私は人を殺したことがある。
と、思う。
正直な話、私自身にもよくわからない。
いつ、どこで、だれを、なぜ。
どれ一つ答えられないけれど、私は確信する。
いつか、どこかで、だれかを、なぜか、殺した。

私は女と暮らしている。
女の顔にあまり見覚えがないが、一緒に暮らしている以上、私の妻か何かなのだろう。
私は毎朝彼女に見送られて、どこかへでかけてゆく。
白楽の駅から毎朝、東急東横線で横浜方面の電車に乗る。
たぶん、私は会社に行くのだろう。

私は色々な人間に会う。
どうやら私は高い立場の人間らしい。色々な人間が私に深々と礼をする。
その無防備に差し出された後頭部と背中を見るたび、私はそこへナイフを突き立てる感覚を思い出す。
私はしばしば、あるはずのないナイフを握りしめようとして、そんな自分に驚くことがある。
振りかぶり、振り下ろす。
深々と、チーズケーキを切り分けるように突き刺さるナイフ。
力を失う身体。流出する命。
私の手によって死んでゆく人を見る感覚だけは、そう。
生々しく思い出せるのだ。

一緒に暮らしている女のことを嫌いではなかった。
馴染めない女だが、やさしい女だ。
私は、けれど、女が私に尽くしてくれるのを眺めながら、彼女を殺す機会を探している。
殺さねばならない理由など何一つ存在しないのに、私は彼女を殺すことをいつも考えている。
「晩御飯は何にしましょうかねえ」
女は台所に立ち、私に背を向けてつぶやいた。

「なにができるんだ」
私は言った。白い居間の中に不思議な静けさがみちる。
「鍋物、でしたらできるんですけれど」
「じゃあそれにしたらいいだろう」
私は女の言い方に、いやな感じを覚えた。
私がそう答えることを知った上で女は問い掛けている。
何だか言いようのない卑怯さを、私は感じた。

夕飯は女の言ったとおり、鍋だった。
卓上コンロの上に、煮えた鍋がのっていた。
「なんだ、蟹か」
私は理由もなく不快になった。
真っ赤にゆであがった蟹は、鍋から足をだらりと垂らしてぐつぐつと唸っていた。
「熱いですからね」
女は言いながら、私の前に飯を持ったうつわを置いた。
拍子に箸が転がり、女はそれを拾うためにその場に少しかがんだ。

食卓の上には、蟹の足を断つための鋏が無造作に置かれていた。
女を殺す機会。
私は懐かしみを込めて鋏をにぎった。
私は振りかぶり、振り下ろした。
女の首に、鋏はかなりの抵抗を私の手に伝えながらも突き刺さった。
女は首を横に曲げて私を見上げた。女は無表情に死んでいた。
びゅっと音を立てて女の首から血が吹いた。
女は床に崩れてしばらく動いていたが、やがて血の流出とともにその動きも止まった。

「違う」
私はつぶやいた。
「こうじゃない!」
私は叫んだ。
女を殺す感覚は、私が覚えていたものとは違っていた。全く異質のものだった。

ぐらぐら煮立ったなべの中で、蟹の足が、わずかに動いた。

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