地球環境を汚染せず、この戦争は終わった。
…ということになるらしい。
ラジオが、アラビア語を放送している。
狭い四人家族用シェルターから這い出して、僕と妹が最初に感じたのは緑のにおいだ。
草の青い、むせるようなにおい。
僕たちの目の前に広がっていたのは、ただ、緑、それとおまけのような、いくつかの潅木。
あとは本当に言い訳のように、時折にょっきりと立つ建物の残骸。
砂っぽかったはずの町は、面影すらない。
白い岩壁に断ち切られた谷あいの町は、一夜にして、膝まである緑で一杯になっていた。
昨日まで町があったはずのそこには、何もない。
間違っても爆撃明けた廃墟、という感じではなかった。
何千年も前の遺跡のような、所々の廃墟にかぶさる緑。
僕はほんの少し絶望を感じて、ため息をついた。
「お父さんとお母さん、無事かな」
僕がため息をついたせいか、妹は僕の顔色を窺うように言った。
「とにかく探そう」
僕は低い声で答えて歩き出す。歩き出す僕を追い越して、妹は走ってゆく。
熱核兵器はもう流行っていない。
十年前にユカタン半島と、ニホンの半分が吹き飛んで以来、熱核ミサイルは一度も発射されていない。
けれど、戦争自体は続いている。
熱核兵器よりスマートで、環境を汚染しない方法での戦争に移行している。
<フラワームーブメント>
それが現代の最終兵器の愛称だ。
その語源は古く二十世紀にさかのぼるらしい。
嫌なセンスだ、とシェリ先生は言っていた。今になって、ようやく僕もそれに共感した。
僕らの上に広がる空は、雲ひとつない。
爆弾だって落ちてくる隙のないくらい、青く青く晴れ渡った空。
家のあった方に走る妹の後を追いながら、僕は昨晩の空襲を思い出していた。
*
昨日の夜遅く。
家族用シェルターの狭い暗がりの中で父はいらついたように首をぐるぐると回していた。
時折、ごきごき、と大きな音を鳴らしていた。
急な空襲警報のせいで宝石を家に置き忘れたと、父は何度も繰り返し、悔しそうに言っていた。
母は母で、あの人たちは皆火事場泥棒で疫病神だと、ジプシーの悪口を言いながら妹の髪を編んでいた。
爆撃はいつもより長く続いていた。
爆撃が止んで静かになり、しばらく経つと、とうとう父は自分の想像に痺れを切らし、家を見てくる、と言ってシェルターの蓋に手をかけた。
だめだよ、と止めたけれど、聞かなかった。
もう爆撃は止んだ、と父は言った
確かに最後の爆弾が落ちてから随分が経っていた。
けれど、今夜の爆撃は二陣に分かれて来ると、シェリ先生に聞いて僕は知っていた。
僕は、シェリ先生が昨日僕と妹に言った事を繰り返した。
「フラワームーブメントの爆撃は二陣に分かれて来るんだよ」
両親はシェリ先生のことを、働かないインテリだと馬鹿にしていた。
父は文字が読めなかったし、母は父よりもっと無学だった。
あんな外国人の言うことを真に受けるんじゃない。父は言って僕を咎めるように見た。
僕がシェリ先生の弁護をしようとすると父は怖い顔になった。
妹がこっそりと母の影から首を振って僕を止めた。
僕は聞かなかった。
「父さんは字も読めないくせに」
一瞬、父は呆気にとられたような顔をして、それから僕を殴った。
行くぞ、と母を呼んで、父はシェルターを出た。
両親がいなくなった後、僕は鼻血を拭き、こっそりシェルターの蓋を開けて廃墟になった町を盗み見た。
暗くてよく見えなかったけれど、町が完全に倒壊していることだけは判った。
ところどころ赤く燃えて、町は瓦礫の塊になっていた。
しばらく眺めていると、さらさらと、砂が流れるような音が聞こえてきた。
それからすぐに、何かが腐ってゆくような臭いがほんの少しだけした。
怖くなってすぐに蓋を閉じた。
セリ先生に聞いたフラワームーブメントの話を僕は瞬時に思い出していた。
妹も外の様子を見たがったが、見せないことにした。
大丈夫、父さんも母さんもすぐに帰ってくるよ、と僕は妹と手を繋いで待った。
けれど結局両親は、帰ってこなかった。
*
そして夜が明けた。
昨日の闇の中で僕が見た瓦礫は、たった数時間で姿を消し、生い茂る草のカーペットになっている。
不条理な悪夢のようだが、これこそが、現実。
シェリ先生の言ったとおりだった。
爆弾に続いて投下されたナノマシンは瓦礫の山の分子配列を変換。
一晩で町の破片を、地球に優しいグリングリーンの植物に変えてしまったというわけだ。
まさに。
フラワームーブメント万歳。愛と自然よ、だ。
僕は自棄っぱちのように呟いて、植物に変換されそこなったらしい缶を蹴飛ばした。
「サビィ!あんまり遠くにいっちゃ駄目だよ!」
僕は緑に混じった建物の、残骸の向こうへ消えてゆく妹に声をかけた。
返事の声はあまり遠くないところから聞こえてくる。
そろそろ家のあった辺りまで来ていた。
残骸を避けて視界が晴れると、意外なものが目に入ってきた。
壁だった。
まるで取り壊される途中で忘れられた塀のように、草のなかに壁がぬっと立っていた。
「これ、うちの壁だよね」
声が聞こえるくらいまで近寄ると、妹はまるで懐かしい人に出会ったように壁を撫でながら僕を見た。
「うちの壁だ」
僕は少し驚きながら鸚鵡返しの返事をした。
まるで遺跡のようだった。
昨日の爆撃で焼けた跡なのだろうか。壁は煤で真黒だった。
崩れず残っているその部分の幅は僕が両手を広げたより少し広い程度だ。
高さも、僕の背丈より少し高いくらい。蔦が絡み付いている。
何の支えもなしに、一枚で立っているのが不思議だった。
それが立っている以外、僕の家のあった辺りにはもう何もない。
「窓だよ、窓」
妹は少し無理して陽気に壁の向こう側に回った。
壁の中央には窓枠がまだ、はまっていた。
「倒れるかもしれないから気をつけるんだよ、サビィ」
気をつけるって言ったって、倒れてきたらひとたまりもないな、と思いながら僕は声をかける。
「平気よ、お兄ちゃんの心配性」
妹は少しむくれたように言いながら、窓が開くか試そうとしていた。
「こっちが内側だね」
ぎしぎしと窓枠をいじりながら妹は、ガラスのはまっていない窓越しにこっちを見た。
「どうしてわかるの?」
「こっち側に鍵がついてるもの」
僕は妹の側へ回った。
妹の近くに、人がしゃがんだくらいの大きさの潅木が二つ、並んで生えていた。
「お兄ちゃん」
妹は少し困ったように僕のほうを見た。
「これ、お父さんと、お母さんかな」
僕は返事が出来なかった。
「馬鹿だな」
やっとのことで言いながら、僕は潅木の傍に寄った。
僕は、シェリ先生の言葉を思い出していた。
妹も同じ言葉を思い出しているのだろう。
フラワームーブメントなんて誤魔化しちゃいるが、核兵器と同じさ。
ナノマシンは、見えるもの全部、見境いなく植物にしちまうんだからな。
これはきっと、父と母だろうな、と僕は思った。
僕は父が嫌いだった。
口答えするとよく殴られた。シェリ先生に貰ったものを捨てられたこともある。
酒こそ飲まなかったけれど、愚痴をこぼし、働けないことを学歴のせいにした。
僕は母も好きではなかった。
母はいつも父の言いなりで、無学で、迷信に凝り固まっていた。
僕の友達に面と向かって悪魔の子と言い放ったことさえある。
けれど。
あんなに圧倒的だった僕の両親が、ただの潅木になってしまったのだ。
なんと言っていいのかわからなかった。
潅木の根元にキラリと光るものがあった。
かがんで拾うと、それは父の腕時計だった。
革のバンドは片方千切れてなくなっていたけれど、たしかに父の腕時計だった。
SEIKO、とニホンのメーカーの刻印が見えた。
「お兄ちゃん」
妹が怯えたように僕を見た。
僕は首を振った。
「こっちが父さんだよ」
僕は潅木のてっぺんに、腕時計をかけて言った。
不思議と涙は出なかった。
妹は、僕と、潅木を見比べて、少し目を泳がせた。
少し震える手でもう一つの潅木を指さし、こっちがお母さん?と聞いた。
僕は黙って頷いた。
ぎゅうん、と、にじむように空が鳴った。
*
町の人は、僕たちのほかに誰一人として見つからなかった。
歩き回って一つ、簡易シェルターを発見したけれど、蓋は半開きで、中には苔がびっしりと生えているだけだった。
丁度人間三人分くらいの体積の苔。
僕は町の人がどういう運命をたどったのか、ぼんやりと理解した。
妹が、少し離れたところにある川から、水を汲んできた。
「お父さんとお母さんにあげるの」
僕はその手桶から手で水をすくい、一口だけ飲んだ。
瓦礫に腰掛け、僕は妹が両親に水をやるのを眺めた。
とてもいい天気だった。
爆弾が落ちてくる隙もないくらい、いい天気だった。
都会へ行こう、と言ったら妹は反対するだろうか。
どの道、ここで食べ物を調達するのは骨が折れそうだったし、なによりここにはもう、家がない。
そう言っても妹は反対するだろう、と僕は思った。
お父さんとお母さんを置いて行くの?と責めるように妹は僕を見るだろう。
けれど僕たちは生きていかなければならない。
そのうち妹も判ってくれるだろう。
それまでしばらくはあのシェルターで暮らすのもいい。
とにかく戦争は終わった。
僕は空をあおぎ、その事実を噛み締めた。
僕は以前父だった潅木に近寄り、枝を一本折った。
ぱきりと乾いた音を立てて枝は折れた。
枝の折れ口を鼻に当てて僕は匂いをかいだ。
若々しくて少し哀しい、緑の匂いがした。
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