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3.「言語にとって美とは何か」を巡って(1) Back  BACK

先の、言葉の始原を推定するというような無謀な試みは、言語及び言語表現に関わる重要な著作であるにも拘らず、ソシュール言語論に席巻されたかにみえる今では無視されている感のある、吉本隆明氏の「言語にとって美とは何か」導入部の次のような記述に多くを負っている。

たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを<う>なら<う>と発するはずである。また、'さわり'の段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はある'さわり'をおぼえ<う>なら<う>という有節音を発するだろう。このとき<う>という有節音は海を器官が視覚的に反映したことに対する反映的な指示音声であるが、この指示音声のなかに意識の'さわり'がこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば<海(う)>という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を'直接的にではなく象徴的'(記号的)に指示することとなる。このとき、<海(う)>という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。

吉本氏はここで、単なる空想的な想像を語っているのではなく、氏独自の原理的確信に基づいて想像的に語っている。確証され得ない論述を冷笑しながら西洋の原理的考察には無原則に寛容な従来の知的風土の中で、吉本氏の考察はいくら賞賛してもし足りない蛮勇ともいえる快挙だったと思う。

ただ私は、ここで言葉の本質に関わる何か重要なものが欠けているように素朴に思う。私に記述の変更が許されるなら、狩猟人の隣にもう一人の狩猟人を配するだろう。氏の記述は発語の生成を語っているが、発語を促す契機にはどうしても相手がいる。そして、意識の'さわり'の共同性がなければ、特定の有節音が特定の対象イメージに収斂してゆく契機も失われる。言葉としての条件にはそれら有節音と対象イメージの結びつきの共同性が不可欠であり、言葉の共同性は本質的であるといっても過言ではないと思う。私たちは相手を必要としない語りかけに慣れてしまっているので見落としかねないが、それは言葉の成立がもたらした、私流に言うと'三重化した意識'の中で語りかける自己(相手)を仮想できるようになったからで、語りかける相手の想定なしにどんな発語も生まれない。

私が言葉の共同性というとき、言語が形式的規範性として働くことで自他の間の現実的な意図の橋渡しを保障するということと、発語(表現)には自他との交流(コミュニケーション)を希求する発語者の受け手の想定が不可欠、という二つのことを意味している。吉本氏が言葉の共同性を無視している訳ではもちろんない。上記に続いて

こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、自己を含みながら自己に対する存在となりそのことによって他にたいする存在となる。反対に、他のための存在であることによって自己にたいする存在となり、それは自己自体をはらむといってもよい。なぜならば、他のための存在という面で言語の本質が拡張されることによって交通の手段、生活のための語り言葉や記号論理は発達してきたし、自己にたいする存在という面で言語の本質を拡張したとき言語の芸術(文学)が発生したからである。

これは、言葉をもった人間の自己意識の幻想性(氏の独特の用語なので詳しくは次回で後述)の特徴を語っているところだが、言語の共同的性格を暗示しており、他の場所でも、発語主体が明示されているところでは比較的はっきり記述されている。しかしながら、氏の言語表現論の基本概念である自己表出や指示表出が言語を主語にして記述されるとき、言葉の共同性のニュアンスが消失してしまうように印象される。それは、発語の初発に他と切り離された単独者を原理的出発点として想定しているから、なのではないだろうか?

ソシュールは、発語主体の関わる'パロール'と記号体系としての'ラング'とを原理的に一貫して取り扱う困難を予想して、対象とする言語の本質を、言語の形式的規範性の側面に集中させた記号体系としての'ラング'に限定し、'パロール'を言語学の対象外に峻別しようとしたが、時枝誠記氏がソシュールに反発して、逆にあたかも'パロール'のみで言語を現象的に取り扱おうとしたように、時枝誠記氏を高く評価する吉本氏も、あたかも表現としての'パロール'だけで言語を取り扱うことが可能だと見なしたかのようにみえる。その際、時枝誠記氏とソシュールをつなぐ試みである、三浦つとむ氏の言語を物質的形式とみなす唯物論的な考察が参照され、氏の言語論に組み入れられたようだ。

三浦氏の<過程的構造をかくし持った音声や文字が言語であり、それ以外に言語は存在しない>と、 吉本氏の<表現されないかぎり言語は存在しない>「心的現象論序説」とは何と似通った宣明だろう。

三浦氏は、時枝氏の現象的な'表現過程'を'客観的な関係の実現'に置き直し、言語を主体の<超感性的な認識(普遍的概念)の感性的な形象('ラング'がもつ概念と聴覚映像の結びつき?)による実現>として捉え、主観的な表現と客観的な意味概念との矛盾を媒介するものとして、ソシュールの'ラング'を規範言語として位置付けたが、'パロール'と'ラング'を結びつける代償として、表現に先立つ'超感性的な認識'のような不可解な概念を設定せざるを得なかった。吉本氏の場合、表現以前に前提される言語はなく、ソシュールの'ラング'は入り込む余地がない。ただ、

人間が何事かをいわねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとの間に存在する千里の径庭を言語の自己表出として想定する事ができる。

というとき、あたかも言語自体がある暗黙の意志を持つような奇妙さを感じる。なぜ単純に、言語を主語にしないで'人間意識の自己表出'ではいけないのだろう?素朴に考えれば、幼児が言葉を獲得してゆく過程を見てもわかるように、言葉はまず、生存的欲求と母親との融即的な反応から母親を口真似するように姿を表し、自らの表現に先立って模倣するもの教えられるものとして立ち現れてくる。謂わば私たちは、自分のでない規範性として与えられる他人の言葉の只中に産まれてくると言える。言葉の始原を考える場合、ソシュールも<'ラング'が成立するためには、'パロール'が必要である。歴史的にみれば、つねに'パロール'事実が先立っている>と述べているように、誰かが発語(表現)しなければ始まらないという意味では吉本氏は正当である。しかし、発語を促す相手がいてしかもそれが了解されなければ言葉は成立しないという意味では、それを単に現実の与件とみなし表現との'千里の径庭'を強調して、言語の自己表出という自動的な概念のみで言語を捉えようとする吉本氏は不当といえるのではないだろうか。

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4.「言語にとって美とは何か」を巡って(2) Back  BACK

吉本氏の言語論が奇妙で解かりにくいのは、基本概念である自己表出と指示表出をさしたる説明もなくいきなり頻繁に使い、しかも個々の人間の言語表現の背後に、それを促す言語自体の表出の運動のようなものが想定されているからだ。むしろ言語自体の表出の運動を論証するために言語の自己表出-指示表出という概念が考え出されたのではないかと疑念するほどだ。もちろん氏の中心的モチーフは<人間の本質力が対象的に展開された富>としての<言語にとっての美である文学>を一切の<現実的与件>、特に外在的な政治理念から文学的価値をとらえようとするマルクス主義芸術論の功利主義、から切り離して自立的に価値付けしようとする構想にあり、そのための不可欠の概念として言語の自己表出(指示表出)が考えられていることは確かだ。即ち、現実にまみれざるを得ない自己意識の表出から出発していたのでは、どんな文学(言語)論も外在的な政治理念から身をもぎ離すことはできない、というように。そこには、氏の戦争期の、深く文学を愛する文学青年でありながら、当時の政治理念(日本軍国主義)に一体化してしまった自らの精神への、苦く根本的な反省が込められている。と同時に、政治(公−社会)と文学(私−個人)の間に横たわる抜き差しならない矛盾を、深く問い正すこともせず敗戦期をやり過ごすことで戦後の政治理念(民主主義イデオロギー)に再び衣替えをしてしまった、日本マルクス主義文学者から芸術至上主義者に至るまでの、日本軍国主義を生きた旧世代の文学者達への根本的な批判が込められている。とはいえ、おそらくは再び騙されまいとする強い志向が呼び寄せたに違いない普遍的原理への信憑が、原理的一貫性への過剰な偏執ともいうべきバイアスをかけているように思えてならない。しばしば論述の晦渋を呼び込む、言語を主語として語られる理由はそのような事情によるのだろう。自己表出の初めての定義らしい定義に関して、

人間が何事かをいわねばならないまでにいたった現実的な与件と、その与件にうながされて自発的に言語を表出することとの間に存在する千里の径庭を言語の自己表出として想定する事ができる。この自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。言語はこのように対象にたいする指示と対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質をなしている。

なんとも解りにくい記述だが、表出されなければ言語はないと考える吉本氏は、言語本質を語る際にある時点を導入しなければならず、言語は<人間の幻想性の自己意識における現在性>を通してしか表れないが、その表出時点で言語は、対象にたいする指示(指示表出)と対象を指示する際の<意識の自動的水準の表出(自己表出)>との二重性を持つ。そして<意識の自動的水準>はその時点で<歴史的に累積された共同意識の現存性>を意味し、それを連続して保持するものとして言語の自己表出が考えられている。この著作の最終総括部分を動員して何とか解釈するとこの様になるが、どうやら言語の自己表出そのものに<人間の幻想性の共同的な性格>が暗黙の内に付与されているようである。  

氏の表出概念を私なりの理解でもう少し順を追って辿ってみると次のようになる。

自己意識の現在性(即時意識)が現実的環界の必要に応じて対他的に対象を指示する際(対他意識)、自らが外化(表出)した言語は他のための存在(文字や音声による物質化)であると同時に、そのことによって(自己にとっても対象的に反作用して)、自己の意識となる(自己自体をはらむ)。逆に、対自的に自己自身を対象にする際(対自意識)、自らが外化(表出)した言語は自己(意識)を含みながら自己に対する存在(物質化)であると同時に、そのことによって、他にたいする存在となる(他にとっても物質化された対象的存在になる)。このように、現実(物質)と非現実(意識)を跨ぎ繋ぐ(物質を媒介にしながら物質性が消されて意識となる)ものとしての人間の自己意識の幻想性がまず考えられ、その表れとしての言語の特殊な性質が二重性として考えられている。

このとき、人間の自己意識の幻想性の表れとしての言語は、対自的な自己表出と対他的な指示表出の両面を合わせ持っている、と素朴に考えればこうなるはずだが、表出以前に言語を認めない吉本氏は、言語の発展的相違を共同的な形で連続的に繋ぐ約定としての'ラング'に求めることができないため、そのままではある時点の表出と次の時点の表出の発展的違いを繋げることができない。また吉本氏は、累積された表現されたもの(言語の美)から遡行的に言語の本質を追求しようとするので、つまり、言語表出から分化した表現である文学作品を言語の本質から一貫して説明しえないような言語論は用をなさないと考えられているようなので、単にある時点の人間の自己意識の表出の側面から言語を捉えることを旋回させて、表現されたものの中に人間の自己意識の幻想性の表われと言語本質が定着されていると見なし、文学作品特有の強い対自的な自己表出としての表現の側面からその時点の固有の自己意識をいわばマイナスする形で、意識の自己表出を言語の自己表出というふうに転倒させて想定することで、人間の自己意識の幻想性を含みながら尚かつ言語本質が貫かれている表出状態によって言語自体に連続性を導き入れられ、それぞれの時点の言語の発展的相違は、言語の自己表出の歴史的に累積された水準の中に解消することができる。つまり、言語の共同的性格を'ラング'に求めないならば、言語の自己表出を想定する必要があるということになる。したがって、

言語は、本質的には、このような対象指示の動因(人間の現実的な環境体験から生じる表出の必要)と、幻想的な人間(人間の幻想性)の自己意識における現在性、いいかえれば人間の幻想性の共同的な性格の表出としての動因とによってはさまれている。だから言語のもうひとつの決定因は、歴史的に累積された幻想性の共同意識の現存性である。これが自己表出の現存性の構造にほかならない。言語は対象指示性にかこまれていると同時に幻想性の表出の現在にかこまれている。

となれば、ある時点での自己意識の現在性は、その時点での現実的環界の必要に応じて対象を指示すると同時に、言語の自己表出の歴史的累積の共同的水準に押し上げられた人間の幻想性の自動意識でもあるので、それぞれの時点で言語が表出される際、必ずその時点までに累積された言語の自己表出の共同的水準が加わり、表出が自己表出的であっても指示表出的であっても、必ず累積された言語の自己表出性が自動意識として付加される、というように、転倒された自己表出概念の中に言語の連続的展開を繋ぐ共同性が既定項のように含まれることになる。 ただそのことによって、自己表出概念が言語の自己表出として語られているのか意識の自己表出として語られているのか、錯綜してしまうように思う。自己表出に関する訳の解りにくさと、その表れである言語を主語にした記述の混交は、そのようなところに起因しているのではないだろうか?

上述の宣明の後、言語を主語にした記述が頻繁にみられるようになる。 氏の定義を直載に言ってしまえば、表出において言語が現われ出ようとする志向を自己表出、その際、言語が対象を指示することで表出されることを指示表出とする、ということになると思う。したがって、自己表出と指示表出は別のことではなく、角度を変えた見え方の相違で、具体的な言語の表出相の説明では、どちらに重心を置くかで違ってくる。幾分図式的になると成分の割合の多寡というような姿勢で論述される。ただそこで、人間の自己意識(幻想性)が絡まることによってしか言語が発現されないところに、表現にこそ関心の垂鉛をおろす氏の言語論の晦渋が発生するように思う。それ故、表現に関わる多くの貴重な分析や着目点がみられるにも拘らず、しかし具体的な言語の表出相は人間意識の表出を媒介にせざるを得ず、発語主体が主語となる論述と言語自体が主語となる論述が混ぜ合わされて、そこに吉本言語論の奇妙さが発生する。そしてそれを奇妙に感じないためには、言語の自己表出という言語自体の自己運動のようなものを信じる必要がある。

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5.「言語にとって美とは何か」を巡って(3) Back  BACK

先の、言語の自己表出という転倒を、もう一度別の角度から考えてみたい。 この著作の元になった「試行」での連載が始められる直前に書かれた「詩とはなにか」の小論の中では、それは本著作の構成論の第一部に重なるものだが、言語の自己表出という概念はまったくみられず、意識の自己表出でほぼ統一されており、注目すべきは、意識の自己表出に混じって自己表現という記述が散見され、意識の自己表出とほぼ同じ意味で使われている。そして、本著作の中核部分である芸術表現としての言語の考察に当たっては、自己表出を自己表現と読み換えてもさして変わらないように感じる。実際、私自身がそうであったように、そのように読まれてきたのではないだろうか?ところがこの自己表現という記述は、本著作の終わりの方の総括的部分に当たる、文学の価値にかんする定義の周辺に突飛にしか出てこない。つまり慎重に避けられているのだが、'自己表現'が人間の自己意識の対自的な自己表出と分かちがたく結びついているため、言語の自己表出という転倒の意義を失わせてしまうからだろう。憶測を重ねれば、言語自体の自己表出という着想を得て「詩とはなにか」の小論にあったモチーフを、言語芸術を包括する形で言語そのものから原理的に一貫して全面展開できたのだろう。しかし、論理が強いたバイアスも大きかったように思われる。

氏が自身述べているように、吉本言語論はマルクスの思想を下敷きにしていることは明らかである。狩猟人による言葉の始原の記述は、氏の把握によるマルクスの自然哲学である疎外概念の適用であろう。私は氏を通してしかマルクスもヘーゲルも知らないが、下記のような記述をみると、言語自体の自己運動というような観念は、ヘーゲル的なものをマルクスを通して引き継いでいるように思えてならない。

ヘーゲルの個人から全体にわたるすべてのことについて展開していった「意志論」の全体系にたいして、マルクスはたいへんな敬意を表しました。全部、考察の対象としてのこしたわけです。ただ、自己意識の発現したものがこの<世界>で、その<世界>が究極に到る絶対的具現へむかう過程が、人間の歴史のすべてなんだというヘーゲルの基本的な観点は、マルクスにいわせれば逆立ちしたものでした。つまり人間の歴史にとって基本的なのは [世界] の精神的な実現過程などではなくて、物と物あるいは自然と人間との関わりあいの発展、そこから人間だけがつくっていった社会というものの展開過程であって、観念の過程はそれにたいして第二次的なものなんだとかんがえました。 --------- 「言葉という思想」

下記の<歴史>を言語に<普遍者>を言語の自己表出に置き換えれば、吉本言語論の構えにそっくり重なる。

<歴史>をあつかうばあい、ヘーゲルはまず、― ぼくもそうですが ― <無限者><普遍者>といった理念の側から現実の方へとたどってゆきます。そして<歴史>が時代を超えて実現されていく過程は、普遍的な世界理念が実現されていく過程だとみなされています。これは、人間の現実世界での活動の積み重ねが<歴史> だという考え方と逆で、<普遍者>あるいは理念の側から人間の現実世界での活動をみていくことです。 --------- 「世界認識の方法」

ここでは、転倒の立場について語られているが、その意義については、マルクスの「資本論」の透徹した論理的な転倒への衝撃から確信されたのではないだろうか?「言葉という思想」の冒頭部で、自著(言語にとって美とは何か)の絵解き的な解説がなされており、マルクスの考察した商品の特殊な性質と言語の特性の類似性を述べ、商品が流通するさいの基本的な図式で表された W(商品)−G(お金)−W(商品)の現実的な過程が、資本的な流通過程に入ることによって G(お金)−W(商品)−G'(お金)に転化し、資本主義の根本的な衝動として G(お金)−G'(お金)の本質的な過程を疎外するという、商品を介することで G'(お金)が増えてゆく「資本論」が言及するマジック的な転倒に、言語の謂わば自然形態から芸術形態への転化をそっくり重ねて説明している。「言語にとって美とは何か」と同様、やはり奇妙さは拭えないが、氏の着想の骨格は窺がえる。おそらくそこで、氏の考え抜かれた案内による「資本論」のエッセンスと同時に、氏の言語論に引き寄せられた解釈の不思議な混交を見せられているのに違いない。

マルクスが例示する「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」と「二十エレの亜麻布は十ポンドの茶に値する」は、誰かの手になるものを求めるという人間の交換的な関与によって、それぞれ、ある物(二十エレの亜麻布)が物質的(現実的)な使用価値として価値づけられる自然形態を表わしているが、この二つは本来的には関係が無いにもかかわらず、もし「二十エレの亜麻布」を「一着の上着」にする物質的な使用価値としてではなく、「十ポンドの茶」と等価な価値として求める人間の交換的な関与があれば、「二十エレの亜麻布」に対して「一着の上着」と「十ポンドの茶」とのあいだに等価物としての同等性の関係がひらかれ、「二十エレの亜麻布」は単なる交換物ではなく商品に転化する。「一着の上着」と「十ポンドの茶」は入替え可能で、「二十エレの亜麻布」が等価物となる逆の関係もあるので、商品としてのすべての物は、他の商品に対して等価物の形をとることができる。このように商品は、物質的(現実的)な使用価値としての自然形態と、他の異なったすべての物と置き換わりうる価値の基準(価値本体)にもなり得るという、物質性をカッコに入れられた等価物としての価値形態を二重性として合わせ持つ。
おそらくこの商品の二重的特性をマルクスが導き出した簡潔さに触発されて、言語の意味と価値にわたる二重性を確かな形で着想できたのだろう。ただここで奇妙な感じがするのは、マルクスが等価の形態としているところを価値の基準(価値本体)としていることだ。自己表出と指示表出を言語の価値と意味に振り分けたい予断があるような気がしてならない。

言語が商品の特性に重ねられて考察され、商品の等価表現である「二十エレの亜麻布は一着の上着に値する」というマルクスの文章は、「美しい亜麻布は天使の上衣のようだ」あるいは「天使の上衣だ」のような直喩あるいは暗喩の等価表現に置き換えられる。このとき喩(表現)は、言語の自然形態である<指し示す><伝える>ための言葉の使用性の側面を示すと同時に、「美しい亜麻布」を<指し示すこと自体><伝えること自体>としての無数にかんがえられる他の直喩あるいは暗喩を代償する等価形態のように置かれていることにもなるので、言語(表現)を美的(文学的)な次元に跳躍させようとすると、すなわち喩によって<指し示すこと><伝えること>を意図したときから、言葉の本来的価値である<指し示すこと><伝えること>という自然形態のようなものを離脱しようとする、とされる。そして、

すべての商品が共通にになうことができる等価物としての役割の側面(等価形態)が、ある普遍的な等価形態をもつ商品、等価物としての使用性だけが使用価値であるような普遍商品として、貨幣(普遍的等価形態)によって代置されるように、言語における普遍的等価形態が求められる。

*「二十エレの亜麻布は十ポンドに値する」というマルクスの範例、というよりも普遍的等価形態としての貨幣という概念が、対応を言語に要求するものとすれば、それはすでに存在しているはずであり、また可能なはずであり、けれどそれを具体的にいうことができないようにおもわれます。

*「二十エレの亜麻布は十ポンドに値する」という云い方をかんがえると、目的部にくる物(商品)が消えてしまって、商品でみれば普遍的で抽象的な貨幣になっています。そこでは等価物に共通化と抽象化が同時におこなわれているわけです。この等価物の状態が言語のうえでかんがえられるとすれば、

*さしあたってわたしたちが言葉の<概念>とかんがえているものの本性のなかに、普遍性がめざされうる根拠が潜んでいるといえるでしょう。<概念>自体が普遍性をもつのでなく<概念>の構造のなかにその要素が潜んでいるということだとおもいます。

ここに、転倒された言語の自己表出という概念が産み出される。 そして、上述のW(商品)−G(お金)−W(商品)、G(お金)−W(商品)−G'(お金);(G−G')の転倒に重ねあわすように、一般的言語の指示表出的使用と文学の言語の自己表出的使用の違いが語られる。

*現実形態としてはかならず貨幣があり、商品が売買され、またお金にかえられるという最初の基本過程を確実に踏んでゆきます。しかし本質過程は単にGからG'(つまりお金からお金)へというただそれだけのことです。ここのところで、本質過程(形態)と現実過程(形態)とのあいだに分裂、分離がおこるということができます。この本質過程と現実過程との分裂、分離は<疎外>とみなされます。そして<疎外>ということはそのまま<表現>だとかんがえることができます。

*通常の網の目をなしている言葉は<指し示す><伝える>ために言葉がつかわれ、その過程に美的な工夫がなされることがあっても、よりよく<指し示す><伝える>ことがモチーフの言葉だということになります。これにたいして美的な言葉はただ言葉の価値のために、そして価値増殖のモチーフをもって、はじめから行使される言葉だとかんがえることができるでしょう。この過程は使用価値ではなく、価値そのものなんです。価値の自己増殖ということが自己目的です。<略>ここまできて言葉の表現が文学になっていく基本的な形との類推ができるようになったとおもいます。つまり自己増殖ということがあくまでも本質的な過程であり、これを文学に類推すると、(ぼくは「自己表出」という言葉を使っていますが)文学がなぜ生みだされたのかといったばあい、決して使用価値といったものが第一義的にあるのではなく、価値の自己増殖こそが文学(言語の美)の本質的な衝動なんだということです。

これを「言語にとって美とは何か」と重ね合わせると、言語の現実過程は、現実的環界の必要に応じて様々な対象を指示する通常の場合は、W(<指し示す>意識)−G(言語の自己表出)−W(指示表出的表現)であるが、文学的表現の場合には現実過程は、G(言語の自己表出)−W(自己表出的な指示表出を含む表現)−G'(水準を上げた言語の自己表出)として表れるが、本質過程はG−G'の価値(言語の自己表出)の自己増殖(水準の上昇)であるので、最も自己表出性が極まる詩的表現の場合、<ひたすらある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使する><使用性を喪失するような使用性であり、また普遍的な等価であるような価値表現をもとめる言葉>である<非指示的な、そして非伝達的な>指示表出性がゼロになる<ある普遍的な表出を実現しようとするものだ>ということになる。

「言葉という思想」は「言語にとって美とは何か」より後になって書かれたものだが、既に上記のような見取り図がある程度あって後者が展開されていることは、そのような視点を入れることではるかに理解しやすくなることから、ほぼ間違いないだろうと思われる。言語の意味や価値の定義の<言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語構造の全体の関係である。>や<言語の価値とは<略>意識の自己表出からみられた言語構造全体の関係を価値とよぶ。>というような、言語構造全体が何を想定しているのか理解に苦しむ記述も、上記の観点を挿入することでそれなりに解るようになる気もする。

しかし問題は、なぜ言語における普遍的等価形態が言語概念に既定で含まれる言語の自己表出という自己運動のようなものになるのか?そして普遍的な水準で言葉を行使することがなぜ非指示的で非伝達的な<ある普遍言語を目指すこと>になるのか?前者は、彼方に超越的価値を信憑したヘーゲル的な歴史主義の残滓にマルクスから着想された氏の'ひらめき'が合体したものであり、前者から導かれた後者もまた、「言語の美」への氏の信憑、それは、日常の言語使用と激しく対立する芸術至上主義の言語観の主観性とさして違わないと思うが、それを普遍的に価値付けしようとしたものとして当然に出てくる帰結かもしれない。

ソシュールもまたマルクスの貨幣の分析から言語を考えたが、「言語の美」というような主観的な思い入れがないだけに、結果の主張は、実際はプラトン以来の"イデア"観を尻尾にくっつけた既成の言語観をひっくり返す出来事であったが、ある意味で穏当であった。吉本氏が、言語における普遍的等価形態を、自己表出という歴史を貫く芸術的価値に置き換えたのに対し、ソシュールにおける言語の普遍的等価形態は、共同規範として成立する"ラング"なのではないか?と私は思う。であるなら、言語に価値が考えられるとして、表現(自己表出)が共同化(等価形態)されるに従って自己表出としての価値(使用価値・自然形態)を失なってゆく代わりに、その言語としての価値(普遍的等価形態)を獲得してゆく、と言えないだろうか?言語"ラング"と表現"パロール"は価値として見れば相反し、一元的価値概念(言語の自己表出)で直に結びつける(言語と表現を一体化して区別をつけない)のは、言語表現論としてもやはり無理があるのではないか?

私には、氏の主観的な予断を呼び込む、また別の切実なモチーフが作用していたのではないか?と憶測する。既述した「詩とはなにか」のなかで、

いまわたしは詩についてのある転換のとば口にたっている。予想もしていなかったことだが、自覚的な詩作へというかんがえがときどきこころをかすめてゆく。詩作の過程に根拠をあたえなければにっちもさっちもいかない時期にきたらしいのである。

おそらく、氏の個人的な創作上の悩みに深く関連して、目の前の、現代社会に露出してきた、指示的な意味が解らないにも拘らず何ごとかを緊迫して表わしている表現(詩)を、言語の美(芸術)として根拠づける(価値づける)必要が切実にあったのではないだろうか?そのことは清岡卓行氏の「愉快なシネカメラ」が例示された最後部の所に如実にあらわれている。氏は自己表出性が極まった作品(したがって紛れもなく詩)と手放しで評価するが、場面を表出する言葉に一切の無駄がなく表現としは簡潔でうまいなあとは思うが、展開に指示性が見つけられないため、私にはあっそう、で終わってしまう。正直言って他の所で例示された主観的指示性が濃厚な清岡氏の別の作品のようには詩を感じることができない。吉本氏は、展開の指示性がゼロであることが清岡氏の倫理だ、などと妙な数式で訳の判らない解説をしているが、氏の言語論からする、"ひたすらある内的な状態の等価であるような側面においてだけ言葉を行使する"ことが詩作行為の純粋形態(普遍的な水準での言葉の行使)である、ということを当の清岡氏が真に受けて実践しようとしていたとしたら、一体どういうことになるのだろうか?その嫌疑は、何も清岡氏ばかりでなく、'70年前後の社会情勢のなかで、根底的な変革思想として吉本思想を崇めた(あるいは早とちりに勘違いした)いわゆる"現代詩"の詩人たち総体に濃厚にあるのだが。問題は、それは本当か?と問う者がその後誰も現れず、秘教的な芸術‐詩概念の高みから、いまだに素朴な表現者を惰性的に威嚇している状態が、放置されたままにあることである。

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