それから何事もなく夕食を済ませ、泊まって行けば、という母の誘いを固辞して、初夢さんは帰ることになった。
夕飯のお礼を済ませ、ついでのような、なんでもない調子で彼女は言った。
「お母さん、平気ですよ。明日には鉄ペリカン、動き出すと思います」
本当になんでもない調子だった。
あら、と母は不思議そうな顔になる。
そして夜の共同ガレージに向かって、あたしたちは歩いて行く。
迎えが来るという、バスの停留所までバイクで送ってゆくことにしたのだ。
ガレージの脇にある街灯に、虫が集まっていた。
中央の通路を歩きながら、初夢さんが空をあおいだ。
「しなりのお母さん、いいお母さんだったね」
どこかで犬の鳴き声が聞こえた。
「料理もうまいし」
あえてむきになって否定することもないので、あたしは曖昧な返事をする。
「しかし、もう休暇は終わりかあ」
夜空に上ってゆく声。
「うえー」
続けて初夢さんが変な声を出した。
「また映画観られなかったよ」
何を言い出すのかと思っていたせいで、あたしは少し笑ってしまった。
「残念だね」
「まったく、心残りだよ。今回は心残りがいっぱいだ」
他には何が、と聞こうとして、止す。それは、トオマワリのことに違いなかった。
暗い空に、ますます黒々とハコ山脈が見えた。よく晴れた夜だった。
「おまけの休日なんて、所詮こんなものなんだろうけれど」
ふふふ、と彼女は笑う。
「しなり、今日は疲れたでしょう」
「うん、まあ」
正直にあたしは返事をする。
トオマワリのことを聞こうとして、何と言っていいのか判らなくなって止めた。
初夢さんは停めてあるバイクに腰掛け、月を見上げながら呟いた。
「しげるのことで、少し、思ったことがあるの」
「…思ったこと?」
「そう。思ったこと」
初夢さんは少し強い口調で言う。
「わたしにとっては寝て覚めるまでの間でも、しげるにとっては一年」
「…」
「そろそろ、わたしも時間の流れを受け止めなきゃいけないのかも知れない、と、思った」
「どういうこと?」
「あいつにこだわってちゃいけないんだわ」
ぼんやりと、その言葉の意味するところを考える。
「好きじゃなくなる、ってこと?」
単刀直入に聞くと、初夢さんは微妙な表情を見せた。
自分で言ってみて、なんだか仕方のないことを言っている気になった。
実感が湧かないことを喋ると、いつもこうなってしまう。少し子供っぽい結論だったかもしれない、とあたしは少し顔を赤くした。
「難しいことを言うわね」
おかしそうにすこし笑ってから、行こうか、と彼女は話を切り上げた。
待ち合わせだというゲートの停留所には、随分早く着いた。
別に急いだ覚えはなかったが、とにかく早く着いた。
することがないので時刻表などを見てみたが、この時間になると、この町へ着くバスはあっても、ルームオアシスに向かうバスはない。
特別車か何かが迎えにくるのかな、と勝手にあたしは思っていた。
あたしと初夢さんは待ちあい用の石のベンチに座って、何もない森と、どこまでもまっすぐな道を眺める。
とても静かだった。
この、Vの字を描くようなロータリーはまさに、町と自然の境だった。
ベンチから向かって右側に目を向ければ、直線はゲートをくぐって森の中へと消えてゆく。左に目を向ければ、直線は町へ延びている。
まるで、ここがすべての出発点のような、バスのロータリー。
芝生を切り開いて作ったような道路の先は、どちらの先も、暗くてよく見えない。
「一応、しげるにも連絡したのよ、さっき」
初夢さんは水筒のお茶を飲みながら言った。
どうせ少し待つだろうと思って家から持って来たのだが、それは随分よい機転だったらしい。
「でも、たぶん間に合わないだろう、と、思う」
「ここに呼んだの?」
「うん」
足を組み、そこに肘をついて、すこし睨むような顔で彼女は暗闇を見つめる。
夜の芝生は、なんだか生き物のにおいがする。
「少し意地の悪いことをしてしまったかもしれないや」
「…うん」
「あいつ、変に義理堅いからなあ」
初夢さんはバス停の屋根を見上げた。
「鉄ペリカンに乗ってる間、ってね」
初夢さんは両手で水筒を抱えながら、ぽつんと呟いた。
「意識があるようなないような、変な感じなの」
少しとおい目だった。
「別に意味があってこんな話をするわけじゃないのよ」
なんだかうっかり喋ってしまった、という顔をする彼女にあたしは首を振った。
「それで?」
頷いて、彼女はまた、何かを手繰り寄せるような目をする。
「はじめて着いた空港に、なにか見覚えがあったり、空から見下ろす風景を、覚えているような気がしたり…たぶん、それは夢を見ていただけなのだろうけれど、なんとなく懐かしかったりしてね」
咳払い。
「時々今がいつなのか、自分が幾つなのか判らなくなる時があるの」
「…」
「しげるは、そんなわたしの道標みたいなものだったのよね」
うまい言い方が見つかったように彼女は、道標、と繰り返した。
「毎回同じことばかり言ってるし、毎回進歩がないし、腹が立つことのほうが多いんだけど、なんだか、頼っちゃってるのね」
「…そう」
「そうなのよう」
言って初夢さんはくすくすと笑った。
「でも、もうやめるの」
それは唐突で、そしてさりげない声だった。
はっとしてあたしは彼女の顔を見る。
初夢さんは、きりりとした顔をしていた。
「多分、わたしは確かなものを欲しがっていたのだろうと思うんだ」
「…確かなもの?」
「そう」
考えるような間があいて、初夢さんはハコ山脈を見つめた。
「わたしは昔、時間がいちばん確かだと思ってたの。一日はいつだって日が昇って落ちるまでだし、都合で縮めたり伸ばしたり、できないでしょう?」
「…」
「でも鉄ペリカンの部品になってからは、わたしが眠って目を覚ますと、まわりのみんなが歳を取っていて、わたしだけ、歳をとらないで、十八のまま」
なんだか信じられなかったのよね、と彼女は笑う。
「最初は、わたしの時間とみんなの時間が変わってしまった、と思って不安だった。確かだと思ってたものが、崩れてしまったようで、本当に不安だったの」
初夢さんは何回か深呼吸をして、また唐突に口を開いた。
「でも、そうじゃなかったのよね」
まるで茶化すような声だった。
「やっぱり時間は、確かなんだわ」
例えばね、と彼女は難しいことを説明するように額に皺を寄せる。
「たくさん眠る人と少ししか寝ない人が、お互いの時間がずれてしまった、なんて言って泣いたりはしないでしょう?…たぶんわたしの場合も、少し規模が違うだけで、それと同じなのよ。時間は本当に平等に過ぎてるのね。ただ、その過ごし方を自分で選んでいるだけ」
「初夢さん」
「歳をとるとか、取らないとかいうのは、あまり関係がないの。たぶん、それは心のもちようなの。たぶん」
そこまで一気に言って、彼女はにこりと笑った。
「そう思うことにしたの」
それは本当に美しい表情だった。
「だからわたしは、自分がもっと長いあいだ起きていられるようになるまで、しげるにはこだわらないことにしました」
言い切るように彼女は自分の膝をぽん、と叩いた。
やがてAGヴィークルが、その特有の浮遊音を響かせて町側から、こちらへやってくる。それを見て、ノー、と初夢さんはおおげさにのけぞった。
「しげるのやつ、やはり間に合わなかったか」
上を向きながらも、くく、とおかしそうに笑う。
「残念だ」
それは、思ったよりも明るい声だった。
作った明るい声ではなく、心からのおかしそうな声だった。
「こうやって擦れ違って。それも、もう十年」
彼女はそのまま後ろに手をつき、はは、と息つぎだか笑いの尻尾だかわからない声を上げた。
「なんだか、開き直ったら面白くなっちゃったよ」
初夢さんは笑った。
首をひねってこっちを向く。
「そのうちあいつが歳をとって、誰にも相手にされなくなったらわたしの方を向くでしょ」
気楽な、本当に気楽な調子だった。
ヴィークルが滑るように近付いてくる。
白地の車体に大きく黒字で<航空>と染め抜かれたヴィークルは、ちょうどバス停の前に止まった。
運転席の窓を開けて、中から眠たそうな顔の運転手が初夢さんを見た。
「松野初夢さんですね」
はい、と初夢さんが立ち上がる。
「お迎えに上がりました」
素っ気ない上に判りきったことを言って、運転手は帽子をちり、と動かした。
はいどうも、と初夢さんは言いながら、つつ、とヴィークルの脇に寄る。
「ねえ、しなり」
「…はい?」
振り返って、彼女は真面目な顔をした。
「来年、髪を切ろうと思うんだ」
「…?」
「二十何年ぶりになるけれど、心気を一転しようと思う」
「…うん」
「その時はよろしく。…それから」
まるで息つぎみたいな顔をして、彼女は少し声のトーンを落とした。
「しげるが来たら、トランク、預かっておいてくれると嬉しいって伝えて」
「…うん」
「それと、昼間はごめん、と、それだけ伝えといてくれる?」
「わかった」
「ごめんね、頼んでばかりで」
「気にしないで」
気の利いたさようならの言い方を考えていたが、どうにも浮かばなかった。
仕方がないので、さよなら、とそれだけを言うことにした。
「さよ」
そこであたしの口は止まった。
ヴィークルの後ろのドアがす、と開いたのだ。
そこから出てきたのは、トオマワリだった。
初夢さんは気付いていない。
あたしが挨拶を途中で止めたのを、怪訝な顔をして見ている。
トオマワリは唇に指を当て、まるで影の中を動くみたいに優雅な動作で初夢さんの背後を取って、その耳元に口を寄せた。
「…トランク了解、ごめんなさい了解」
「うわあ!」
不意の囁きに、びく、と肩をふるわせた初夢さんが、そのまま身体を回転させた。
トオマワリは彼女の肩に、したたか鼻を打ちつけてうずくまる。
初夢さんは勢い余って転び、尻餅をついてずりずりとあとずさった。
眠そうな顔の運転手が相変わらず眠そうに車外の出来事を横目で見る。
距離を取ってようやく初夢さんは相手がトオマワリであることに気付いたようだった。
「しげる!」
頷きながら鼻を押さえて呻くトオマワリは、何を言っているのか判らない。
どうやら鼻血が出ているようだった。
「馬鹿!」
初夢さんの容赦ない叱責が飛んだ。
彼には悪いけれど、まったくもってその通りだと思った。
何がしたかったのだろう、と思うばかりだった。
「…急に行っちまうんだもんな、ひどいよ」
鼻に栓をされながら、トオマワリは不明瞭な声で抗議をした。
初夢さんが、彫刻を彫っているような真剣な顔で彼の鼻にちり紙を詰めている。
済んでトオマワリは手の平についた血を拭った。
「…しげる、よく間に合ったわね」
初夢さんが言うと、うう、とまだ痛むように声を上げて、彼は首を振る。
「言おうと思ったことがあるんだよ」
それは、不思議な声だった。
「それを思ったら、間に合わせないわけには行かないじゃないか」
「…」
「姐さん」
トオマワリは地面に座ったまま、初夢さんの顔を見つめた。
「姐さんは昼間、俺を好きだと言った」
初夢さんは困ったようにあたしを振り向く。
あたしが首を傾げてみせると、初夢さんは仕方ないように彼に向き直った。
「…そりゃ、まあ」
「あんなの、飯食ってる時に不意打ちだよ。ずるい」
「…」
しばらく沈黙が続く。
あたしはこの会話を聞いていていいものだろうか、とちらりと思った。
「それを言いに来たの?」
「違うよ、だから」
トオマワリは咳払いをした。
「あのな、今みたいに、間に合う時は間に合うもんなんだ」
「しげる」
「だから、焦るなよ」
彼の声は、大人の声だった。
「十年待ったんだ。もう少しくらい待てるさ、と言いに来た」
あたしと、眠そうな運転手の目が合った。
運転手は、少し洒落た仕草で興味ないね、と肩をすくめた。
あたしは、なんだか笑ってしまって、バス停のポストに寄りかかった。
トオマワリのやつは、こんな時まで回りくどい言い方をするんだ、と思うと、なんだか面白かった。
「馬鹿」
ひそやかな初夢さんの声が響く。
そして、鼻にちり紙を詰めた情けない姿のままでトオマワリは初夢さんと一緒に航空局の車に乗り込んだ。
「じゃあ、またなあ」
「今日はありがとうね」
二人が窓から手を振って遠くなってゆく。
なんだかよく判らないさよならだった。
そういえば、きちんとさよならを言うのを忘れた、と思った。
半分呆気に取られて見送り、あたしは我に返って首を振った。
「…帰ろ」
虫が鳴いていた。