[5]夕方見た風景
9月12日・夕方




 夕方になると賑わう通りを、歩いた。
どこかから、チャイムの音が聞こえてきて、今日はとても夕方という感じが強い。
通りの天井にある時計は四時半を指していた。
別に狙って買いたいものがあるわけでもなく、あたしは本当にぼんやりと歩きながら、考えていた。

あたしは、何のためにいるのだろう?
誰かと会った後はいつもそう思う。誰かと会うときは自分が自分であることがとても重要になる。あたしがいなければ、会話も、何も生まれてはこない。
けれど、一人でいるときは?
<何のために、なにをしようとしているの?>
そんなことを考え始めると、怖くなる。力が抜けたような気がする時がある。
一人で歩き、知らない人の中を縫ってゆくのは、とても、奇妙な気分だ。すれ違う人にはみんな<生きる目的>なんてものがあるんだろうか?馬鹿げているかも知れないけれど、あたしはとても不思議な気分になる。
家に帰ろうとしている人、誰かと待ち合わせている人、買い物に急ぐ人。
人の数だけ、この商店街には意識が流れている。
けれど、あたしは?
買い物をするわけでもないのにかごを下げて、家に帰ろうとしているわけでもなく、どこかへ出かけようとするわけでもなく、約束も抱えず、ただ、歩いている。
なにやってるんだろう。
あたしは時々、自分だけが空っぽのような、ぼんやりとした劣等感を持つ。
あたしは、何もせずに一人でいるのが、時々とても下手だ。

家には帰りたくなかった。
誰かに会いに行こう、ぼんやりとそんなことを考えたけれど、誰にも会いたくないような気もしていた。ぐしゃぐしゃに矛盾していた。
誰かとひょっこり会えないかなあ、なんて虫のいいことを考え始め、あたしは頭を振った。だめだ。こんな気持ちで人とは会えない。

その癖になんとなく足が向いて、あたしは宗谷さんの家に向かっていた。
本当に矛盾していると思って、少しだけ笑えてきた。
宗谷さんはふしぎな人だ。
ダメダメで、しようがない人なのになぜか、頼ってしまうのだ。こういうときにはいつも、気持ちの中に滑り込んでくる。ずるいと思うこともあるけれど、憎めない。
そんな人だ。
そういえば、前にもこんな時があったなあ、なんてあたしは思い出していた。
あれはいつだっただろう、初めてみっちゃんが振られた時だったろうか?
なんにせよ、かなり昔の話だ。
宗谷さんの家に行くこと自体はそんなに珍しいことではない。あの人に一人で生活できる能力はないからだ。
けれど、こんな風にふらふらと訪ねていくことはもう、殆どない。
あたしはあの頃のことをほんの少しだけ懐かしく思い出した。
あの頃とはいろいろなことが変わった。そう、変わってしまっている。
変わってないのは、多分、宗谷さんぐらいのものなのだろう。
うらやましいような、くやしいような、微妙な気持ちであたしは回向ビルの階段を上った。
宗谷さんの部屋は、三階にある。

暗い階段をのぼりきり、ドアの前で息を整えた。
手を伸ばしたノブはがちゃりと音を立てて簡単に動く。
鍵がかかっていないのはいつものことだ。
「おはようー」
あたしは小声でドアを開け、内側を覗き込んだ。
電気はついていないけれど、窓は開いているみたいだ。アーケードの照明が差し込んでいるのが見える。
ああ、起きてる。
あたしはどういうわけかほっとして足を踏み入れることにした。
「宗谷さん?いるんでしょ?」
少し大きな声を出してみると、くぐもった返事が返ってくる。
なんと言っているのかうまく聞き取れないけれど、確かに宗谷さんの声だった。
「宗谷さん、トイレ?」
奥まで入っても宗谷さんの姿は見えない。あたしは、宗谷さんがトイレから出てくるのを待とうと思って、窓枠のところに腰掛けた。

宗谷さんの部屋は空っぽだ。いつもそう思う。
家具がなくて、だだっ広い。生活感がないというのだろうか。
この間、この部屋を表現する一番適切な表現を見つけた。
<引っ越した後の部屋みたい>
そしてあたしは、美月が引っ越していってしまった時のことを思い出していた。

美月はあたしに何の相談もなく、荷物を運び出していた。
助手に恭平のバカを呼んで、あたしのいない隙にあらかたの荷物を運んでしまっていたのだ。
あたしが家に帰った時、美月の部屋に残っていたのはベッドだけだった。
そう。このがらんと広い部屋と同じように、ぽつんとベッドだけが、いたのだ。

なんだか決定的に落ち込んでしまう気がして、あたしは宗谷さんのベッドから目をそむけた。
少しだけ照明が暗くなった窓の外を見る。
夕方はもうすぐ夜に変わる。
このあたりは住宅街のせいか、道の感じがとても落ち着いている。赤いレンガが敷き詰められていて、まるで映画のセットのようだ。
いつもこの窓の下に出ているチョコフライの屋台が、今日も出ていた。
屋台のひさしから外れたところに小さな椅子を出して、茶色い髪の女の人が休憩しているのが見える。
あたしはなんともなしにため息をついた。
あの女の人は何を考えているのだろう。
綺麗に足を組んでいてもやっぱり、今日の夕食のことだとか、恋人のことだとか、考えているのだろうか?

そんなことを考えていると、不意にその人がくしゃみをした。
その人は少し恥ずかしそうにあたりを見回して、ふっと上を向く。
「あ」
瞬間目が合って、あたしは思わず声を漏らした。
じっと見ていたのが何だか、見透かされたようで恥ずかしかった。
向こうもかなり意外だったらしく、苦笑いをして、首をかしげていた。
苦笑いは伝染る。
あたしは声を出さずに笑っていた。
全く、反射的で、邪気のない、不意打ちの笑いだった。
女の人が手を振って、あたしも小さく振り返した。

「なにしてるんだい」
くぐもった声が、ベッドのあたりから聞こえて、あたしはそのまま窓から落ちそうになった。
振り向いてもベッドの上には誰もいない。
トイレのドアも確認したけれど開いていない。
「そ、宗谷さん!?」
我ながら、かなり面白い声だった。これだけ慌てている自分の声を聞くのは、かなり久しぶりのような気がする。あたしはつばを飲み込んだ。
「宗谷さん、どこ!?」
少しだけまともな声に戻って、宗谷さんの姿を探す。
「…ここだよ」
声と共に、ベッドの下の方で何かがごそごそと動いた。
「うっわあ!」
あたしはそれを見て、気絶しそうになる。宗谷さんの首が、ベッドの下から生えていたのだ。
「なななな何してんの!」
あたしは驚きのあまり、少し的外れなことを言った。
「何してるって…出るタイミングをなくしてたんだよ」
「はあ?」
「だからさ、驚かしちゃいけないと思ってさ」
「……」
あたしは言葉が出ない。
よく見ると、(当たり前だが)宗谷さんの首は地面から生えているのではなかった。
どうやらベッドの下に潜っていたらしいのだ。長めの黒い髪に、少し埃がついている。
まるで大人らしくない。
笑うよりも、怒るよりも、呆れるよりも、何よりあたしは空っぽになっていた。
地面からあたしを見上げる宗谷さんの顔を、じっと見る。
こんな時まで、宗谷さんの顔は整っている。おかしい。
「僕に何か用かな」
そのままの体勢で、這い出そうとする努力もしないまま宗谷さんは言った。
「そ、宗谷さんこそ何してるのよ!」
あたしは、戸惑い、大きな声を出した。
声が震えている。自分が笑っていることに気付いた。
「ちょっと…もう…」
あたしは、自分が笑いの衝動に支配されていることを、はっきりと認識した。
おかしくてしようがない。あたしは笑い転げていた。

ベッドの下から顔を出している宗谷さんの情けない姿。
決まり悪そうだったチョコフライのお姉さんの顔。
落ち込んでいたあたし。

おかしくてしようがない。涙さえ出てきていた。
笑いが収まってきた頃、宗谷さんはもう一度口を開く。ベッドの下からあたしを見上げて、埃を髪につけたままで。
「だから、何の用さ」
あたしは涙をぬぐう。
窓の外をもう一度覗くと、あの女の人は見えなくなっていた。
仕事に戻ったのだろうか。椅子だけが出してあるのが見えた。
あたしは深呼吸をした。
チョコフライの香ばしい匂いが漂ってきた。きっとさっきの人が、揚げ始めたのだ。
なぜだかあたしは、急に自分を取り戻したような気分になった。
昼間、人といる時にこんな気分になるのはとても久しぶりだ。

<何のために生きてるの?>

そんなこと、もう、聞かなくても大丈夫。大丈夫でしょう?あたしは自分に言った。
「…マコト?」
宗谷さんがちょっとだけふしぎそうな顔をする。
「うん」
あたしはうなずいて立ち上がった。
「宗谷さん、チョコフライ食べたくない?」
あたしは言った。

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