警戒令、というのはひどく久しぶりのような気がした。
中学の頃に一度、丘なめくじ警報が出て学校が途中で休みになったことがあった気がしたが、その後はあまり覚えていない。たぶん、ないのだと思う。
昨日、あたしがムル喰いに襲われたのは森の随分深いところだった。
勿論あのおそろしい記憶はまだ、消えよう筈もなかったが、不思議なことに今起きている事態には、今ひとつ実感が湧かなかった。
町にまでムル喰いがやってくるなんて、想像もつかなかった。
白いムル喰いが、ぬ、と家並みの向こうから現れる姿を想像すると、まるで冗談みたいな絵になってしまう。まるで現実的ではない。
ムル喰いの事を考えると気が沈むけれど、昨日の恐怖に比べてしまうからだろうか、やはり今ひとつ、現実的な恐怖には繋がらなかった。
そしてあたしはコーヒーを飲んで、考えるのを止めた。
無形障壁域を越える大型獣はそう多いわけではない。今回も平気だろう。
楽天的かもしれないが、そう思うことにしてクッキーに手を伸ばす。
少し湿気ていた。
もしもし、もしもし、と何度も繰り返しているトオマワリを横目で眺め、初夢さんが感慨深く呟いた。
「なんだか、あたしが戻ってくると何かしら厄介なことが起こるわね」
「…はは」
返事が出来なくて、空笑いをする。
「それとも、最近はいつもこんな調子なの?」
「そんなわけでも、ないと思うんだけど」
もう一度、空笑いが漏れる。
ようやく通信を終えてトオマワリが振り向いた。
「駄目だ駄目、なんでこう、大事な時を狙ったように通信がジャムるかな。何言っているのか聞き取れやしない」
「繋がらないの?」
「うん、繋がらないと言ったほうが正しいかもしれないな。磁気嵐だろう」
「どうするのよ」
どうするかな、と呟き、続けて彼が何かを言おうとしたところへもって、のど、と重厚な音が響いた。ドアが開いたのだ。
全員の目がドアに向く。
「…やあ、お邪魔でしたかな」
入ってきたのは桑納さんだった。
「桑納先生」
思いも寄らなかった来客に、トオマワリが驚いた顔になる。不意に背筋が伸びたのが少し間抜けだった。
「いや、邪魔なんて事はないスけど、ええと。どうしてここに」
口調まで変わって、彼は首を振った。
「いえ、さっきの放送を聞いて、この人が、どうしてもここにつれてってくれ、って言うものですから」
ドアを大きく開ける桑納さんの後ろから、松葉杖をついた軍人が現れる。
「森山」
今度はあたしが驚いて口を開ける。
「うん。また会った」
森山はよく判らない返事をしながら、さっきよりも随分進歩した松葉杖の操作法で、割合スムーズに部屋の中に入ってきた。
よく見ると、なくしたほうの足に、漫画で見るような棒切れの義足を結びつけている。
「鈴木、海賊みたいだろう」
森山は律儀に足を振ってみせる。
「なんだ、軍人がなんか用か」
トオマワリが横柄な口を利くと、初夢さんが、しげる、と低くたしなめた。
「ええと、とりあえず、コーヒーでも」
とりあえず、あたしはソファーから立ち上がり、場所を二人に勧めた。
どうやら行けるとしても、映画に行くのは少し遅くなりそうだ。
ちらりとそんなことが頭を掠める。
「何か、自分にできることはないか」
森山は、ソファーの端に腰掛け、トオマワリの方を見た。
何故だかトオマワリはフライトジャケットを羽織り、どこかへ出かけるような準備をしている。
棚をいじくって何かを探しながら、彼は返事をした。
「何かできることって言ったってなあ」
「放送を聞いた。何か協力したい」
「放送、ねえ」
肩をすくめてから森山の顔を見た。
「そこの二人に頼むから、続報の時のウグイス嬢も、別に足りてるしなあ」
「しげる」
はいはい、と面倒そうにトオマワリはポケットの中身を確認しながら森山に向きなおる。
「冗談はともかく、あんた、その身体じゃ、何ができるってわけじゃないだろう」
「…」
「大人しく寝ててくれたほうがこっちも安心ってもんだ。悪いこと言わないから休んでなよ」
別に嘲るでもなく気遣うでもなく、淡々とした調子で言って、彼は窓の外を眺めた。
「俺、これから軍に直訴しに行かなきゃならないんだ」
「…直訴?」
「通信がさ、駄目なんだよ。てんで何言ってるかわかりゃしない。行って話をつけてくる。とりあえず急いで警戒ライン増やしてもらわないと、なんだかヤバそうだしな」
行って来るよ、と憂鬱そうな顔で彼は振り返った。
あたしは、奥から引っ張り出してきたパイプ椅子を広げながら彼の顔を見た。
「…トオマワリ、飛行器乗るの?」
「乗るよ。ちゃんと免許も持ってる」
「へえ、意外。乗らない人だと思ってたよ」
「…高いところ、あんまり得意じゃないんだ」
苦い顔。
「わたし、代わりに行ってあげようか?」
同じくパイプ椅子を広げながら初夢さんが言う。
「姐さん、軍に姐さんみたいな子供が行ったって仕方ないだろ。相手にされないぜ」
「でも、わたし持ってるよ、あの、なんだっけ。そう、政府発行のパスと認定証。あと免許も」
「いいから、留守番しててくれよ。それに二十年前の免許と今の免許はそもそも違うんだ」
森山は、おそらくそのやり取りを理解していないのだろうが、眉をひそめることもなく黙って聞いている。
「俺が、行こうか」
森山が口を開くと一瞬考えるような顔になった。
「それは、いいかもしれないな」
言ってすぐにトオマワリは首を振る。
「いや、やっぱり駄目だ。帰りの操縦者がいない。今うちに残ってるのはフラミンゴだけなんだ。フラミンゴは帰巣本能が弱い。自動操縦で帰すのは少し不安だ」
やっぱり俺が行かなきゃ駄目だな、とトオマワリは呟いた。苦々しい顔だった。
「…わたくしも、飛行器の操縦くらいはできますが」
「桑納先生」
トオマワリは嘆息した。
「先生、去年免許返納したじゃないんですか」
「…いえ、しかし、皆さんが立候補する中、乗れることを隠すのも、なんだか卑怯な気がして、一応」
「駄目です。どっちにしても、もう免許持ってないんだから、変な気を遣わんでください」
言ってトオマワリは周りを見回す。ふ、と、偶然目が合った
「…お前は、無免許、未成年、制服のまんま。満点で問題外だ。それに、昨日のこともある。ちょっと大人しくしてろ」
目が合っただけなのに、にべもなくトオマワリは言った。
別に、そういうつもりで見たんじゃないのに。
「管制は誰がやるの?」
ふと思いついたように初夢さんが尋ねた。
「この通信障害じゃ、何するったってうまく行かないだろ。いいよ、別にいなくたって…。ああ、でも一応あれだ。じゃあ、姐さん、ちょっと戻るまで留守番しててくれよ」
「いや、わたし、映画に」
「少しだ。少し。三時間もしないうちに帰るよ」
初夢さんは、むう、とむくれるような声を上げる。
トオマワリは頓着した様子もない。
「あんた、荷台でよければ連れてくが、来るか」
「…いや、いい。何かあった時のために、俺は残るよ」
何故だか森山は首を振って、あたしの方をちらりと見た。何かを言いたそうな顔だった。
しかしトオマワリはそんな軍人の表情を気にすることもなく頷いた。
「そうか。じゃあ、それで頼むよ。じゃあ姐さん、俺は行くけども、何か聞きたいことだとかがあれば今のうちに」
「べつに」
「寄航許可を求められたら、全部受け入れてくれて構わん。その際には、ムル喰いの話をちらっとでもしておいてくれ。ええと、それから、俺が帰ってくるまで例のB・B、勝手にどこかへ行かせるなよ。…あとは」
「判ったから」
初夢さんが面倒そうに唸ると、雨ふらねえよなあ、とトオマワリは呟いて、憂鬱そうな顔をした。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
手を振らずに肩を丸め、とぼとぼとトオマワリは部屋を出て行く。