苦労して軍人を後部座席に押し込んで、あたしはそばの木に結わえたロープを解いた。
軍人は途中から完全に意識を無くし、あたしは文字通り彼を背負いながら戻ってきたのだった。
彼の半機械の身体は重く、ユニットの上に運び上げるのにも一苦労だった。
一人では抱えて上がれず、ロープで吊り上げたおかげで、随分時間がかかってしまった。
あたしを背中に乗せたまま、ヒューヴが不安げにあたりを見回している。
「平気、平気だからね」
半分自分に言い聞かせてあたしはロープを束ね、ユニットの天板を、そのままずりずりと前のほうへ動く。
いつの間にか風が全く止んでしまっていた。
汗を拭い、頭上を見上げ、あたしは息をつく。嫌な悪寒がした。
「…ヒューヴ?」
囁くようにあたしはユニットに手をついた。
まるで震えるようにフレッチャーに手を伸ばし、あたしは森の声を聞いた。
ざざざ、と森が鳴っていた。
風ではない。風でないものが、森を騒がせている。
ヒューヴがきょろきょろするのを止めてどこかをじっと見つめた。
「ヒューヴ!行って!」
ユニットの上を這いずって前部座席へ急ぐ。
蓋を開けようとすると、がちゃり、と嫌な音がして留め具が何かに引っ掛かった。
…開かない。
めまぐるしく断片的な映像と声が一瞬で頭に浮かぶ。
桑納さんの顔。
急いでいるので、と言って断わったあたし。
留め具の錆び。
そして、博物館で見上げた、ムル喰いの剥製。
あたしは軽いパニックを起こし、大声で叫んだ。
「ヒューヴ!飛んで!早く!」
彼は鳴き声を上げる。首を後ろに回してあたしを見る。
あたしがユニットに納まっていないのが、見えるのだ。
こんな格好で飛ばせたことなんて一度もないということを、覚えているのだ。
「いいから!」
あたしはユニットを叩いて怒鳴った。
怒鳴りながら、さっき束ねたばかりのロープをユニットにくくりつける。
焦って手がうまく動かない。
枝の折れる音が物凄い早さで近付いてくる。
暗い森の向こうから、何かが来る。
戸惑ったようにヒューヴが翼をはためかせた。
狭い離陸スペース、ぐっと増えた荷重、あたしは祈るようにロープの逆端を腕に巻きつけ、握りしめた。
ばさ、ばさ、と風を裂く音がして、ヒューヴが飛び上がる。
重力に逆らい、風に乗るための手がかりを求めて、長い首が空を仰ぐ。
枝を折る音が派手に響く。ばきばきばき、とまるで森を壊すような音が響いた。
あたしたちの音ではない。それは、あたしたちが立てている音ではない。
「ヒューヴ!」
不意に木々を抜けて現われたものにすくみ、あたしは悲鳴のように叫んだ。
まるで鎌を振り回す死神のように、白い腕が唸りを上げて背後に迫っていた。
ムル喰いだった。
倒れつつある木々を駆け上がるように、ムル喰いが迫る。
あたしには振り上げられた二本の前足しか見えない。
残り六本の足が枝を渡る音が、がさがさとまるで悪夢のように響く。
「ヒューヴ、上がって!急いで、ヒューヴ!」
まるで矢のように真っ直ぐに、コウノトリの身体が空を目指す。
ムル喰いは吠えないと聞いていたのだが、それは嘘だった。
歯の隙間から洩れる息のような、そんな音が響いた。
攻撃態勢のまま木をのぼり、あたしたちを追うムル喰いの足が迫る。
不意にヒューヴが身体をよじり、振り落とされそうになってあたしは喉を開いた。
声にならない声が、回転しながらあたしの周りをまわる。掴んだロープが暴れる。
死ぬ、とあたしは直感的に思った。ぎゅうと目をつぶった。
「ごめん…!」
ユニットにしがみつくあたしの喉から、そんな言葉が洩れた。
誰に向けたのか自分でもわからなかったが、あたしの口から出たのはその言葉だった。
散々逃げろといってくれたトオマワリに対してだろうか、それとも、あたしの帰りを待っている母にだろうか。
死ぬ、ともう一度思った。
枝の折れる音がまるで、茂みを駆け抜ける時のように耳元を掠める。
きつくつぶったまぶたの裏には、誰の顔も、浮かばなかった。
ただ、真っ暗なだけだった。
音が消えた。
頬に風を感じて目を開けたらそこは空だった。
青い空が見えた。
ふ、と頭の中が真っ白になって。あたしは目を細めた。
ユニットにへばりついた身体を起こし、雲を眺めた。
これは夢だと思った。
妙に風が頬に気持ちよく、壁を突き抜けたような感覚があたしを包んでいた。
きれい、とあたしは呟き、もう一度空を眺めた。
がくん、と身体が左に傾き、あたしは我に帰った。
夢ではない。
これは夢ではない。
「生きてる!」
叫んでロープを握りなおし、ぬめる掌に気付く。
べっとりと血がついていた。
瞬時にすべてを思い出す。現実、恐怖、そして、頬に受ける風。
ムル喰いの白く長い腕、軍人、へし折れる木の枝の音。
ムル喰いはどこへ消えた?
振り切ったのだろうか?
あたしはヒューヴの名を呼びながら振り向き、眼下の森を見た。
森が異様に近かった。高度が、異様に低い。
少し離れたところに、散った羽根がまるで綿のように舞っているのが見えた。
もう一度がくん、と身体が左に傾いて、声を飲んだ。
見るとヒューヴの羽根の付根が、真っ赤に染まっていた。
羽根の付根から、ユニットに、血が点々とついている。
声が出ない。
ヒューヴが翼を羽ばたかせるたびに血が、のく、のく、と噴いているのが見えた。
噴いた血が、羽根をじわりと染めてゆく。
「ヒューヴ!」
もう一度名前を叫び、どうしよう、と口の中であたしは呟いた。
どの程度の怪我なのだろう。
「どうしよう」
繰り返して声に出すと、それはとても絶望的に響いた。
ヒューヴが苦しそうに鳴き声を上げる。高度が下がり、下がり、そして上がる。
ようやくあたしは、森を抜けるときに自分が誰に対して謝ったのか理解した。
「ごめん、ヒューヴ、ごめんね」
あたしは小さい声で繰り返しながらもう一度、ハッチを開くために取っ手に手をかけた。
風の音に混じって、中でアラームが鳴っているのが聞こえる。
ナビ経由の通信呼び出しだ。
何度も取っ手を引っ張ってみるが開かない。がちゃがちゃと音だけが鳴って、汗がにじむ。
耳元で髪がはためく。
首に回したインカムがひどく邪魔だった。
どうしよう、どうしよう、とそればかり繰り返してあたしは首を振った。
今のあたしには何もできない。
着陸しようにも、適当な場所がわからない。
目視できる範囲に安全そうな場所は見つからない。
高度が足りないせいか、見渡す限り森、木々の海しか見えない。
けれど、どうにかしなくては。
あたしが、どうにかしなくては。
トオマワリの存在を思い出し、急いでインカムをつけた。
相変わらずの軍用通信が雑音混じりに聞こえて来る。
「聞こえる?聞こえてる、トオマワリ?」
あたしは高くなりかける声を抑えて、電子音の向こうのトオマワリに呼びかけた。
がたがたとマイクを取り落としたような音が響き、ついでトオマワリの怒鳴り声が響いた。
「しなり、無事なのか!」
耳がきいんとして、あたしは目をつぶる。
「なんとか」
「なんとか、ってなんだお前、馬鹿、くそ、心配かけやがって…!」
インカム越しに、手で宙をかきむしっている彼の姿が見える気がした。
相変わらず器体は不安定に揺れている。
やけにすうすうすると思ったら、フライトジャケットは左肩のところが破けていた。
あたしはまるで手綱のようにロープを掴みながら、前を見据える。
「ごめん、トオマワリ、時間がないの」
「どうしたんだ」
「軍人の回収は成功よ。生きてる」
後部座席に目をやって、息を吸う。
「でもそのとき、ムル喰いが出たの。白いムル喰いよ。あんなの見たことない」
「…!」
「それで、何とか逃げ出したんだけど、ヒューヴが」
トオマワリが息を飲むのがはっきり聞こえた。短く、声のトーンが切り替わる。
「お前は」
「あたしは平気、大きな怪我はしてないみたい」
「器体は大丈夫なのか」
「わからない。ナビが使えないの。トオマワリ、あたしたちの現在位置、調べて」
「了解、少し待ってろ」
トオマワリの声が再び聞こえるようになるまで、あたしは森を見回していた。
不安があたしをすっぽりと包む。眩暈のように不安が包む。
少し目をつぶってあたしは、さっきのムル喰いの姿を思い出した。
博物館で見たムル喰いの毛皮は濃い茶色だったが、さっき見たムル喰いは真っ白だった。
あんな色のムル喰いの話なんて、聞いたことがない。
あたしは身体を逆側に向けて木々を見つめる。
この深い森の、枝と枝を渡って、白いムル喰いがあたしたちを追ってきている。
その姿を想像すると、歯止めが利かなかった。
肌にまとわりつくような、見られている感覚があたしを襲う。
「ああ、しなり、聞こえるか」
トオマワリが雑音混じりにあたしたちの現在座標を読み上げた。
「そこからだったら、戻ってくるのが一番いい。戻って来い」
「…それまでヒューヴの体力が持てばいいんだけど」
「怪我したって、どういう状態なんだ。出血量は、損傷個所は」
「少なくとも左翼一箇所、損傷程度はわからない、全然判らないの、それに」
「それに?」
ムル喰いがまだ追いかけてくるような気がするの、と言いかけてあたしは飲み込んだ。
「なんでもない」
短く言ってあたしは気持ちを落ち着ける。
そんなこと、あるはずがない。
恐怖や、寂しさや、妄想や、そんなものに飲み込まれるわけには行かない。
「こっちまで持ちそうか」
トオマワリの、雑音に混じる声に、あたしは正直な分析を伝える。
「スピードが出ないのよ、高度も安定しない。もしかしたら傷が深いのかも」
「判った。余計なことは考えるな。お前は街まで飛ばすことだけを考えろ。万一のために航太郎をそっちへ向かわせる」
「…了解、ありがと」
それだけあたしは口を結んだ。
航路の変更をヒューヴに指示して、少し後部座席側へ身体をずらす。
座標とここまでの時間を考えて、このスピードでも一時間あれば発着場まで帰り着けるだろう。風が身を切るように冷たかった。
あと一時間、これから一時間だ。
まだヒューヴの出血は止まっていない。
時折思い出したように血が噴いているのが見える。
「ヒューヴ…帰ったらきちんと桑納さんに見てもらおうね」
声をかけるけれど、ヒューヴから返事はない。
聞こえているのだろうか。
不意に泣きそうになって、あたしはユニットをさする。冷たい。まるで死の温度のように、ユニットの外壁は冷たい。
トオマワリが少し遠慮がちに声を出した。
「軍人の様子はどうだ」
あたしは傍らの後部座席ハッチに目をやる。
「…気絶してる」
「怪我してるのか」
「片っぽ、足、千切れてた」
「重傷じゃないか」
「義足よ」
トオマワリが少し黙る。ノイズ。
進行方向を見据えると、次の瞬間、がくん、と高度が下がった。
身体がぐるりと回って仰向けに腰を打ち、あたしは悲鳴を上げる。
強い力がかかり、ロープに巻きつけた手首がすりむける。
「ヒューヴ!」
森が眼下すれすれまで迫り、あたしは足を振って体勢を整えた。
羽ばたきが止まっている。サイリンクの反応も落ちた。
「どうした!」
トオマワリが開きっぱなしの回線から悲鳴を聞きつけて声をかけてよこした。
「ダメ、ヒューヴが、高度が安定しない!」
「馬鹿、どうにかしろ!最速の女の名前は伊達か!」
突然脈絡のない映像が頭に浮かんできた。
昔テレビで見たドキュメンタリー番組の映像だ。
大渓谷に墜落しつつある飛行器のパイロットからの、最後の通信記録。
<とてもきれいだ。段々暗くなってゆく>
<谷底はまだ見えない>
<ノイズが酷くなってきた。そちらの声はもう聞こえない>
冗談じゃない。
こんな時にそんなものを思い出すなんて、冗談じゃない。
「ヒューヴ!」
あたしは息をいっぱいに吸い込み、喉を痛めるくらいの大きな声で叫んだ。
「高度を、保って!」
ロープ一本に身体を預け、ユニットを回り込んでヒューヴの脇腹を蹴る。
「起きて!ヒューヴ!」
力いっぱい蹴飛ばすと、ヒューヴは気付いたように大きな鳴き声を上げた。
ばさばさと羽ばたいて、再び高度を上げる。
しかし、その高度が保たれることはなかった。
羽ばたきはすぐに緩慢になり、やがて止まる。ゆっくり羽ばたき、また止まる。
滑空するように、高度が徐々に下がっているのがわかる。森が近付いてきている。
「ヒューヴ!」
半分ぶらさがったままあたしは叫び、ヒューヴの脇腹を蹴飛ばしながらユニットの上に這い上がる。
ヒューヴのもちなおす気配がない。
「まずい、どうしよう」
「しなり、フレッチャーは手の届く位置にあるか」
トオマワリの切羽詰った声がインカムから聞こえる。
「教本を思い出せ」
トオマワリの低い声が、短く響く。苦い声だった。
軍人を捨てて帰れ、と言ったときと同じ声だった。
教本に書いてあったことは、あたしも覚えていた。
「少しくらい出血が広がっても、発着場まで辿り着ければ何とかなる」
「でも」
トオマワリの声は低く、感情を殺しているように響いた。
「やれ、やるんだ。しなり」
フレッチャーは殺傷を目的とした武器ではない。
短針銃の名の通り、短い針を飛ばす銃だ。よほど正確に急所を狙わなければ、殆ど殺傷能力はない。
それが小型飛行器に常備されている理由は無論、護身用ではない。
生体ベースの飛行器は、大部分がその辺りにいる生き物と同じだ。サイリンクやナノビによって制御しているといっても、限界がある。機械ではないのだ。
だから思いもしない要因によって、簡単に制御不能に陥る。
その場合に必要なのは、正気付かせるための大きなショックだ。
<叩いて言うことを聞かせる>ために、フレッチャーは常備されているのである。
しかし、フレッチャーを持ち出すこと自体、飛行器乗りにとっては恥ずかしいことだ。
それはとりもなおさず、自分の力量で器体が制御できなかったという証明であり、それが、器体と築き上げた信頼関係を壊す行為だからだ。
それを指示しなければならないトオマワリのことを冷血と罵ることはできなかった。
原因はあたしにある。
あたしはユニットにへばりついた身体を持ち上げ、ヒューヴの背中を見た。
今、ヒューヴはどんなことを考えているのだろう。
夢を見ているのだろうか。
夢だとしたらどんな夢なのだろう。
不思議なくらい空の上は静かだ。
トオマワリが黙った今、聞こえるのは例の軍用信号の電子音と、時折入る激しいノイズだけ。
そして、それも徐々に小さく、弱弱しくなっている。
「ごめんね」
あたしは小さく呟いた。
フレッチャーを抜き、あたしはヒューヴの足を狙って針を撃ち込んだ。
切り裂くような鳴き声を上げてヒューヴが羽ばたく。
まるでお腹が痛むように、どんよりと重たいものが、引き金を引いた指先から広がる。
「うちに帰るの、ヒューヴ、帰らなきゃダメなの!」
ヒューヴは鳴きながら翼をはためかせ、再び上昇する。
悲しそうな、悲鳴のような声。ほんとうにとても、悲しそうな声。
あたしはヒューヴのこんな声を、初めて聞いたと思った。