バイクを飛ばしながら、あたしは夜の空気を吸い込む。
色々なことがあったなあ、と心から実感した。
とりあえずは、一段落ついたということになるんだろうか。
初夢さんが、しげるにはこだわらないことにしました、と言ったときの顔を思い出した。
それから森山が、それじゃあ、と手を振ったときの顔を思い出した。
さみしい、と思うことを飲み込んで、人は素敵な表情になるんだな、と思った。

何気なく、学校の方をまわって帰った。
もう九時を過ぎている今、下校する生徒の影はさすがにない。
それどころか、走る車の影すら見えなかった。
学校から見ると長い下り坂になっている、正面の道を走る。
振り返れば校舎が、そして向こうには、ずうっとまっすぐに続く道が見える。
十メートルはあるかという道路の両脇にぽつぽつと並んだ街灯。
ささやかな家並み。
加速をつけずに、一気に坂を下り降りる。
しばらく行くと、向こうから自転車が一台走って来るのが見えた。
真瀬だった。
「まあ」
不思議な偶然に驚いて、あたしは息を漏らした。
彼はこっちに気付いていないらしい。街灯が照らす歩道を、走っている。
無論、もう制服ではない。
それにしてもどうしてこんなところにいるのだろう。
あたしの家からも、そしてまた彼の家からも、ここは随分遠い。
声をかけようかかけまいか迷ったが、なんとなく誰かと口をききたい気分だったので、呼ぶことにした。

街灯の真下まで行ってバイクを止め、短くクラクションを鳴らす。
どうやら真瀬もこっちに気付いたらしい。
き、とブレーキの音がして自転車が止まる。
手を振ると、驚いたように真瀬は背中を伸ばした。

すう、と自転車が道路を横切ってきて、あたしの前に止まる。
「鈴木さん」
息を切らせて真瀬はあたしを呼んだ。
「鈴木さんです」
やあ、とあたしが挨拶をすると、真瀬はきょとんとした顔をした。
「鈴木さん、何してるの、こんなとこで」
驚いた顔の真瀬に、散歩、と短く答えてあたしも聞き返した。
「そっちこそ、何してるの」
「練習」
「練習?」
「そう」
真瀬は学校へ向かう道を、夜なのに眩しそうな顔をして眺めた。
「体力作りのために、今度から自転車で通学しようかと思って。その予行演習」
まんざら冗談でもないような口調に、あたしは思わず笑ってしまった。
「自転車で?」
「だって、おれ、バイク持ってないもん」
よせよせ、と少しぞんざいにあたしは言った。
「この先の坂は、自転車じゃ辛いよ。長いし。けっこう急だし」
ううむ、と真瀬は唸る。

「じゃあ、止すよ」
しばらく考えた末に真瀬は頷いた。
あっさり取り消した真瀬に、なんとなく男の子らしさを感じる。
何を考えているのかわからないくらいに単純で、面白かった。
「それがいい」
あたしは笑って、バイクのハンドルに手をかけた。
「でも一度、坂の上まで自転車でいけるかどうか試してみる?」
尋ねると彼は照れたように首を振った。
「なんだか自信がなくなった」
「なんだ、だらしないなあ」
「うん」
へへへ、と笑う。
「途中まで一緒に帰ろうか」
まったくの思いつきで言うと、真瀬は意外そうな顔をした。
それでもって、そうしよう、となんだか感慨のない口調で頷く。

あたしたちは、広い道路の歩道寄りを、バイクと、自転車を引きながら歩いた。
バイクはそれなりに重く、一度止まると動き出させるのに骨が折れたが、これはこれで楽しいとも思えた。
ホバーでない時のための車輪が、ごろごろと丸い音を立てている。
「今朝は鈴木さん、すごく思い切った早退をしたね」
真瀬が思い出したように言った。
「古池さんなんか、ずっと気にしてたよ」
「ああ、ユキかあ」
あたしは妙な感慨にふける。
そういえば、今朝は学校にいたのだなあ、と思う。
家に帰るまで、制服のままだったせいか、どうにも学校を抜けたという実感が乏しかった。
街灯から街灯へ、歩くたびに影が少しずつ形を変える。
「今日はね。用事があったんだよ」
あたしはなるべき含みを持たせないように言った。
今日の早退は、初夢さんに会いに行ったんだっけ、と思い出す。
初夢さんとトオマワリのことを思い出して、そういえば真瀬はあたしのことが好きなのかもしれないんだった、と思い出した。
気付いてしまって緊張するかと思いきや、意外とあたしの身体は普通だった。
昨日よりも、身構えるような気持ちは少なかった。
出会いが偶然だったせいもあるのかもしれない。
トオマワリと初夢さんを見たせいも、あるのかもしれない。
真瀬はその形のいい唇を、ふうん、という形にして、それ以上聞いてこない。
聞かれても答えられないのだけれど、なんとなく聞かれなければ聞かれないで物足りない気もした。
「…ねえ、真瀬くん」
呼びかけておいて、あたしは黙った。
ヒューヴのこと、初夢さんのこと、森山のこと、ムル喰いを見た話。
いろいろなことを話したい気分だったが、話せる話ではなかった。
今日あたしが経験したことの、何を話せるというわけでもないし、そもそも飛行器に関連する話は学校の友達にはしないのがルールだ。
「世界には、色々な人がいるし、色々なことがあるよね」
あたしは呟いた。
それだけで充分だと思った。
明日からまた、真面目に学校に行こう。そう思った。


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