外に出ると、確実にさっきより暑くなっていた。
これから夏が来る。それを肌で感じるように思った。
あたしは花束で太陽を遮りながら、ドックまでの、日陰のない平たい道を歩いた。
革靴は、舗装されていない道を歩くには少し痛い。
じりじりと肌の焼ける感じを少しおそろしく思いながら早足で歩くと、やはり軽く汗をかいた。
ドックの中はとても風通しがよかった。
正面の搬入口から、奥の通用口まで、風が吹き抜けている。気持ちが良かった。
昨日下りていたフロアエレベータも今日はきちんと上がっている。
詰め所に先に顔を出して、誰かに挨拶をして行こうと思ったのだが誰もいなかった。
仕方なく、勝手に地下へ下りることにする。
ヒューヴの入ったケージは昨日と同じところにあった。
ヒューヴはまだ眠っているままだ。
かつん、かつん、とリノリウムの床にあたしの足音が響く。
昨日桑納さんが座っていた椅子に座り、あたしは少し離れてヒューヴを見た。
「ごめんね」
呟くけれど、勿論ヒューヴには聞こえている筈もない。
ふと革靴を脱ぎ、靴下も脱いであたしは裸足になった。
床はひんやりとしていた。
花束をなるべく音がしないように抱え、裸足でヒューヴのケージへ近付く。
近付くと、彼の身体がゆっくりと上下しているのが、はっきりとわかった。
生きてる。
嬉しいのだかおそろしいのだか、判らなかったけれど、それだけを思った。
床より一段高くなったケージの、格子の隙間からあたしは彼のケージに忍び込んだ。
登る時に掛けた手の、捻挫がしくりと痛む。
こんな軽い怪我でヒューヴと同じ恐怖を味わったと言うつもりはない。
苦いような、とても痛みに似た感じがあたしの中を巡った。
あたしは黙ったまま、彼の身体を見下ろした。
背の高いコウノトリを見下ろすことなんて、初めてだった。
べったりと、まるで死んでいるように横になっている姿。
白い身体に白い包帯で、そこに滲む血の跡がはっきりと目立った。とても生々しく、包帯には血が滲んでいた。
あたしは足の方へ回る。あたしが撃ったフレッチャーの傷を残す筈の、足側へと回る。
長い足が、くにゃりとケージの床に投げ出されていた。
包帯がぐるぐると巻かれ、その継ぎ目から血が滲んでいるのが見えた。
あたしはヒューヴの足の傍に座って膝を抱えた。
とても静かだった。
ここは、病院よりも、雨よりも、夜よりも静かだった。
ぶうううん、と、どこかの、おそらくはそれほど大きくない機械の立てる唸り声が聞こえる。
地下のひんやりとした空気の中、あたしは膝を抱えてヒューヴの包帯と、血と、自分が持って来た花束を眺めていた。
たぶん、この光景をあたしは一生忘れないだろうと思った。
ケージの格子に寄りかかり、重苦しい呼吸をして、はやく彼が目を覚ましますように、と祈った。
「ごめんなさい」
手を伸ばして、彼の足の、怪我をしていないところをそっと触った。
いつも彼が喜んでいたように、そっとさすった。
無論、ヒューヴが目を覚ますはずはなかった。
あたしは花束をケージの傍に置いて、裸足のまま外に出た。
靴と靴下をまとめて下げて、裏の通用口から外に出た。
足の裏に色々なものがちくちくした。
通用口の外は日陰になっていた。
資材や箱や、色々なものが雑然と置かれている通用口の傍を少し歩き、リフトバギーの運転席に座った。
あたしが落ち込んでも、仕方がない。
仕方がないと思ったけれど、やっぱり落ち込んだ。
ポケットを探り、煙草の箱を出した。
パッケージには力こぶを作った、少し目つきの悪い青ハイタカが描いてある。
首を振り、あたしは箱から一本を抜き出した。
くわえてからマッチで火をつけ、足の裏の土を払った。
一人で煙草を吸うなんて、久しぶりだった。
やっぱりおいしくもまずくもない。煙草はどんな時に吸っても煙草だ、と思った。
煙を吐き出し、何も考えないように、しばらく過ごした。
泣くわけではなかった。
泣いてどうなるというものでもなかったし、泣くならばさっき、ヒューヴのケージの中で泣いていたと思った。
けれど泣いている時と同じように頭の中はまとまらず、何をしていいのか判らないままだった。
ヒューヴと駆けた空を思い出す訳でもない。昨日のムル喰いの恐ろしさを思い出す訳でもない。フレッチャーを撃った瞬間のあの、おそろしい感覚を思い出す訳でもない。
あたしは、空っぽになっていた。
誰かに、お前が判断を誤った所為でヒューヴは怪我をしたのだと、責めてほしい。
そうぼんやり考えて、あたしはすぐに否定した。
誰かに叱られたいというのは、多分、単純な逃避だった。それはただ単に、誰か、第三者に判断を委ねて、事が済んだ気になるだけだ。
あたしがするべきなのはそんなことではない。
あたしが、自分で考えて、何かをしなければ。
あたしも何かをしなければヒューヴに合わせる顔はない。焦るようにそればかりを思ったが、具体的なことはなに一つ、頭に浮かばなかった。
ヒューヴが元気になったら、それで刺のようなこの気持ちは消えるのだろうか。
考えてあたしは首を振る。そんな筈はなかった。
何か、何かをしなければ。
ぼんやり煙草の火を見つめていると、通用口のほうで壁にぶつかる音が聞こえた。
それに続くのは、よた、よた、と文字通りよたつくような足音。
耳を澄ませると、それが松葉杖をついた人間のものだということがすぐにわかった。
すぐに、トオマワリが、軍人にも会ってくればいい、と言っていたのを思い出した。
その足音は、軍人のものに違いなかった。
顔を合わせたい気分ではなかった。軍人に限ったことではない。
あと、せめて数分間は、相手がトオマワリだろうと、桑納さんだろうと、たとえ初夢さんであっても今は、誰かと口を利きたい気分ではなかったのだ。
一瞬この場から逃げ出そうかと逡巡したが、煙草をどうやって消そうかと迷っているうちに時間切れになってしまった。
通用口から、軍人が出てきたのだ。
その、松葉杖をついた片足の姿を眺め、諦めるようにあたしは息をついた。
松葉杖を突き、肩を通用口の脇にぶつけて軍人はこっちを向く。
「失礼」
声がかけられた。それきり少し間があく。
軍人は松葉杖でひょこ、ひょこ、と歩いて、向かいの積まれた箱の上にどさりと腰をおろした。
「上の窓から、丁度君が見えてね」
汗を拭うような仕草をしながら目で頭上の窓を指し、軍人は言った。
言葉の少なそうな、低い声だった。
彼はもう軍服を着てはいない。
誰かの服を借りたのだろうか。随分と、こざっぱりした格好をしていた。
水色の縞のシャツに細身のフライトパンツ。
そんな格好をしていると、もう軍人には見えない。
あたしは黙ったまま、ちらりと目を上げて二階の窓を見た。
見られていたのに気付かなかったのだと思うと、妙な気持ちだった。
いつから見られていたのだろう。
「君だろ、俺を、拾ってくれたのは」
軍人は控えめな声で言って、あたしの腕の包帯と、それと、煙草にも目を向けた。
何と返事をしていいのか判らなかった。
こういう気詰まりがあるから、会うのは嫌だったのだ。
「命に別状がなくてよかったですね」
あたしは何かを言われる前に先手を打って軍人の目を見た。
責めるような目をしていたのだろうか。軍人が少し顔を曇らせた。
「…乗器のことは、ここの技師に聞いた。…すまない。俺だけこんな、無傷で」
「そういう意味で言ったんじゃないんです」
軍人を責めても仕方ない。
わかっているつもりだったが、いつの間にか言葉尻も非難するようになってしまったようだった。
「それに、片足無くしてるのに、無傷、なんてことないでしょう」
確かに、と軍人は自嘲気味に笑う。伏せた目の、目じりの皺がとても柔和だった。
「君、名前は」
「鈴木」
「そうか」
「軍人さんは」
「森山」
相変わらず口を利くのは億劫だったが、その短いやりとりは妙におかしかった。
「礼を言おうと思ったんだ」
彼の声は深い。
「まあ」
そこまで言って、あたしは黙った。
気にしないで、とは言えない。礼を言われるべきなのはヒューヴだ。あたしではない。
目をそらし、少し考えた。
そして時間だけが過ぎる。
軍人はあたしの様子を窺うでもなく、ただ座っている。
随分お互いに黙ったまま、時間を過ごしたようだった。
あたしはすっかり短くなった煙草を消して、ふう、とため息をついた。
別にそれを待っていたわけではないのだろうが、不意に軍人が口を開いた。
「君の乗器」
少し口篭もる。
「?」
「君の乗器は、今、どこに?」
「どうしてそんなこと聞くんですか」
「心配だよ」
軍人は落ち着いた、大人の声で言った。
改めて、あたしは目の前にいる人の年齢を考えた。父とどっちが年上だろう。
考えたけれど判らなかった。ひょっとしたら、父より彼の方が年上かもしれなかった。
「中です」
短く言って、ドックの方をさすと、軍人は肩越しに振り返って建物を見た。
「会わせて貰ってもいいかな」
「いいですけど」
そこまでであたしは少し、はっとして言葉を止めた。
どうして、けど、なんて言ったのだろう。
会っても仕方ないわ、とでも続けるつもりだったのだろうか。
それとも、会って何をするつもりなの、だのと聞くつもりだったのだろうか。
そんな、軍人に八つ当たりをしたって、仕方ないのに。
首を振る。
「…案内しますよ」
なるべく感情を出さないように言って、あたしは立ち上がった。
軍人に手を貸して、もう一度地下室に下りた。
肩を貸して螺旋階段を下りながら、昨日はこの重い機械の身体を背負って歩いたのだ、と不意に思い出した。複雑な気持ちだった。
すまない、助かる、と謝る軍人にあたしはなんと返事をするべきか迷った。
「…まあ」
あたしはなるべく軍人の顔を見ないように、下を向いて答えた。
あたしはヒューヴのケージを指さし、壁際の椅子に座った。
両の松葉杖を使いにくそうに突いて、軍人がケージに近付く。
昨日桑納さんは、どんな気持ちであたしを見ていたのだろう。昨日桑納さんが座っていた椅子から、ケージに近付く軍人を見て、あたしはそんなことを思った。
随分長いこと、黙ったまま軍人はヒューヴの姿を眺めていた。
軍人の後ろ姿を見ながら、息をつく。
「ヒューヴァーパイヴァーっていうんです、その子」
黙っているのも気詰まりだったので声をかけると、軍人は意外そうに振り向いた。
しばらく見つめ合い、気まずくなってあたしは目をそらした。
「ありがとう」
軍人は言った。
本当に不思議な声だった。
落ち着いていて、深くて、思慮深くて、色々なものを包むような声だった。
何に対してありがとうと言われたのか判らなかったけれど、あたしはそれを受け入れた。
なぜだか、しっくりと受け入れてしまうような響きが、その声にはあった。
そして一歩一歩松葉杖で、ゆっくりと確かめるように歩き、軍人はあたしの隣に座った。
昨日あたしが座っていた場所に、軍人が座った。
一服するように息を漏らし、軍人は小さく、片足というのは思ったより不便だ、と呟いた。
あたしはそのまま壁に背中を預けた。
気持ちがいつの間にか、なだらかになっていた。
不思議と、いつの間にか、喋るのが億劫だという気持ちが消えていた。
気が楽になったというわけではないが、随分自然な気持ちになっていた。
「森山さんは、あんまり軍人っぽくないですね」
あたしはふと思いついて言った。
「森山でいいよ」
随分年上の軍人の口から出た言葉に、あたしはびっくりして彼の顔を見る。
「じゃあ、あたしも鈴木でいいです」
よく判らないことを口走ると、うん、と軍人は頷いた。
しばらく、沈黙が流れた。
「俺は、軍人らしくないか」
「別に、悪い意味じゃないですけど」
「うん」
また、沈黙。
軍人の話すペースは、とても不思議なリズムだった。
沈黙が挟み込まれるのが、あまり気にならない。不思議だった。
こういう間のとり方をする人を、あたしはあまり知らなかった。
安心なのか、そうでないのか、不思議な気持ちになっていた。
「今日、知り合いが久しぶりに帰ってくるんです」
口からつるりと言葉がこぼれた。
何を言おうとしているのか自分でも判らなかった。
なぜだかあたしは思ったことをそのまま、つるつると口に出していた。
「ヒューヴ、ヒューヴァーパイヴァーは、本当はその人の乗器になるはずだったんです。ただ、その人が事情で、もう乗れなくなったから、あたしが」
「うん」
「でも、こんな風に、ヒューヴに怪我させてしまって」
軍人の顔が少し曇る。
「すいません、何言ってるのか、判らなくて」
あたしは首を振った。
「別に軍人さんを責めるつもりとか、そういうのじゃないんです。ただ」
「…」
「ただ、混乱しちゃって」
それきり、あたしは言葉を続けられなくなった。
なんだか無防備に喋ってばかりだった。こういうのを醜態と言うのだろうな、と思った。
彼と会うことに消極的だったのは、たぶん話す事がないからではなかった。
こうやって、整理のつかないことをそのまま喋ってしまうからいやだったのだ、とあたしは気付いた。
喋る先から、言いたいことがずれていってしまって、誤解されないように否定すれば、さらに何かが遠くなる。
あたしは下を向く。消えてしまいたい、と思った。
「鈴木は、飛行器に乗って何年になる?」
おもむろに聞かれてあたしは反射的に顔を上げ、三年、と返事をした。
彼が口に出す、鈴木、という響きは少し新鮮だった。先生やクラスメイトが呼ぶのとは少し違う気がした。
そう呼ぶしかないからそう呼ぶだけなのだと言われればそれまでなのだが、なんとなく、誠実な響きだった。
「三年か」
噛み締めるように軍人は呟いた。
「俺は、軍に入ってから、もう何十年になるよ」
「軍に入ってから、何度か大きな怪我をした」
軍人は呟きながら胸ポケットを探り、小さな煙草の箱をつまみ出す。
「吸うかね」
勧められたが断わった。
「あまり、吸わないようにしてるんです。…あんまり、好きじゃないし」
「そうか」
別にそれ以上勧めるでもなく、吸わないなら吸わない方がいいと説教じみた事も言わず、黙って彼は火をつけた。
昨日の桑納さんが吸っていた煙草と同じ、きついにおいがした。
「その煙草」
あたしが顔を向けると、軍人は火元に目を落として、少し笑った。
「古い人間だからね、つい昔の煙草ばかり吸ってしまう」
「なんていう銘柄なんですか?」
「…<開拓>。今の若い人は知らないかもしれないな」
呟いて思い出すような目をする。
「すいません、話の腰、折っちゃって」
「いや、別にいいんだ」
軍人は、煙を吸い込んで、深い息をついた。
しばらくして、彼は口を開いた。
「俺の身体は、ここから」
言いながら彼は左の鎖骨の上に指を置き、右の脇の少し下まで線を走らせた。
「ここまで」
指を走らせた後は、手の平でその上を指す。
「この上が俺の身体だ。残りはなくしてしまった」
何と返事をしていいのか判らず、あたしは彼の指がなぞった線を、ただ、目で追った。
「うまく言えないんだが、それは、事故で、そうなってしまった」
「…」
「そのときにも、俺を拾ってくれた人がいる。軍に入ってもう随分長いが、昨日と、その時と、俺が命を救われたのは、その二度だけだ」
彼は、床を見つめながら呟くように続けた。
「こんな身体になっても、生きていたい、と思うものだ」
顔を上げる。軍人はあたしの顔を見た。真剣な顔だった。
「…俺は、鈴木に感謝しているよ」
「そんな」
「もし君が、俺を拾ったことを後悔していたとしても、俺は君に感謝している。それだけは覚えておいてくれ」
うまく返事を出来ずに、あたしはまた黙ってしまった。
「勝手なことを言ってしまって、すまないが」
軍人は付け足すように呟いて、ヒューヴの方を向いた。遠い目だった。
静寂の中であたしは、彼の口にした<ありがとう>の声の深さを思い出していた。
大人にあんな真剣な顔で、ありがとう、なんて言われたのは初めてだった。
あたしは自分で言ったとおり、やはり混乱していると思った。
自分のしたこと、自分の判断、起きたこと、起こったこと、起こしてしまったこと。
全てのことと、生身の自分との折り合いが付かなくなっているのだと思った。
けれどその中でも桑納さんの言った、人助けをしたのだから胸を張れ、というのが今ひとつしっくり来なかった理由が少し判った気がした。
実感がなかったのだ。
すまない、ありがとう、という言葉があたしと軍人の距離を形づくる。
ほんの少しだけ、あたしたちは彼を助けたのだという実感が湧いた。
別に誇らしいわけではなかったが、昨日の事は少しずつ、あたしの一部になりかけているような気がした。
あたしは大きく息をついた。
「あの、一本ください」
「?」
「さっきの煙草、一本くれませんか」
軍人は控えめに笑って、胸ポケットから<開拓>を出した。
「すこし重いよ」
「はい」
火をつけてもらって吸い込み、あたし早速むせた。
「言ったろ」
笑うわけでもなく、軍人は心配そうにこっちを見た。
なんだかその言い方にひっかかって、あたしは無理に、ふうう、と煙を吐いた。
軍人は不可解そうな顔になる。
「…からいです」
真面目な顔をして、あたしは返事をした。
ちょっと気圧されるように口をあけ、言いかけて止めるように彼は頷く。
あたしたちはそれからしばらく並んで煙草を吸った。
黙ったまま、並んで、きつい煙草を吸った。
ヒューヴは相変わらず、ケージの中で眠っている。
どんな夢を見ているのだろう。
その、閉じられた目の赤い縁取りには、何の感情も浮かんではいない。ふっくらとした、コウノトリの頭のライン。緩やかに上下する胸と肩のライン。
ヒューヴのことと、軍人のことは関係がない。
たぶん、今あたしを混乱させているのはあたしとヒューヴの問題か、もしかするとヒューヴすら関係のない問題かもしれなかった。
それをはっきり知った気がした。
そう思ったきっかけは何であったか、言い当てるのは難しかったが、確信があった。
ふと思いついて、あたしは軍人の方を向き、言った。
「あたしたち、友達になりましょう」
「うん」
軍人は別に驚いた風もなく、まるで自然な流れのように頷いた。
自分でも不思議だったが、それは、本当に自然な流れのように落ち着いた。
「じゃあ鈴木は俺の事を森山と呼んでくれ」
彼は、そのままの顔で提案し、あたしは彼がしたように頷いた。
「じゃあ森山は、あたしのことを鈴木と呼んでください」
それきりしばらくまた、喋らずに煙草を吸った。それで、あたしたちは友達になった。
煙草を消して煙を手で散らし、そろそろ行かなきゃ、とあたしは言った。
森山は煙草をとうに吸い終わっていた。
そろそろ、初夢さんを迎える準備をしなければならなかった。
「上まで、送ります」
手を差し出すと、彼はあたしを見上げて笑った。
「いいよ、登るときは一人でも何とかなりそうだ」
俺はもう少しここにいることにするよ。
そう、森山は付け足して右手を差し出した。
そして彼は、本当に何気ない、静かな顔で笑った。
「もう会わないかもしれないけれど、会えて良かった」
あたしはそっと彼の手を握った。
機械の腕ではない。森山の体の温度だった。
「もう会わないかもしれないけれど」
これが一期一会なんだ、とあたしは思った。
名刺を集めるのなんかとは違う。とても不思議な気持ちだった。
もう半分顔も忘れてしまった人のアドレスの入った名刺はファイル一杯に持っているのに、あたしは森山のアドレスも、フルネームすらも知らない。
多分、森山が軍に戻れば偶然会うこともないだろう。
けれど、アドレスを尋ねようという気にはならなかった。
もう一度会うことになるという直感が働いたわけではなかったが、これでいいのだ、と思った。
これで構わないんだ、とあたしは思った。
空から地上の、点のような明かりを眺めるときのような不思議な充足感があたしを包んだ。
森山の手を離し、あたしはヒューヴのケージの前まで行って腰をかがめた。
彼の嘴に口を寄せて、森山に聞かれないような声で、ありがとう、と囁いた。
思い返してみると、あたしはヒューヴにありがとう、なんて言った事がなかった。
なんて不義理だったのだろう、と思うと後悔で少し泣きそうになってしまった。
ヒューヴのために、あたしが何かできるというわけではない。
直接彼の傷を治すことができるわけではないし、できることといったら、祈ることと、嘴を撫でることくらいしかない。あたしは無力だったし、これからも無力だ。
あたしはその事実を受け入れた。
だったら、もう、あたしは何も出来ないだとか、出来ないことに目を向けるのは止そうと思った。
もう、自分の罪悪感を満たすために時間を使うのは止そう、と思った。
あたしはヒューヴのために何ができるというわけではなかったが、何も出来ないと決まった訳ではなかった。
ありがとう、とあたしはもう一度繰り返した。
あたしは立ち上がり、鞄を背負いなおした。
「それじゃあ」
あたしは振り返って森山に手を振った。