに。 * そのとおりだった。 待合室の中央にはこげ茶色のテーブル。 テーブルの上には無造作な二冊の雑誌。 待合室には僕と彼女を含めて四人しかいなかった。 * 彼女? と僕はようやく思い出した。 * ストーブが揺らめく湯気を吐きだし続け、窓ガラスはびっしりと曇っていた。 どこかでキコと何かのきしむ音がした。 柿の鮮やかなオレンジ色が、曇ったガラス越しに映えた。 「ごめんね」 と僕は言った。 彼女は隣で首を振った。 泣きそうだった。 僕は確かに泣きそうだった。 「ごめんね」 彼女は黙ったまま、もう一度首を振った。 * 目が、覚めた。 * 咽喉が猛烈に痛かった。 そして僕は、 そういえば前にもこんなことがあったな と、ふと思い出していた。 |