[2]


日も傾き、暗い色で染められた廊下を一人歩く。
ぺたぺたと、しまらない俺の足音が響く。
長かった説教も終わり、ようやく時間は放課。

昼間の剣道部員を思い出していたら、代りに軽田ミヤコの顔が浮かんできた。
また喧嘩するのォ?と、にやにや笑う顔が、ぽかんと浮かんできた。
馬鹿な、と俺は呟き、急いで軽田の気に食わないところを思い出そうとして、そして途中でくだらなくなって止めた。
わざわざ嫌いなところを数えないと不安になる女がいる、ということに俺は戸惑った。
俺は目を上げて昇降口から外を見る。
冗談じゃない、と俺は口の中で呟いて靴を履いた。
長閑過ぎて苛つく緑色をした山が見える。
その向こうの夕陽が、俺の目を刺した。

校舎を出て一瞬気を抜くと、あのッ、と脇から女の声が飛び出してきた。
あまりの不意打ちに、俺は飛びのくことも出来ずに固まる。
髪の長い、小柄な女だった。襟章が青い。一年生か。
一瞬目が合うと、あの、と上ずった声で一年生は、手裏剣でも投げつけるような速さで俺に封筒を突きつけた。
草の模様が端に印刷されている、緑の封筒だった。
呆気に取られていると一年生は、これ、と掠れた声を出す。
ちらりと目が合うと、怯えたような顔をした。
ちょっと、と俺が言うのを塞ぐようにずい、と封筒が突き出される。
気圧されて受け取ると、一年生はまるで警戒するように俺のほうを見ながら後ずさり、くるりとひるがえって走っていった。
長い髪が角を曲がって見えなくなってようやく、俺は誰もいない砂埃に口を滑らせる。
なんだよ、ラブレターかよ。

歩きながら封筒の端を切っていると突然、見たよォ、と勝ち誇ったような声が降って来た。
驚いて見上げると、横の桜の木の上から軽田ミヤコが俺を見下ろしていた。
今、一年生の子に手紙貰ってたでしょう。
軽田は幹に寄りかかりながら生意気な声を出した。
何故か慌てて俺は手紙を隠す。
い、い、な、あー、とわざとらしい声で軽田は足元の枝をぎしぎしと揺らした。
揺れるスカートの裾が危うい。
お前、と俺は呆れて声を出した。
お前、なんでそんなところにいるんだ。
きみを待ち伏せしてたのよ、と、こともなげに軽田は笑う。
嘘つけ。
いつもどおりの台詞を吐いて、俺はなんとか体勢を立て直す。
桜の木は折れやすいから、登っちゃいけないんだぞ。
それは柿の木のことでしょう?
軽田は言い返しながらするすると降りてくる。ひどく大人びた声だ。

途中から、よ、と飛び降りて軽田はスカートの裾を払った。
そういや村上くんって、よく見ると顔いいもんねえー。
なんとなく引っ掛かる言い方で俺の顔を見る。
うるせえな、と歩き出すと背中で軽田のくすくす笑いが聞こえた。
…村上くんって本当、男の子、って感じだよね。愉快だ。
すぐに追いついて軽田は馬鹿みたいに鞄を振ってにやにや笑う。
俺はまた、居心地が悪くなる。軽田といると居心地が悪い。
下らないこと言うな。
照れないの。
それっきり俺は黙り、軽田も黙って歩く。

道はすでに校門を抜け、田舎臭い田圃道に差し掛かっている。
日陰を造るもののない道。
振り返れば学校までの平坦な道が、真っ直ぐ伸びているのが見えるだろう。
歩いても歩いても遠ざからない校舎の時計塔を背負いながら、二人はまだ暑い夕方を歩く。
蝉の声は、少しだけ遠ざかって、地面が熱くなってじりじりという。
辺りに人はない。

ねえ、手紙読まないの?と、軽田は不意に言った。
読んだらお前覗くだろう、と返事をすると、見ないわよ、と本当に興味のなさそうな声で軽田が横を向く。
嘘だと思ったけれど、もう、仕方がない。
俺はそのまま歩きながら鞄から緑の封筒を取り出す。
同じ色の便箋からは意外な文字が目に飛び込んできた。

<私を、助けてください>

あァ?と俺は思わず小さく声をあげた。
そっぽを向いていた軽田がぐるんとこっちを向く。
どうしたのよ、とまるで生徒に接する教師のような口調で軽田はあごを上げた。
そのまま、すい、と顔が近付いて来る。なんだよ、と言いかけて俺はやめた。
覗かれるままにして、続きを読み進む。
ちょっと、と軽田が呟く息がかかる。
手紙は、ラブレターなんかではなかったのだ。

おいお前!

またもや突然だった。
甲高い男の声に、俺たちは振り返る。
そこにはシャツの胸をはだけた三年生が立っていた。
そいつに見覚えがなかったので軽田の顔を見る。
責任を押し付けるように軽田も俺のほうを見返してきた。
誰?と尋ねるように軽田は眉をひそめる。
お前や、お前ェ。
三年生は俺を指さした。言葉の端にすでに臨戦的なものがあった。
いやだなあと思い、手紙をしまいながら、なんスか、と返事をした。
<先輩が、どうしても別れてくれないのです>
指先から、手紙の内容が頭を巡る。

しまうなや!

一瞬なんと言われたのか判らなくて、俺は動きを止めた。
この辺の方言かと思ったのだ。
少し経ってようやく、手紙を鞄に入れるな、と言うことだと理解する。
…なんなんスか。
訳がわからないながらも、俺の中にようやくアドレナリンがくすぶり始めた。
手紙を鞄に入れて、鞄の口を閉める。
しまうな、言うとろうが。
だから、あんた誰スか。
それ、フナバシミチルからもろた手紙やろが。
…だったら何だっていうんだよ。

手紙の署名を思い出す。
難しい漢字だったが、あれはミチルと読むのか。
ゆっくりと話が飲み込めてくる。
俺は目の前の三年生の動きを窺った。
昼間の坊主より、背がでかい。喧嘩になったらやばいかも知れないと思った。

三年生は苛々したように後頭部を掻いて、見せろや手紙!と叫ぶ。
ミチルが俺の女やって知らんわけやないやろうがァ!
目の端で、軽田が大声にぴくっと身体をすくませるのが見えた。

うるせえなあ。
俺は短く言って鞄を軽田に放り投げた。
間髪いれずに、鞄に目を取られた三年生の股間を蹴り込む。
少し逸れた。
三年生はよろめいただけで俺の足を掴む。
もう、仕方ない。
俺はそのまま体重を預け、倒しに入った。
これは負けるな、と気持ちのどこかで、他人事のように思った。

体重を乗せきれなかった。
三年生が俺の足を振り回すようにして、体勢を保った。
俺だけがバランスを崩す。
昼間、坊主に殴られたところと同じところを殴られて、ぐらりと来た。
後は、もう、形無しだ。
一方的にぼこぼこと殴られて、じきに手が出なくなる。
また口の中が切れた。
倒れ、俺は大きく息を吸った。埃と血の味がした。
はあはあはあ、と、ひどく荒い息遣いで三年生が俺を蹴りつける。
お前、
調子に、
乗るんやないぞ、
一言ごとに、鋭く爪先がめり込む。
ちょっと、と悲鳴のような軽田の声が聞こえた。

もういいでしょう、やめてよォ、と、軽田が大声を出した。
蹴りが止まり、俺は顔を上げた。
三年生が俺に背中を向けている。今背中から襲い掛かれば勝てるかもしれない。
けれど立てない。力が入らない。

お前、こいつと付き合っとるんかよォ。
挑発的な声で三年生は軽田のほうへ歩いてゆく。
馬鹿、鞄持って逃げろ、と俺は叫びかけた。咳しか出ない。
軽田は二、三歩あとずさって、強気な顔で首を振った。
よこせ、と三年生が鞄に手を伸ばす。
鞄の引っ張り合いに負け、突き飛ばされて軽田は尻餅をついた。
痛い、と軽田の声も空しく響くばかり。

乱暴に手紙を取り出して鞄を放り投げ、三年生は病的な目つきで手紙を読んだ。
読み終わって奴は、あの女、と呟きながら目を四方に泳がせた。
そして俺を、そのままの目つきで睨む。
ミチルは俺の女やけん。手ェ出したら殺すけんの、村上センパイよォ。
高い、嘲るような声が耳に残る。手紙の中で俺は村上先輩と書かれていた。
三年生を、俺はきつく睨んだ。
ミチルにも一遍きつく思い知らしたらんとならんよな。あの女。
笑いもせず、俺のほうすら見ずに三年生は言って、つま先でもう一度俺を蹴った。



荒く息をつくだけの田圃道。
三年生はそのまま興奮した様子で、あの薄緑の手紙を持ってどこかへ行ってしまった。
たぶん、あのミチルとかいう一年生をぶん殴りに行くのだろう。
俺は再び仰向けになり、額に手を当てた。手の甲に土がべったりとついていた。
顔につくのを気にもせず、俺は甲で額を拭う。
体中が痛い。
きっと明日は痣だらけだ。
畜生。
今日は激動だ。
きれぎれに、そう思った。

道の反対側から軽田がとぼとぼと近寄ってくる。
ごめん、手紙、とられてしまったよ。
いつになく神妙に言いながら俺の鞄の埃をはたく。
俺が体を起こすと、軽田は俺の背中に回った。
土を払うように、ばさばさと背中をはたく。
肘、血ィ。
軽田に促されて肘を見ると血が伝って赤黒くなっていた。
倒れた時に切れたらしい。
背中からハンカチが突き出されたので、素直に受け取る。
無性に悔しかった。
軽田も、それっきり黙ったまま俺の背中をはたきつづけた。

手紙の内容が、断片的に頭に浮かぶ。
<先輩が別れてくれないのです>
あの一年生の顔も、すでにはっきりとは思い出せない。
<殴られるので怖くて>
いつのまにか油蝉の声が止まっていた。
<誰にも相談できなくて>
見通しのいい、辺りの風景は夜へと向かっている。
<大吠駅跡で、今夜七時>
どうして俺なんだ。
<待っています。船橋 路瑠>

軽田の手を払って、俺はもう一度体を倒す。
びっくりしたように軽田が俺を見た。俺は黙って染まる空を見上げた。
そして顔も思い出せない一年生のことを考えた。
どうして俺なんだ。
どうして手紙を出す相手が俺なんだ。
俺に、何を期待しているって言うんだ。

横で軽田が、ぼそりと呟く。
今の人、船橋さんって子、殴るのかな。
軽田らしくない、感傷的な言い方に俺は苛つく。
殴るだろ。しばらく学校こられないような顔になるくらいまで殴るだろ。
投げやりに言うと、軽田は俺を睨んだ。
あたし、女の子が殴られるのって、嫌いよ。
当たり前だ。
俺は怒鳴るように言って、体を起こした。

気持ちに収拾がつかなくなってきていた。
じわじわと、何かをしなければ収まりのつかないような気持ちが、俺を満たしはじめている。
この感情が怒りなら、何もないと思っていた自分の中にも、怒りだけはあるということに気付いた。
何も出来なかった自分に対する怒りなのか、何なのか、俺には判別できなかった。
それでもいいと思った。この衝動に突き動かされてみよう、と思った。

そして俺は宣言する。
ここまで巻き込まれたら、放っておくわけにもいかねえじゃねえか。

続く

目次へ