発着場が見えた時には、もう日が暮れようとしていた。
まさに、辛うじて、という状態で、あたしたちは帰還した。
途中から航太郎の乗ったフラミンゴが誘導してくれたお陰で、辿り着けたようなものだった。
しかし、ヒューヴの体力は辿り付くので限界だったようだった。
着陸も不恰好に鳴き声も上げず、ヒューヴは墜落するように発着路の砂地に落ちた。
着陸のショックであたしは背中から地べたに投げ出された。
手首を捻ったみたいで、ひどく痛んだ。
トオマワリが走り寄ってきて、動けずにいるあたしを抱き起こした。
彼に抱えられながら、桑納さんたちが乗用ユニットのストラップを切断してゆくのを見た。
ごとり、とヒューヴの背中からユニットが取り外されるのが見えた。
そして、身体だけになったヒューヴが搬送用カゴットに乗せられるのを見ていた。
傷口にべったりとついた砂が、とても痛々しかった。
地面に転がって残されたユニットは、まるでいびつな卵のようだった。
いびつな卵の、いびつな影が発着場に長く伸びていた。
そして、トオマワリに背負われて管制棟へ向かいながら、軍人がその卵から引っ張り出されるのを見ていた。
勧められるまま、管制棟のロッカールームで着替えた。
お湯をしぼったタオルで身体を拭いて、くらく瞬く電灯を見上げる。
制服のままだったスカートは裾が少しだけ切れていたが、目立たないといえば目立たない。家に帰って繕えば平気だろうという程度だった。
あたしは破れたフライトジャケットをたたみ、制服の上をかぶる。
重たい疲労があたしを包んでいた。
少し椅子に座り、目をつぶって頭を押さえた。
カゴットで運ばれてゆくヒューヴの姿がまぶたに浮かんだ。
ヒューヴが死んでしまったらどうしよう、という、いやな想像が胸を締め付けた。
思うだけで、ひどくおそろしかった。
いつも、空の上で感じていた気持ちのよい孤独とは、きっと本当の意味での孤独ではなかったのだと、ようやく気付いた。
あれは孤独ではない。きっと、孤独とは正反対のものだったのだ。
あたしは一人きりで空の上にいるけれど、そばにはヒューヴがいる。気付かなかったけれど、いつもそうだったのだ。
今、あたしの感じているおそろしさこそが孤独なのだ、という確信があった。
「…駄目だ、しっかりしなくちゃ」
あたしは口に出し、立ち上がった。
ロッカールームを出ると、管制室で事務椅子に腰掛けていたトオマワリがこっちを見た。
蛍光灯の明かりが少し、まぶしかった。
「落ち着いたか」
控えめな声に、あたしは黙って頷く。
「テクンの軍人が目を覚ましたそうだ」
「そう」
「今、桑納先生がドックで神経だかなんだかの調整をしているらしい」
言いながらトオマワリが立ち上がった。
「ごめんね。これ、破れちゃった。直して返すよ」
ジャケットの中に入っていた鍵だけを渡すと、彼はあたしの顔を見た。
「湿布やるよ」
言いながらトオマワリは受け取って背中を向ける。
手首を揉むと、じんわりとした痛みが内側から広がった。
無意味に痛みを味わいながら、あたしは観葉植物の脇の窓を見た。
遠くの空が、濃い橙色に染まっている。
ほら、と手渡された湿布と包帯を受け取って、外を見ながら包帯を巻く。
何か喋らなきゃ、と思っているのだけれど、言葉がうまく出てこなかった。
「あのさ」
「なんだ」
あたしは何かを言いかけて、何を言おうとしていたのか不意にわからなくなった。
仕方がないので仕事のことを喋ることにした。
「手紙、届けそこなっちゃった」
「…そうだな」
トオマワリがコーヒーカップを摘み上げた。
コーヒーをすする彼の顔は、表情が読めない。
何を考えているのか、何を思っているのか、よくわからない。
怒っているようにも見えるし、気遣ってくれているようにも見える。
「…ここ、留めて」
あたしは包帯を巻き終えて、小さな声で腕をトオマワリに差し出した。
「怖かったか」
トオマワリはテープを千切りながら言った。不意のことに、返事ができない。
「ベテランのケイブランナーでも、ムル喰いに出くわすなんて滅多にあるもんじゃない」
「…」
「怖かっただろう」
管制室は、しいんと静まり返っている。
包帯を留めるためにトオマワリの手があたしの手に触れた。
「ヒューヴァーの事は心配するな。死ぬような怪我じゃないそうだ」
「…本当?」
「嘘ついてどうする」
包帯を留めてそこをぽん、と叩き、トオマワリは言う。
「詳しいことは桑納先生にでも聞いてくれ」
彼は首を少しだけ傾けて、少しだけあたしを気遣うような目をした。
「…その怪我、どうするんだ」
「どうするって」
「それ、帰ったら親御さんに聞かれるだろ。平気なのか」
「…ああ」
あたしは肩をすくめた。
「バレーの授業で挫いたことにでもするよ」
「そうか。でも…もし困ったことになったら、いつでも俺は説明するつもりで」
「よしてよ。飛行器からおちて捻ったなんて聞いたら、両親ともびっくりして死んじゃうわ」
「…そうか」
肩を落としてトオマワリは、複雑そうな顔を見せた。
彼が気を遣ってくれているがはっきり判った。
あたしはそんな彼の気持ちをありがたいと思った。
まだ若いくせにトオマワリは大人だ。
思いついたようにトオマワリは、送ってってやろうか、と言った。
「心配しないで。大丈夫だから」
あたしは軽く胸を張って、強がってみる。
トオマワリは三度目のそうか、を繰り返し、またちょっとだけ複雑な表情をした。
管制棟を出て発着路を眺めると、ユニットはもう片付けられて、発着路にはもう何も残っていなかった。
赤茶けた土が、ただ時々風に舞っているのが見えるだけだった。
「ヒューヴ」
呟いて歩き出し、あたしは、空を落っこちながら見た風景を思い出す。
桑納さんをはじめとしたメカニックたちが、こっちを見つめ、距離を取りながらもそれぞれ工具を手にして走ってくる風景。
その後ろから走ってくるトオマワリの姿。
ヒューヴの落とす、黒く、大きい影。
カゴットのタイヤの跡。
地面。
平らな屋根の建物へと進む足が、自然と重くなる。
ドックのまわりはこわいくらいに静かだった。
夕焼けが強くなると夜に近付くのか、夜が強くなって夕焼けが消えてゆくのか、判らないけれど確実に、あたりは夜へとかわりはじめていた。
開け放してあるシャッターから、中の明かりが漏れている。
中でヒューヴがどんな姿になっているのかを想像すると怖かった。
少しだけ決意を固め、あたしはシャッターをくぐった。
カゴットが降りたフロアエレベータの、脇の階段を使って地下に降りる。
そこには作業用の白衣を着た桑納さんが椅子に座っていた。他に人は見当たらない。桑納さんが一人だった。
あたしに気付いて桑納さんはこっちを向き、組んでいた腕を解いた。
「ああ、しなりさん」
桑納さんの声は、いつもと同じ声だった。
あたしは手すりをつかんで、ぎごちなく会釈をした。
なんと言えばいいのか判らなくて、少しだけ動けなくなる。
ふ、と桑納さんが目線を外す先を追うと、そこに大きなケージがどん、とそびえているのが見えた。
中に見えるのは、ヒューヴだった。
ところどころに包帯を巻かれ、ぐったりと横になって目を閉じている。
「ヒューヴ…」
ケージに近寄ると思わず胸が詰まった。
「幸い、羽根の損傷は大事には至らんかったですよ。筋も無事、神経も無事」
桑納さんがあたしの背中に話し掛ける。
あたしは振り返り、立ち上がった桑納さんを見る。桑納さんはゆっくりとケージの方へ歩きながら言葉を続けた。
「ただやはり一つ、気嚢がやられておりました」
「…」
「生体パテでとりあえず塞いでおきましたが、後日、改めて処置をせんといかんでしょう」
「…フレッチャーの、針は」
「問題のない範囲です。松岡くんが丁寧にペンチで抜いておいてくれました。彼はああ見えて、なかなか手先が細かい」
言って桑納さんはあたしの横に並ぶ。松岡くんというのは最近入ったメカニックだ。
ヒューヴの身体がかすかに上下しているのが見える。
手を後ろに回し、桑納さんは静かにヒューヴを眺めた。
「一週間も経たないうちに、立ち上がれるようにはなるでしょう。とりあえずは絶対安静ですが、ヒューヴァー・パイヴァー号はまた、飛べるようになりますよ」
あたしは桑納さんの横顔を見ながら小さく息をついた。よかった、と声が漏れた。
ええ、よかったです、と桑納さんもヒューヴを眺めながら言った。
しばらくヒューヴを見つめ、あたしは首を振った。
笑いたくもないのに笑いのような息が漏れた。力のない笑いだった。
ヒューヴのからだにフレッチャーを撃ち込んだ瞬間の、とてもいやな感覚が蘇るようだった。
後悔とも少し違う。とてもおそろしい感じだった。
「初めてでした。フレッチャーを使うのなんて」
言いながら、本当に情けなくなってあたしは顔を振った。
ヒューヴがあの時、あたしを庇ってくれたのだということは判っていた。
腹側に傷がある、ということは、背中を庇ったということだ。
ヒューヴがムル喰いの爪を受けたのは、ぐるん、と目が回ったあの時だ、という確信があった。
なのに、あたしは、彼になんてことをしたのだろう。
あたしは首を振った。
何もいえない、と思った。
「わたくしも、若い頃は飛行器に乗っていたものです」
桑納さんは穏やかな顔であたしを見た。
「…?」
「初耳でしょう」
「…ええ、初めて聞きました」
「初めて言いました」
桑納さんは胸ポケットから煙草を取り出した。
吸ってもよござんすか、と桑納さんは言いながら椅子へと戻る。
「座りませんか」
「はい」
ふう、と息を吐いて桑納さんが煙草に火をつける。
「そうですね。わたくしが飛行器に乗っていたのは、もう、何年前でしょうか。いまだ、鉄ペリカンなど飛んでいなかった頃です」
隣に座りながら、あたしはその頃のことを想像した。
鉄ペリカンが開発される前ということは、初夢さんが現役だった頃よりもっと前のことだ。
そんなに昔のことを聞くのは初めてだった。
「その頃の飛行器は、一人乗りの、ブンチョウ式が一般的でしてね。いわゆる開拓期というやつです」
「…それに乗ってらしたんですか」
「ええ。ヒューヴァー・パイヴァー号よりも随分小さな器体です。それでも、当時は随分大きく感じました」
桑納さんは、ヒューヴの方を向いたまま遠い目をした。
「あの頃は毎年夏になると決まってどこかでムル蝶が大発生しまして、難儀したものです」
「ブンチョウ式の飛行器は、決して戦闘用の器体ではないのですが、よく、薬剤のつまった缶を背負わされて、ムル蝶駆除に駆り出されました」
しなりさん、知ってらっしゃいますか、と桑納さんはあたしに話を振る。
「ムル蝶の燐粉には、軽微ですが、毒が含まれているのです」
「毒、ですか」
「毒といっても死ぬような毒じゃあありません。吸い込むと気持ちが悪くなる程度の、本当に軽微なものです」
「はあ」
「ですが、見くびっていて、その毒にやられました」
桑納さんは、本当に淡々と続けた。
「ムル蝶の毒で気を失って、乗っていた器が落ちました。落ちて首の骨を折って、器体は即死です。わたくしも、あばらと腕の骨を折りました」
静まり返った地下室で、桑納さんは灰皿に煙草の灰を落とした。
「わたくしは、若い時分、本当に気が弱かったのです。今でも大して気の強い方じゃあござんせんが、あの頃は、本当に臆病だったのですね」
「…桑納さん」
「当時からフレッチャーのようなものは、常備されておりました。もう少し原始的な仕組みで、使うのをためらうような形をしておりましたが、とにかく、わたくしもそれを一つ持っておりました」
じじ、と煙草の燃える音さえも聞こえるような気がした。
「わたくしの乗った器体が高度を落としているのは、すぐに気付きました。落ちる、どうしたらよいのだろう、とわたくしはパニックに陥りました。今にして思えば、慌てたせいで判断を誤ったのでしょう。ハチェットを、ええ、ハチェットというのは今で言うフレッチャーのことなのですが、とにかくわたくしは、ハチェットを使いませんでした。使えなかったといったほうが正しいでしょうか」
淡々と、桑納さんは続け、そこで言葉を切って少し笑った。
「おそろしかったのですよ」
「?」
「どうしても、器体にハチェットを撃ちこむ勇気がなかったのです。それを使ったらもうまともな飛行器乗りではなくなってしまうと思うと、おそろしかったのです。わたくしは落ちつつある器体の中で、ハチェットを使わないでどうやって器体を立て直すか、そればかりを考えていました。最後の手段を使うのが恥ずかしかったのですね。つまらないことです」
「…」
「結局、器は落ちました。単なるわたくしの判断ミスですよ」
桑納さんが煙草を消した。
灰皿から、煙が天井に向かってゆらゆらと伸びる。少しきつい煙草の匂いがした。
「しなりさんは人助けをしたのです。立派なことです。もっと胸を張ってよいんじゃありませんか」
桑納さんはそこでようやくあたしの目を見て笑った。柔らかい表情だった。
「そんな顔をしちゃいけません」
「でも」
「過ぎたことは過ぎたことです。起きたことを受け止めるのは大事ですが、起きたことを償うに大事なのは、次、ということではないでしょうか」
わたくしはしなりさんの判断は正しかったと思いますよ、と小さく笑う。
「ヒューヴァー・パイヴァー号もしなりさんもテクンも、皆、生きているのですから」
まるで何かをなぞるように桑納さんは言った。
しばらく黙ってから、あたしは頷いた。なにか言おうと思ったが声が出なかった。
「こわかったでしょう」
「…」
「死ぬかもしれないと思ったら、おそろしかったでしょう」
トオマワリと同じことを言いながら桑納さんはぺたぺたと歩き、座っていた椅子へ戻った。よ、こら、と掛け声が聞こえた。
あたしは下を向き、ヒューヴにフレッチャーを向けた時のことを思い出した。
「桑納さん」
振り向くあたしの表情を見て、桑納さんがにこりと笑った。
「それで、ようござんすよ。しなりさんはよい飛行器乗りになります」
そうでしょうか、という言葉を飲み込んで、代わりにあたしは首を振った。
よい飛行器乗りになれるなんて気はしなかったし、ヒューヴのことを思うと苦いものばかりが浮かんだ。
けれどそこから先は、一人で考えるべき領域だった。
慰められたり、優しい言葉をかけられたり、甘えるわけには行かない。
あたしは首を振って目線を上げ、桑納さんにおじぎをした。
「あたし、帰ります」
明日また来ます、と告げて地下から出ると、あたりはすっかり夜に落ちていた。
今日は色々なことがあった。正直、こんなに疲労を感じたのは久しぶりだった。
早く帰らないと、と目をこすり、あたしは歩き出す。
「なあ、軍人に会ったか」
「うわあ!」
突然背後から声をかけられ、あたしは飛びのいた。
よく見ると、暗がりから現われたのはトオマワリだった。
「な、何よ、なんなのよ」
思わず身構えたあたしを見て、彼は少し憂鬱そうな表情をした。
脅かしておいて随分な表情だ。非難しようと思ったあたしを遮って、その表情のままトオマワリは繰り返す。
「会ったか、軍人に」
首を振ると、彼はドックの方を見て眉に皺を寄せた。
「そうか。…帰っていいぞ。事故るなよ。暗いからな」
「何よ」
「…妙だと思わないか」
「だから何が」
「あの軍人、どうしてあんなエリアにいたんだろう。…何に乗ってたんだ?」
トオマワリが鼻の頭に手をやる。
「飛行器で来たにしては不自然だ。あんなポイントで着陸する意味がない。ケイブランナーだとしたらもっと不自然だ。森が深すぎる」
「…」
「どうも妙なんだよ」
あたしが怪訝な顔をしていることに気付いたのか、トオマワリは気付いたように手を振った。
「ああ、いい、いい。子供は帰れ。親孝行しろよ。じゃあな」
トオマワリはそれ以上話すつもりがないようだった。
言うだけ言って背中を向け、ドックの方に歩き出す。
その後ろ姿をしばらく見つめながら、あたしは彼の言ったことを繰り返し考えてみた。
軍人が何に乗っていたのか、どうしてあのエリアにいたのか、考えてみた。
無論判るはずもない。
ぼんやりしたまま、トオマワリがドックに入ってゆくのを見送って、あたしは考えるのを止めた。
「ああ、帰らなくちゃ」
あたしはうめくように声を出し、よたつくようにガレージに向かう。