信号が大分近付いてきた、と思った時だった。
まったく突然に、あたしは白い影を見つけた。
森から外れた、湿原の中だった。
背の高い水草がぽつんぽつんとコロニーを作っている湿原に、その白い姿はあった。
八本足の姿、首のない頭、そして、背中には、毛皮でそれとわからないように偽装されているユニットが見えた。
あのムル喰いに違いなかった。
「コルビーナ、見える?」
フラミンゴにかける声も、自然と厳しくなる。
彼女も、風に乗って流れてくるムル喰いの気配に気付いたようだった。
旋回しながら、遠いその影に首を向けている。
荷台の蓋を横目で見て、あたしは森山に知らせるべきかどうか迷った。
もう少し様子を見てから、森山には知らせようと思った。
ユニット内に頭を突っ込んで、座標を確認する。そこは、無形障壁よりは外側だった。
トオマワリが地図で指した点よりも、幾らか西に寄っていた。
とりあえずは一安心だ、とあたしは考えて体を元に戻す。
「…もう少しだけ、近付いて」
高度を下げると、ムル喰いの様子が少しずつ、克明に見えるようになった。
あたしはノイズのひどいインカムを外し、目を細める。
コルビーナが高く鳴き声を上げると、ムル喰いが緩慢に身体をこちらに向けた。
その動きは、明らかに昨日のそれと違って見えた。
「…」
さらに近付くと、ムル喰いを取り囲むように、小さな影が幾つも見えた。
最初は水草か何かだと思ったそれは、死肉食いと呼ばれる、森ハイエナの群れだった。
「なんてこと」
声を殺し、あたしは呟いた。
思っても見なかったことだった。
森ハイエナが、森を出てまでムル喰いを狙っているということは、もう随分前からムル喰いが弱っているということを示していた。
コルビーナに、この高度を維持しているよう指示して、あたしはユニットにもぐりこむ。
森山、と呼びかけたところで、あたしは黙ってしまった。
何と言って伝えればいいのだろう。
「どうした、見つかったのか」
驚いたような声だった。弾むような、息を切らせるような声だった。
「あの」
「ここから出してくれ、鈴木」
壁の向こうで身体の向きを入れ替えるような音がした。
「見えるのだろう、あれが」
焦るようではなかったが、急ぐ声だった。
「森山」
「…なんだ」
「自棄を起こしたり、無茶をしたりしないで」
「…」
「それを約束してくれないと、あたしはそこを開けてあげられない」
森山は黙る。
あたしが何を見たのか、彼は悟ったようだった。
しばらくして、判った、と落ち着いた声で返事をした。
あたしは森山の声が聞こえる壁を見つめて、少し迷った。
外の様子を思い出して、一度、着水することに決める。
「降りるから、少し待ってて」
あたしは言い置いて再び身体を外に出した。
ムル喰いから少し離れた所に着水した。
水面が近付くと、むう、と沼のにおいがする。
見通しのいい沼地の中央に降りると、フラミンゴの長い足が半分くらいまで浸かった。
割合沼は深いようだった。
水におりてコルビーナは、水面と、向こうのムル喰いを気にする素振りを見せた。
この高さから見ると、ムル喰いの姿が、また随分大きく見えた。
ムル食いまでの距離は、200メートルくらいだろうか。
浅い湿地に半分浸かるようにして、白いムル喰いは顔をこっちに向けている。
前二本の足の間にある、めり込んだような首のない顔は、蜘蛛のそれに似ていた。
移動する気はないらしい。それとも、もう移動する体力がないのだろうか。
その表情までは窺い知ることが出来なかった。
湿地を囲むようにして森ハイエナが群れを展開させているのも見える。
三十か、ともすると四十にもなろうかという数だった。
あたしは腰に器外活動用の命綱をつけて、ユニットの上を這いずって移動した。
時折コルビーナが沼地の中の何かをつついて食べているために、ユニットは微妙に揺れた。
荷台の蓋を開くと、中で森山が眩しそうに目を細めた。
「危なくなったら、すぐに飛び立つから、身体を出す時は気を抜かないで」
あたしは森山がユニットから身体を抜くのに手を貸しながら、短く注意をした。
彼は、判っているからだろうか、返事をせずにつかまえた手に力を入れた。
「それに、揺れるから」
あたしは一応の注意を残して、指をさす。
ムル喰いのいる方向だった。
「ああ」
森山はあたしの指差す方向を見て嘆くような声を出した。
そのままあたしたちは、黙ってムル喰いを眺めた。
ぴちゃん、とどこかで魚が跳ねた。
つるりとしたユニットの上に座って、あたしたちは水辺のムル喰いを眺めていた。
本当に言葉がなく、あたしたちは白いけものを眺めていた。
楽しい気分ではなかった。
時折水面を渡る風も、午後の日差しも、なんだか非現実的なもののように感じられた。
重苦しい沈黙だった。
「ムル喰いは」
森山が、色のない声を出した。透明な、色のない声。
「ムル喰いは、森から出ない。あの身体は、八本の足は、森を渡るためにこそある。平たい地面をあまり好かないんだ。地面の上では、身体を支えきれない」
「…」
「追い詰まっているのだろうな」
あたしは森山の横顔を見た。
なんともいえない、悲しそうな顔だった。
ムル喰いに、何体かの森ハイエナが挑みかかるのが見えた。
風に乗って、吠える声がかすかに聞こえた。
ムル喰いは倦怠を感じさせる動きで、足を振って追い払う。
一匹、油断したのか、近寄りすぎた森ハイエナがその足にすくわれて転んだ。
びしゃ、と水音の聞こえる暇もなく、ムル喰いの爪がその身体を貫く。まるでそれは一連の動作のように見えた。おそろしく連結した動きだった。
他のハイエナが、ぎゃんぎゃん吠える声が聞こえた。
コルビーナがびくり、とそっちを見る。
ムル喰いは、仕留めたハイエナを口に運ぼうとする仕草を見せたが、すぐに止した。
それは、不思議な動きだった。
驚くほど人間くさい動きだった。
そしてゆっくりと、打ち捨てられたハイエナの死骸が、水面を漂う。
ゆらり。
白いムル喰いは、ずっとこっちを見ていた。
「もうすこし、近寄れないか」
ハイエナの狂ったような鳴き声が続いている。
しばらく黙って、森山はあたしの方を見た。
頼み込むような目だった。
何かをしてやりたい、という気持ちが痛いように伝わってくる。
「…近寄ってどうするの」
「判らん。だが」
そこまで聞いてあたしは首を振った。
続きを言ってほしくなかった。続きを言われてしまえば、あたしは頷くしかないと思った。
けれど、それは無理なことだ。
コルビーナをムル喰いの爪に晒すわけにはいかないし、おまけに周りでは森ハイエナが狂ったように吠え声をあげている。
これ以上近付くわけには行かなかった。
あたしたちが黙ったのと合わせたように、ムル喰いがのたりと体の向きを変えた。
風向きが変わったのか、森ハイエナの鳴き声が、さっきよりひどく激しく響いた。
コルビーナがぴん、と首を伸ばしてそっちへ首を向けた。
空気が騒がしくなっている。
仲間をやられて血が上っているのかもしれない。
また一匹、また一匹とハイエナが次々にムル喰いに向かって行った。
ムル喰いを囲み、その死角から飛びついては離れ、派手な水音を響かせている。
しかし死に瀕しているとはいえ、ムル喰いはムル喰いだった。
その足が風を切る度、ぎゃん、という派手な悲鳴があがった。
運良くムル喰いの一撃を避けた一匹が、転がるようにしてムル喰いの後ろ足に食いついた。
ムル喰いが二本の前足を掲げ、苦悶するように身体を反らせる。
振り払われたハイエナが水に叩きつけられる、びしゃ、という音が響いた。
ムル喰いが、大きく水音を立てて飛びあがった。凶暴な動きだった。
ハイエナの群れの中へ突っ込んで泥しぶきが上がる。
「森山…!」
思わずあたしは森山の服の袖を掴んだ。
ハイエナの群れを千切り、爪を振るって殺しまわるムル喰いは、まるで痙攣しているように見えた。
断末魔、という言葉が脳裏に浮かんだ。
沼地の方へ跳ね飛ばされたハイエナが、もがきながら沈んでゆく。
ハイエナの血なのか、自分の血なのか、泥なのか、白いムル喰いの毛皮はいつしか赤く、黒く、斑になっていた。
やがて残った鳴き声が、森のほうへ遠くなってゆく。
生き残ったハイエナが逃げてゆくようだった。
風が生暖かい沼と血の臭いを運んでくる。
その殺戮には、ほんの何十秒かしかかからなかった。
ハイエナを蹴散らして、ムル喰いは勝どきを上げるように前足を掲げた。
ひどく長い時間と思われる間、ムル喰いはその姿勢を保っていた。
それは、ある意味では荘厳で、神々しい光景かもしれなかった。
今まで動物の死に際に立ち会ったことがそれほど多いとは言えなかったけれど、いつもそこに付きまとう死の予感を、あたしは今、感じていた。
ムル喰いは、もうすぐ、死ぬ。
苦しくなるような強さで、死の気配を感じた。
震えるように前足をおろし、ムル喰いはこっちに向きなおった。
毛皮は泥と血に汚れて、もはやどこも白くはない。
濡れたところが時折、きら、と光を返していた。
あたしは息を飲んでそれを見つめた。
「ハンテン…」
森山が、まっすぐにムル喰いを見つめて、まるで名前を呼ぶように呟いた。
ムル喰いが、まるで返事をするみたいにして、沼地へと、近付いた。
沼に足が一本沈む。体勢を立て直すように、足を引っ込める。
何故だか知らないが、鳥肌が立った。
「ハンテン…」
もう一度森山は呟いた。
森山が、そのまま呼ばれるように行ってしまうような気がした。
あたしは森山の袖を掴んだ手に、力を入れた。
そこで、びしゃ、とムル喰いは崩れた。
200メートルの向こうで、ムル喰いは崩れ落ち、泥に突っ伏した。
森山は背中を伸ばし、それを見つめた。
ぞわあ、と背中まで鳥肌が立って、やがて収まった。
遠くに行ってしまった森ハイエナの鳴き声がしばらく細く聞こえていたが、やがてそれも消えた。
聞こえるのは水音と、死にきれなかったようなハイエナの弱弱しい声だけになった。
あたしは、ムル喰いが死んでしまったのを知った。
森山は小さい声で、死んでしまった、と呟いた。
呆けたように、彼はムル喰いを見ていた。
その声を聞きながら、あたしたちは無力だ、と思った。
もしコルビーナが軍用器だったらどうだっただろう、とあたしは考えた。
もしそうだったら、森ハイエナを蹴散らすように追い払って、ムル喰いのユニットに森山を送り込むことが出来ただろうか。
森山をユニットに送り込んで、それからどうなっただろうか。
彼は、死に瀕したムル喰いを操縦して、軍までたどり着けたのだろうか。
森ハイエナと戦った分の力で、森を渡り、軍で投薬を受け、命を繋げたのだろうか。
考えれば考えるほど、あたしは絶望的な気分になって首を振った。
やはりあたしは、森山をここへ連れてくるべきではなかったのかもしれない。
そんなことを思った。
そっと森山の袖から手を離した。
「ごめん」
あたしは謝る。何に対して謝ったのかわからないけれど、口をついて出た。
森山は返事をしないでそのまま、ムル喰いを眺めていた。
「うん」
少し気の抜けたような声だった。
やがて風が吹いて、制服の襟がはためいた。
不意に、風がすこし寒いものになっていることに気付いた。
案外あたしたちは、長い間ムル喰いをみつめていたのかもしれない。
雲が出てきていた。
「森山」
「…」
「あのムル喰いが、森山のことを追いかけていた、って、あたし信じるよ」
呟くと、森山はムル喰いを眺めたまま、うん、と返事をした。
そして森山は首を振り、行こう、と呟いた。悲しそうな声だった。