射線と殺意と火蜥蜴のこと。

 僕は、自分が射手には向いていないことを知っている。
できるものといったら、せいぜいハンターの真似事が関の山だ。
 でも仕方がない。不相応のものは望んでもしかたがない。
矢をつがえ、それを射ることだけが、僕の仕事なのだ。

 熱くなりかける神経を抑えて、僕は弓を引き絞る。
射線上に意識が飛ぶ。
ぎゅうん、と音が聞こえるくらいに、僕の意識は矢の軌道を描いて飛ぶ。
 無言のままそれをトレースして、僕は矢を放った。
ぶつん、と意識の後を追うように、音を立ててそれは火蜥蜴の脇腹に突き刺さる。
 苦悶の咆哮。
驚いたように、火蜥蜴と対峙していたセイリングフォースがこっちを振り返る。
 あんな大きい的、この僕が外すわけはないじゃないか。
僕は一歩飛び退って、次の矢をつがえる。

 あれは、どこの村だったか。
名前は忘れたが、何とかという村で、山の主だという猪を射った帰り道のことだった。
街道の旅館に宿を求め、僕は仕事を終えた休息を取っていた。
 相部屋の、ごそごそした闇の中、僕は目をつぶって、この三日間のことを思い出していた。

 昨晩に僕が殺した猪は、体が牛くらいもあった。
ひょっとしたら本当に山の主だったのかもしれない。
雇われている夜の間中、僕はその猪の息遣いを聞いていた。
 仕事はきっかり三日かけた。
一日目と二日目は、弓を持たずに、ただ彼の息遣いを聞いて時間を過ごした。
猪の息遣いは、単純にやさしく、僕はそれを聞くためだけに木の上に座っていた。
三日目も、それまでと同じように、それはとてもやさしく、神々しく、響いていた。
 まるで土を慈しむような、大猪の鼻息。
僕は前二日間と同じように、身を潜めたまま、彼の行動を見ていた。
いや、正確には感じていたという方が正しいのだろう。あたりは真暗で、何も見えなかったのだ。
そして、彼が僕を安全であると認め、完全に無防備になった瞬間に、彼の鼻先に矢を放った。
 たった一本の矢で、牛くらいもある大猪は死んだ。
どう、と倒れる音がして、僕は彼が死んだことを知った。

 朝になって、猪の死体を確認した雇い主は大仰に驚いてみせた。
これで作物が荒らされないで済む、と僕の手を握る雇い主の横で、雇い主の娘は一言もしゃべらず、僕のことを睨んだままだった。

 この農場を訪れた晩に彼女と話した。彼女は、猪は私に会いに来るの、と言っていた。
最初の夜、ただ猪の息遣いを聞いていたことを、僕は彼女に告げた。
素敵だったでしょう、と彼女は微笑み、素敵だったと僕は答えた。
きっと彼女は僕より、はるかにたくさんの夜を、彼の息遣いを聞きながら過ごしたのだろう。
大猪の息遣いを語る彼女は、とても嬉しそうだった。
 なのに僕は不意にやってきて、たった三日でその猪を殺してしまったのだ。
言い訳をする余地もない。
 ただ僕は、僕を睨む彼女の、肘のあたりを見ていた。
雇い主が僕の手を離すと、彼女は僕から目をそらし、家のほうへ走っていった。

 帰り際に少しだけ彼女と話した。
「軽蔑するわ」
 納屋の横で僕を待ち伏せて、彼女は言った。
僕は何も言わなかった。
「生き物を殺すとき、何も感じないの?」
 彼女は僕の通り道を塞いで僕に詰め寄った。
「仕事だから、で済ませるの?」
 僕は彼女の眼を見た。少し考えて、僕は答えた。
「いつだってかなしいよ」
 本当だった。
猪を殺したことに後悔はしていない。けれど、とてもかなしかった。
いつだって、けものを射つのはかなしい。
 彼女はぐっと僕を睨み、黙った。
僕は彼女に目で礼をして、歩き出した。彼女の脇をすり抜けて、歩き出した。
「…男の人は殺してばっかり!」
 僕の背中に彼女の声が刺さった。

 どこかで猪の鳴き声が聞こえたような気がして、僕は目を開けた。
目をひらいて僕は、自分の手を見つめた。
あの夜、真っ暗な中だったのに、僕の目ははっきりと猪をとらえていた。
意識が矢に乗る瞬間。射線が開ける瞬間。
 僕は、自分の手を見つめた。
闇を切り裂く死を放つ、僕の罪深い両手。
この程度の闇で、自分の手すら見えないというのに。

 不意に大きな音を立てて、壁が破られた。
何かが壁を破って、突っ込んできたのだ。
僕は傍らに立てかけてあった荷物を掴んで、壁際に転がった。
 事態を見極めようと目を細めた瞬間、閃光が走る。
部屋の向こう側の隅で、人が火に包まれてもがくのが見えた。
 相部屋で眠っていたのは、あと何人か。
あたりを見回す余裕もなく、部屋内が炎に包まれる。
走って部屋を飛び出す合間に、ちら、とだけ僕は突っ込んできたものの姿を見た。

 大きな、黒いけものだった。

 セイリングフォースが火蜥蜴にのしかかられているのが見えた。
今なら頭を射抜ける、と僕は思った。
 矢をつがえ、僕は火蜥蜴の左目を狙う。
攻撃から身体をかばうセイリングフォースの脇腹を掠めて、僕はもう一度意識を飛ばす。
 そして矢を放つ。
一拍遅れた矢が、意識の軌跡をトレースして、吸い込まれるように火蜥蜴に突き刺さる。
すこしずれた。

 ばつん、と鈍い音。

 矢が火蜥蜴に突き刺さると、大きくセイリングフォースが身体を傾けた。
もう一度彼はこっちを振り向く。
何か叫んだようだったが、火蜥蜴の咆哮にかき消されて聞こえなかった。
射抜けなかった。矢は魔獣の硬い筋肉と頭蓋骨に阻まれて、脳にまでは届かない。

 あたりに広がる炎を、顔の左半分で感じながら、僕はさらに矢をつがえる。
頭の中が真っ白になる。
突き刺さる矢こそが、僕自身だ。
力の限り速さを求めて、ただ、突き刺さる。単純で、考える余地のない美しさ。

 宿がけものに襲撃されたその翌朝、僕は火に包まれた人が死んだことを知った。
それを僕に知らせたのは、相部屋の二人組だった。
片方はセイリングフォースで、片方はアルガーの神官だという話だった。
けものを見たか、と尋ねられて正直に見たと答えると、住所を聞かれた。
官憲と揉めて面倒なことになるのは嫌だったので、それも素直に答えた。
黒いけものの話をするとき、二人は心なしか、青い顔をしていたように思えた。

 ひとつの仕事を終えると僕はしばらく、ただ無為の生活を送る。
南地区にある、自分の古い家に帰り、一日中寝転がって、天井を見て過ごす。
本当に無為な時間だ。
何を考えるわけでもなく、ただ、腹がすかないように、死人のように過ごす。

 すみません、と陰気にドアを叩く音がしたのは家に帰った翌朝のことだった。
入ってきたのは前の日に出会った若いセイリングフォースだった。彼はウィルと名乗った。
名乗るなり、彼は単刀直入に要件を告げた。
先日の、黒いけものが僕を襲う可能性があると、彼は言った。
 どうして、と尋ねる僕に彼は答えた。
「あのけものを見られては困る人が、いるのですよ」
 僕はそのけものの正体を知らない。ただちらりと見ただけだ。
その通りのことを僕は告げた。同じことだと言われた。
もしもう一度あの晩のけものを見たリ、襲われたりしたら、教えて欲しい、と言われた。
よく意味が飲み込めないでいる僕に、彼はセイリングフォース内での自分のアドレスを示した。
仕方がないので判った、と返事をして、僕は彼を見送り、もう一度横になって天井を見上げた。
腹が減った、と思った。
僕は窓から吹き込んできた桜の花びらを、一枚くわえた。
 腹がみちるはずもなかった。

 午後になって、ギルドから連絡が入った。
名指しで僕を雇おうという奇特な人物が現われたらしい。
報酬も、それなりに破格。
仕事の内容は、魔獣の退治。今度は単独ではなく、チームを組むらしい。
センジュ道場というところで今晩、チームの一行と合流してほしい、とのことだ。
 僕は少し悩んだ。魔獣なんて見たこともない。
それになぜ、数居るハンターの中で、僕が指名されたのだろう。
少しだけ悩んだけれど、僕に悩む余地は残されていなかった。
 僕には金が要る。
それだけは確かなことだった。自分が食べていく分だけならば構わない。
けれど、僕には大事な役目が残っているのだ。
 僕は荷を解き、弓に油を塗った。
僕は殺す。そして金を受け取る。それが僕の仕事なのだ。

 ギルドから指定された道場は、いわくありげな佇まいの建物だった。
半猫の小間使いに案内された広間には、道場主らしい老女に、魔術学園の魔術師やらアルガー司祭、先日のセイリングフォースや神官がすでに集まっていた。
 以前、他のレンジャーとチームを組んで山狩りをしたことがあったが、その時に感じたものとはまた、違うものを感じた。
ぴりぴりと、そこまで張り詰めたものは感じない。
けれど、これだけの人数でチームを編成するということは、それだけの相手なのだろう。
正式な僕の雇い主となるらしい、シールという名のアルガー司祭が、一行に僕を紹介する。
セイリングフォースと神官が僕を見て、手をあげた。
僕は少し戸惑い、彼らに低く挨拶をして部屋の隅に座った。
 弓を抱えて座り込んで、僕はようやく、その二人がいるという不自然さに気付いた。
そして、僕が殺すべき魔獣が、先日出会った黒いけものだと言うことを知った。

 座っていると、あ、と、少女の声が背後から聞こえた。
声の方を振り向くと、そこにいたのは数年前まで近所に住んでいた少女だった。
魔術学園に進学してから、すっかり姿を見せなくなっていた少女だった。
僕は名前を呼んで挨拶しようと思い、彼女の名前をはっきりと覚えていないことに躊躇って、少し口篭もった。
 かなえです、と彼女は名乗った。
「ああ、ノゾミ、カナエ、タマエ」
「そう。そのかなえ」
 彼女は頷いて、少しつま先立つようになった。

 ノゾミとカナエとタマエの三人組は、姉妹ではなかったがとても仲が良かった。
僕は一時期、三人組の一人であるノゾミに弓と矢の使い方を教えていた。
その頃に、何のついでだったかは忘れたが一度、ノゾミに彼女たちのことを紹介されたことがあった。
けれど、ぼんやりと顔を覚えている程度でしかない。
大人っぽくなったね、とも、美人になりましたね、ともいえない。
「君も、魔獣の討伐を?」
 仕方なく小さい声で尋ねると、誇らしげに彼女は胸を張り、主役でね、と頷いた。
僕は彼女の顔を見上げながら、よろしく、と、また、小さい声で挨拶をした。
今ごろノゾミはどうしているだろうか。僕はぼんやりと考えた。彼女は覚えの良い生徒だった。
彼女も、けものを殺す仕事についているのだろうか。
ノゾミが今何をしているか、聞こうかと思ったけれど、結局やめた。

 彼女が僕に背を向けて、火の周りに集まる面々の方へ歩いてゆく。

 だまって部屋の隅で、皆の話に聞き耳を立てていた。
そのけものの正体は火蜥蜴であろうという推測。
その火蜥蜴を使役する人間が、一人ならず存在するということ。
確実にその人間が、口封じのために僕たちを襲うであろうということ。
その火蜥蜴が襲ってきた場合の対抗策について。
 僕は火を囲んで続く議論に口を挟まず、考えていた。
ありえない考えが僕を蝕む。
<あの黒いけものは、僕が殺した猪ではないだろうか?>

 …まさか。

 あたりは火の海。
頬が焦げそうに熱い。
どうしてこうなったのか、頭の端で僕は思い出した。
けものは、皆が火蜥蜴の対抗策を練っているその場所に、その最中に飛び込んできたのだ。
あっという間に、あの夜と同じようにあたりを火の海に変え、咆哮を上げた火蜥蜴。
道場にいた人間はバラバラに道場の外へ逃げ出さざるを得なかった。
バラバラに、火蜥蜴を迎え撃つことを強いられたのだ。

「くそッ」
 僕は三本目の矢を、火蜥蜴に向けて構える。
誰かが何かを叫ぶ声がする。
その声は僕には届かない。
意味のある言葉としてではなく、ただの音の羅列としてでしか、響かない。
 もともと僕は一人。僕らは一人。
矢が尽きるまで、僕は射ち続けるだけだ。
「…見てろ」
 僕は片方の膝をつき、力いっぱいに弓を引き絞った。
体が予感で震える。
殺意が僕を満たす。それは恐ろしいほど清廉で、純粋な意思だった。

 あのとき、大猪を射った時もそうだった。
火蜥蜴を殺そう、と思った瞬間僕の中にはそれ以外のすべてのものは、存在しなくなった。
 僕はただ、一本の射線になる。

 火の海の中、弓を引き絞って、僕は火蜥蜴を見つめた。

「おまえは」
 僕は囁くように声を出した。
こんな声では、誰にも、例え隣にいたとしても聞こえないに違いない。
それでも僕は囁くように呟いた。
「おまえは、だれだ」
 火蜥蜴が、対峙するセイリングフォースに前足を振り上げる。
後ろから彼に、司祭と神官が魔法で強化をかけている。
魔術師の姿が見えない。カナエの姿も見えない。道場主は道場の中だ。
 僕は小さく息を吸う。
けものがその大きな斧のような前足を、振り下ろすまでの、その一瞬。

 ぎりぎりと力のかかった右手を、離した。

 びょうと風を切り裂いて飛ぶ、僕の意識。一瞬動きを止めて、火蜥蜴がこっちを向いた。
一瞬視界が真っ黒になる。
届くはずの手ごたえが、どこにもない。
矢の先端に乗せられた僕の意識は、火蜥蜴を通り抜けて、その先の漆喰の壁に突き刺さった。
びいん、と身体に衝撃が走る。
 僕はつんのめるように倒れた。

 一瞬土を見つめ、意識がとんだ。何が起きたのか、理解できない。
意識を引き戻し、頬についた土を払って、僕は再び弓を構えた。
さっきまで火蜥蜴の黒い身体があった場所には何もない。
セイリングフォースが後ろに尻餅をついて、信じられないような顔をしている。
彼の視線を追うと、その先にはさっきの魔術師が立っていた。
 その手から立ち上る、白い煙。
魔術師の前には、誰かが倒れている。失神しているのか、死んでいるのか、黒いローブの、見たことのない人間だ。
少なくとも、魔獣討伐隊の人間ではない。

「アトラス、本を奪え、本を!」
 誰かが叫ぶ声がした。
「魔獣の宿る本!」
 名前を呼ばれた魔術師が振り向いた隙をついて、さらに奥に控えていた別の男が、倒れている黒ローブをさらった。

 めまぐるしく全てが動く。
状況を把握することなんか、できるはずもない。
僕は他のものに目をくれず、ただ火蜥蜴を捜し求めた。
見えないものや判らないものを追うことは出来ない。
僕にあるのは、射線と殺意だけだ。
しかし、もはや火蜥蜴の姿はどこにもなかった。
殺意が投射される方向を見失い、宙ぶらりんにくすぶる。
 僕は咳き込んだ。
「畜生」
 僕は咳を力でねじ伏せ、弓を構えて、黒ローブをさらった男を狙った。
「また、いずれお目にかかろう」
 背負った矢筒に手を伸ばした刹那、男が朗々とした声を上げる。

 そこまでだった。
矢をつがえ、弓の弦を引くよりも早く、男はゆらめいて虚空に消えた。
どうやら転移魔法のようだった。
「……」
 残された僕は膝をついたまま、ゆっくりと弓を降ろした。
残ったのは僕の身体だけだった。
不恰好な僕の身体だけが残り、その中に閉じ込められた清廉な殺意が、どろに沈むように濁っていった。
僕は火の海の中、ただ、男が消えた中空を、見つめていた。

つづくかもしれません。
いや、続かないかなあ。いや。いや。

無駄後書へ

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