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'06/09/02
ナントカ、生計危機は脱したものの、暇がニャイ。ボクの詩というようなものが、とどのつまり、閑人の世迷言であるのかないのか、そのうち、解かっちゃうんとちゃうかしら?
'06/10/09
最近、'出来もの'に題を添えるようになりましたが、 決して、訪問された方々への親切心からではなく、(えろう、すんません) あまりの訪問者の少なさに、さすがに落胆して、ちょっと営業心を発心。 あまり気が染まないながら、(だって、この歳で、野心と言うほどの自意識はほとんど無いよ) アドレッセンスの放散香に入り混じって、 投稿サイトに投稿なんぞするようになったからです。(題名が必要)
ちなみにボクハ、詩の題名なんて、多くの場合、ほとんど製本上の慣行、 ひいき目で見れば各作品へのインデックスだろうけど、 どれだけ用を成しているのか疑わしい惰性的飾りじゃないか、 などと散漫に思っています。
'06/12/03
ああ、ヤレヤレ。やっと、更新ば、できたど〜、どですかでん。
(意味はないので、気になさらないよう。気になる方は、松本零二の「男おいどん」と、黒沢明監督の愚作品リストをチェックしてみて)
こう毎日の労役がきついと、頭もすっかりパープルになって、てふてふが脱線海峡をとんでいくぅ〜とくらぁ。でぇ〜もぉ〜、詩なんぞやってらんねぇとはいかんのですたい、なんやら知らんが。まあ、詩になっているかどうかは別にして。
おかげ様で、売れ残り処分はけ値半額相応変色250円お刺身パックを暫時のためらいで買えるようになりましたぞなもっし。たださ、冷蔵庫にむやみに貯めこんだ今にも液濁せんとする今日明日の糧どもの本望を遂げさせてやれないのではないかという恐ろしい懸念が増えちゃったけどさ。今夜は三日目のおでんで一杯よ。何んのこっちゃら・・・
'07/01/21
'07年の初っぱなからやっとの更新。本を読んでじっくり詩を考えたい、人や社会を考えたい。暇が無い。人と繋がるゆったりとした楽しみを確保したい。暇が無い。自分の暮らしに付き纏う用事は自分で始末をつけたい。暇が無い。ぼくは贅沢を言っているのだろうか?金銭の不安を時間で購うほか術のない無能を刻印されて、生活も詩もどんどん貧しくなってゆくような。それに抗いたい、ぼくの密やかな闘い。今夜はちり鍋で一杯、ふにゃらふにゃら。
'07/04/29
前回の更新から三月も経ってしまった。生活の不安定が主要因ではあるけれど、 ちょっと情熱が失せてしまった感がなきにしもあらず、っかな? 反応が芳しくないホームページ制作者のお決まりの消沈、ってとこでしょう。 (あっ、これを読んで下さってる方には失礼な愚痴だよね、ゴメンなさい。 だいたい殺風景でさ、魅力ある工夫がなんにもないよね、って我ながら思う。 暇がなくってさ、あっ、また・・・)
'07/05/31
このところ、父母と自身の生い立ちに関わる詩(?)が連続している。いつか自分自身に向ってはっきりと言葉にしなければ、と思っていた懸案のテーマなのだが、昔何度か試みたものの、最近に至るまでうまくできないでいた。なぜだろう?と考えると、詩と散文の考察に行きつく。
出来事に心揺さぶられると、ぼくは詩が書きたくなる。今回は、母親が心臓ペースメーカーを胸に埋め込んだ事がきっかけとなっているのかもしれない。ぼくの言葉の出し方は、ロマン的傾向かもしれないが、出来事そのものへ向うよりも、出来事によって引き起こされた自分の中を揺曳する感情を、内実を失わずに丸ごと外化したい欲求がずっと強く、散文的な描写では疎隔感が拭えないでいた。散文的な言葉は、言葉の単層的イメージ(実は、社会的コードなのだが)への信をとにかくも仮託しなければにっちもさっちもいかない。身体的でマージナルな場のちからの援用や束縛を受けたパフォーマンス性が強い話し言葉から、抽象的な言語空間で物事を効率的に説明するのに適した形で進化してきたからだろう。そのおかげで、出来事や気持ちの変転を対象的に捉えて伝達するには優れて便利で、成立しさえすれば、関係的な場を持たない意識の言葉にすぐに浸潤すると思われる。しかし伝達の明快さと引き換えに、意識の言葉に翻訳される以前、こころの経験とも言うべき複雑で生なまとした躍動を単層的イメージの言葉に要約的に刈り込んでしまう。意識が書き言葉に浸潤されて散文化すれば、どの言葉も散文性を帯びざるを得ない。克明に語ろうとするほど、ほんとうに伝えたかったことからしばしばずれが生じたりする。整合好きな散文的規則に強いられるからだ。ではその時、出来事とこころの経験を散文的視線で報告するのではなく、こころに生起する渦中の経験そのものを伝えたいと欲すればどうすればいいか? 散文性に被爆した言葉のイメージを隠喩的に重層化することで、ある種の言語表現が解を試みてきた。それが一般に抒情詩と呼ばれているものだと、ぼくは思っている。ただこの方法は、出来事そのものを具体的に捉えるのは不得手だ。出来事の現実性を支える言葉の安定した単層イメージを散乱させてしまうからだ。最近ぼくは、出来事を描写したい詩(?)が多くなっている。心躍る詩(抒情詩)を整形したいという気持ちが薄れてきた。端的に年齢と活力ない生活のせいだが、結局は自分しかいない自身の世界に食傷しているのかもしれない。

ふーっ、気楽に始めたはずの[つれづれ]に力みを入れ過ぎちゃたよ。これじゃぁ更新がままならねぇ〜。黙々考々を中途半端なまんま放ったらかしてるフラストレーションだぜぇ、こりゃあ。ああ、時間がほしい。
つまみ作って早くいっぺいやろう。今夜はビールにグットな、じゃがいもとインゲン豚コマのニンニクケチャップソース炒めだホイ。
 
'07/08/26
早朝から蝉が鳴きやむ暇もない暑さがまだ続いている。でも大半はツクツクホーシ、夕暮れると秋虫もすだきだした。クーラーなしの生活者にとっては、ひと山越えた感じでヤレヤレである。更新がまた滞ってる。最近、ウェブへの接続がスムーズにいかなくなって作業がおっくうになった事もあるけど、又もやの生活の逼迫がおっきい。アメリカングローバリズムを追従しているうちに、'貧乏暇なし'なんて一昔前の繰り言がぴったり通用してしまう世の中に日本社会が逆戻りしてくれちゃったおかげ様である。詩が書かれるために金の有る無しは関係ないが、暇はいる。あと、書こうとする意欲か。このところ双方ともない。私のような、身体が挿入された現実を表現の原基として手放したくないリアリスト(自然主義者)にとって、詩が生まれるためには、身体が(こころが)感嘆する生活の彩度が必須なのだが、資本化の趨勢は生活の細部にまで及び、元来、水や空気のようにしてあった手付かずの領野までたった一つの価値の階梯に組込もうとする。勢い、金銭によって購えなければ、生活の多くの部分で質の密度は劣化する。
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