いつもの共同ガレージにバイクを停めて、あたしは早足で家へ向かった。
リュックに詰めた筆箱が、地面を踏むたびに、かちょんかちょんと鳴る。少し耳障りだった。
いつもドアを開ける方の手に包帯を巻いていたので、逆の手で鍵を回し、ドアを開けた。
少し大きな声でただいまを言うと居間から、あらあ、と返事が聞こえた。
早かったわねえ、とテレビを見ているらしい母の声が、廊下を渡って聞こえる。
返事に困り、あたしは、まあね、と大きな声を出した。
「ちょっと先に着替えるから」
言いながらあたしは早足で階段を上った。

部屋の戸を閉めて、息をつく。
時計を見ると、もう六時を回っていた。
ベッドの上に鞄を投げると、かすかにチャイムが鳴るのが聞こえた。
誰だろうと思いながら振り向き、今日は母がいるということに気付いた。
母に出てもらおう、なんて思いながらそのまま着替えることにする。
なんだかひどく疲れていた。
これから夕食の支度をするのだと思うと、むしろ食べないですぐ寝たほうが体力は回復するのではないかとさえ思った。
片手でジーンズをはくのに難儀しながら、あたしはヒューヴのことを思った。
あたしに出来るのは祈ることくらいだけれど、逆に言えば、祈ることだけは出来るのだからとにかく祈ろう。とりあえずはそう思った。
神様、ヒューヴがはやく良くなりますように。
祈りながら着替え、あたしは、ぼふん、とベッドに倒れこんだ。
柔らかい布団を顔で感じて、思わずそのまま眠りたい衝動に駆られる。
しばらくそのままの姿勢で、うう、と、布団の感触を味わう。

玄関の方が随分静かだった。
聞き耳を立ててみたけれど、母が応対している気配がない。
もしかしたらテレビに夢中で、チャイムに気付いていないのかもしれなかった。
しばらく待ってから体を起こし、あたしは部屋を出る。
階段を駆け下りながら、はあい、ちょっと待って、と叫び、片足でサンダルをつっかけて覗き窓を覗いた。
外に、うちの学校の制服を着た誰かが立っているのが見えた。
「どちらさまですか?」
ドアに顔をつけながら尋ねると、ドアの向こうの人影は少し驚いた風にドアを向いた。
外で、覗き窓の正面に顔が映るように姿勢を変えるのが見える。
「…あの、真瀬といいます。鈴木さんと学校で一緒の」
「マセ?」
あたしは呟き、目を細めて、レンズ越しに歪んだ彼の顔を凝視した。
「あ、ああ、ああ」
昼の、隣の席の男子だった。
ようやく彼の名前が、すんなりとおなかに落ちる。
そういえば連絡網で<真瀬>って変わった苗字だとか、思ったことがあったっけ。
相変わらず下の名前は思い出せなかったけれど、とりあえず誰だかは判った。
振り返って居間の方を確認してから、細くドアを開けてあたしは外にすべり出る。
ただのクラスメイトとはいえ、男子が尋ねてきたなんて知ったら母がどんな想像をするか判ったものじゃない。

あたしは外に出て、後ろ手にドアを閉めた。
「やあ」
怪我をしていないほうの手で挨拶をすると、彼は軽くその形のよい唇をあけた。
「…やあ」
学校の外でクラスメイトと会うと、何とはなしに違和感を受ける。
なんだか、テレビの登場人物が抜けて出てきたような感じだった。
向こうも同じことを思っているのか、挨拶をしたっきり話が止まり、妙な間があく。
何、と催促するとようやく真瀬は気付いたように顔を赤くして肩掛けの鞄を下ろした。
「今日ホームルームで、配られたプリント、なんだけど」
「?」
「先生に持ってってやれって言われて」
「はあ」
「あの、前、住所録で見て知ってたんだ。鈴木さんの住所。うちのそばだったから」
怪訝な顔をしているあたしに、真瀬は鞄の中から何枚かのプリントをつかみ出して渡した。
プリントは進路指導や修学旅行の知らせだった。どれも綺麗に真中でたたまれている。
几帳面なたたみかただ、と密かに思いながら受け取って、あたしはもごもごと礼を言った。
受け取りながら、最近やけに親切な真瀬は、もしかしたらあたしのことが好きなのだろうか、と少し思った。
それともただ単に、彼が根っから親切なだけなのだろうか。
もし、万が一、真瀬が訪ねてきた理由が<プリントを渡す>以外にあったとしたらどうしよう、と少し考えた。

おそろしいのでその続きはわざと考えないようにして、貰ったプリントにざっと目を通しながらあたしはドアに寄りかかった。ドアの感触が、腕の裏側にひんやりとした。
「真瀬くん、家、近かったのか。知らなかったよ」
言ってプリントから目を上げると、真瀬は鞄をかけなおしながら頷いた。
「うん、近かったんだ。意外と」
「じゃあ通学する時、遠くて大変だね」
「鈴木さん、いつもバイクで通ってるだろ」
「まあね」
「おれはいつもバスだよ。遅刻すると待ってくれないから大変だ」
まるでなんでもない会話。
なんでもない会話に、ぐ、と引っ張られるようにして、つい数時間前の記憶が断片的に、まるで物語のように遠くなる。
ムル喰いに出くわしたのは数時間前。ヒューヴが墜落したのも数時間前。
もちろん、学食でうどんを食べたのも、同じ数時間前だ。
どちらかの記憶を手繰ると、どちらかが幻のようにぼやけてゆく。
まるで自分が二人いるような、そんないやな感覚があたしを襲う。
屋上で香弥子と過ごした時に感じた、すっきりした孤独も、包帯だらけのヒューヴを見て感じた後悔も、まるで他人事のよう。
あたしは自分に言い聞かせる。
どちらもあたしの現実。どちらもすべて本当にあった出来事だ。

なんだかどっと疲れが襲ってきたような気がした。
あの非日常の修羅場から、もう日常に戻っているのだということを、あたしはようやく身体で理解した。
ドアにもたれかかった体が少しだけ、ずり、とずれた。
はは、と明らかな空笑いをして体勢をなおすと、真瀬は包帯に目を留めたようだった。
「手、どうしたの」
聞かれてあたしは息をつめる。右手と真瀬の顔を見比べてはぐらかす。
「…や、ちょっと」
真瀬は聞きたそうな顔をしたが、それ以上聞かなかった。
多分あたしが、聞かれたくないような顔をしたのだろう。
言いかけてすぐに彼は口を結び、聞きたそうな顔すらもひっこめた。
悪いことをした気になって、あたしが何かを言おうとすると、先手を打つように真瀬は首を振った。
「プリント渡したし、おれ、帰るよ」
そんな真瀬の声を聞いたらどうしてだか、トオマワリや桑納さんの顔が浮かんだ。
今日、あたしは気を遣われてばかりだ。人を振り回してばかりいる。
感謝とも、気後れともつかない気持ちが不意に喉をつく。

「あの、わざわざありがとう」

あたしは言った。
声が大きかったのかもしれない。真瀬は少しびっくりしたようにこっちを向いた。
「じゃあ」
「じゃあ、また明日、学校で」
手を振って、彼はすこし笑った。
そうやって笑うと彼の唇は、本当にうつくしい形になった。
その後、どうにかして母の追及をかわしきり、夕食も(無論怪我のせいで大部分母の手を借りることになったのだが)無難に作り終え、詰め込むように食事を済ませ、どうにかお風呂にも入ってから、あたしは部屋に戻った。
最後には半分朦朧としていたが、とにかく、これでこの一日が終わったことだけは確かだった。
くたくただったが、寝る前にもう一度ヒューヴのことを祈った。
ヒューヴの無事を祈り、仰向けになって、なぞるように今日の出来事を思い出した。
香弥子の駄目な彼氏のこと、鉄ペリカンのこと。白いムル喰いのこと、軍人のこと、真瀬のこと、母のこと。
考えているうちに判らなくなり、いつの間にかあたしは眠りにおちていた。


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