高度二千フィート。
飛び立ってからすでに一時間を経過。
あたしはユニットの中で寝返りをうって、違和感に気付いた。
制服のままじゃ色々具合が悪いだろう、とトオマワリが貸してくれた赤いフライトジャケットのポケットに何か入っているようだった。
大きいものではないけれど、なんだかごわごわしている。
あたしは唸って、それを引っ張り出した。
入っていたのは、何かのキーホルダーらしかった。透明なプラスチックのキューブの中に、人間の歯らしきものが固められているのが見える。
そこから伸びた鎖の先には一つだけ、家の鍵だろうか、とにかく鍵がぶら下がっている。
いっぺんであたしは気持ち悪くなり、うんざりした声でトオマワリに回線を開いた。
「ちょっと、ねえ、鵜飼さん聞こえますかドーゾ」
ややあって、トオマワリが返事をする。
「音声クリア、何かトラブルでもあったか?ドーゾ」
「貸してくれたジャケット、誰のものよ。新品だって言ってなかった?」
「いや、新品のはずだけどなァ…。ちょっと待ってろ」
インカムの向こう側でトオマワリが席を離れる気配がした。
しばらくあって、戻ってくる気配。
「いやあ、悪い悪い、それ、俺のだ。隣にあったから間違えたみたいだ」
「うええ」
あたしはうめいて舌を出した。
トオマワリは飛行器乗りにしては清潔好きの方だし、何ヶ月も洗っていないなんてことはないとは思う。別にトオマワリのことをそれほど嫌いなわけではない。
しかし、それにしてもやはり、知らず知らずに他人の服に袖を通していたというのは、すわりが悪かった。
「そういうのをデリカシーがない行為、っていうと思いますドーゾ」
「申し訳ない」
ざざ、とノイズが入って、不意に通信が乱れた。
規則性のある電子音が短く、繰り返しインカムから響いてくる。
「て、ちょっとトオマワリ、何か、変」
あたしは大きな声を出して、ナビを確認した。
現在地の座標を読み上げて、ハッチを開く。
上半身をユニットから出して、あたしは眼下を見渡す。
見渡す限りの森林地帯、このあたりには道路もないはずだ。
「しなり、それ救難信号じゃないのか、ちょっと待ってろ、解析するから」
「了解」
インカムのマイクを下げて、あたしはヒューヴの首を触った。
「ちょっと、高度落として」
鳴き声を高くして、ヒューヴが滑空するように森のほうへ降下する。
インカムでは相変わらず電子音が同じリズムを繰り返している。
にわかに耳元の空気が騒がしくなってきた。
「しなり、それ、軍用の信号形式だ。…随分弱いな、辺りに何か見えないか」
「軍用?」
あたしは眉をしかめた。
軍なんかと係わり合いになるなんて、できれば御遠慮したかった。
両親に知られたら、この生活は全て終わるのだ。
「で、その軍用信号が何だって?」
「救難信号だ、S・O・Sだよ。それ以上でも以下でもない。判りやすく言い換えると、助けてくれ、遭難した、って意味だ、判るか、もう一度言うか」
「うええ」
あたしは無免許の飛行器乗りだ。こういう事態は一番困る。
「ねえ、軍人助けて無免許摘発なんて、笑えないわよ」
「大丈夫、多分、人命救助の功績で、無免許くらいは大目にみてくれるさ」
「多分…?」
「多分、だ。しなり、無駄口叩いてる暇があったら周りを見渡せ」
ジャケットの前を首まできっちり留めなおして、あたしは森を見渡した。
救難信号が出ている以上放っておくわけには行かないけれど、本当に気が進まなかった。
「何も見えません、ドーゾ」
「よく探せ、しなり、煙があがってるとか、信号弾があがってるとか、よく見るんだ」
「そんなもの見逃すほどバカじゃないわよ。救難信号の発信場所くらい突き止められないの?」
「今やってる。が、そんな細かいところまでは無理だ。森だぞ、森」
短く答えてトオマワリは、あああ、と長く声を伸ばした。
あたしは、何もみつかりませんように、と祈りながらヒューヴと一緒に森の上空を旋回する。
「ねえ、誰か代わりにやってくれるような人いないの?」
「その近くの空域にいるのはお前だけだ」
無慈悲にもトオマワリが宣告を下す。
「だけど、これだけ深い森じゃ、何も」
そこまで言ったときに、真下から信号弾が打ち上げられた。
ヒューヴが鋭い鳴き声をあげて身体を捻り、おわあ、とあたしは叫んだ。
赤く光る信号弾が、ヒューヴをすれすれに掠めて軌跡を描くのが、真横に傾いた視界からも見えた。
「どうした、しなり、何があった、聞こえるか、おい!」
まるで鍵盤を踏むように叫ぶ声。
あたしは唸って、振り落とされなかった幸運を感謝した。
いや、感謝するより先に、むくむくと怒りが湧きあがってきたと言った方が正しい。
「バカ軍人が、こっち狙って信号弾打ち上げてきた!」
インカムに向かって怒鳴り、あたしはユニットの外壁をぼこん、と叩いた。
「コイツ、拾わなきゃダメなの?」
「軍人でも何でも、むざむざ見殺しにするわけにも行かないだろ」
「ああ、もう!」
あたしはもう一度ユニットを叩いて叫んだ。
ヒューヴが、まるで返事をするように鳴き声を上げる。
「ヒューヴもいやだって言ってる!」
「わがまま言うなよ」
トオマワリが、大人の声を出した。
あたしは口を曲げてしばらく黙る。
「どうした、しなり、返事くらいしろ」
「…りょうかあい」
せめてもの抵抗として、精一杯いやな声を出した。
嫌味の一つも言ってやろうと思った矢先に、彼が驚いたような声を出す。
「ちょっと待て、何だ、珍しい、有線通信だ」
「有線通信?」
「ちゃんと軍人拾っておけよ」
それを最後に、一方的に回線が切断されて、あたしは取り残されたようになる。
耳元では相変わらず信号音が断続的に、繰り返されていた。
水平飛行に戻って旋回するヒューヴの背中から、信号弾が打ちあがった場所を睨む。
三回りくらい信号弾のまわりを回ったところでようやく覚悟を決めた。
「…降りて」
あたしは小さくつぶやき、ヒューヴの首を撫でた。

森は思ったより深く、ヒューヴが着地するまでに随分木の枝を折ってしまった。
けれど着地ポイントは、目測でも信号弾が打ちあがった場所からはほとんど離れていない。
あたしは再びハッチを開き、ユニットから這いずって出た。光の届かない森の底で、ヒューヴが心細そうな鳴き声をあげる。
大丈夫、大丈夫だからね、とあたしはもう一度彼の首を撫でて降りる準備をした。
飛び下りると、がさり、と積もった落ち葉が乾いた音を立てた。
「ちょっと、ねえ、軍人さん、軍人さあん」
あたしは大声を張り上げながら、そざそざと落ち葉を蹴散らして歩いた。
まったく、落ち葉の音が空々しく響く。
腕時計を見ると、もう三時半を回っていた。
むしろ四時に近いといったほうが正確だろうか。
思っても見なかった時間のロスだ。どんどん帰るのがおそくなる。
「救助です、救助ォ、聞こえてたら返事してくださあい」
少し苛々しながらあたりを見回したが、何の気配もしない。
しんとして、まるで海の底みたいだった。
一度テレビで見た実験深海都市の映像に、似ている。
風もなく音もなく、光すら乏しく、生きるものも見えない風景。

向こうの方に、光線が差し込んでいる場所が見える。少し開けた場所のようだ。
近付いて、日の中に踏み出そうとして、あたしは足を止めた。
なんだかいやな予感がした。
あたしは口をつぐみ、注意深くその空間を観察した。
足が見える。
誰かの足が見えた。
一本。
足だけだ。ごろん、と転がっている、切り取られた一本の足。
あたしの背中にぞぞ、とつめたいものが走る。
「…何だ、あれ」
思わず息だけの声が洩れた。
護身具代わりに持って来たフレッチャーを抜いて安全装置を外し、あたしは息を殺して様子をうかがう。

ついさっきまで空々しく響いていた自分の足音が、今度は重たく響く。
陽だまりに数歩近付くと、奥の木陰に足の持ち主の姿が見えた。
木にもたれるように、片足の軍人が、首をがっくりと折っている。
軍人の左手には、信号弾用の、口径のやたらに大きな銃。
その銃口からはまだ、うっすらと煙が立っている。
彼は生きているのだろうか、死んでいるのだろうか?

ざざざざざ、と、強い風に森が鳴った。
あたしは思わず身をすくませ、あたりに気を配る。息をするのを忘れる。
風が止み、ようやく息を吐き出して、あたしは軍人の様子をうかがった。
僅かに、胸が上下したようにも見える。
軍人の方に足を踏み出そうとして、体を止めた。
ジャケットの下で汗が胸を、つ、と伝う。フレッチャーのグリップが汗でぬめる。
何かがおかしい。何かが、不自然だ。
あたしは片足の軍人を見つめながら、唾を飲み込んだ。
自分で自分に問い掛ける。何がおかしいの?
逡巡して、首を振る。
考えるのは、後回しだ。

瞬間、トオマワリとの回線が突然復帰した。
「しなり、よせ、その軍人は放っておいていい!」
不意にインカムから前置きなしの怒鳴り声がして、あたしは危うく心臓を止めてしまうところだった。
抜いたばかりのフレッチャーを取り落としそうになり、慌てて掴みなおす。
「何よ、脅かさないで!」
あたしは押し殺して叫び、手の汗をスカートで拭いた。
「しなり、まさか、もう降りたのか」
「降りた」
「やめろ、しなり、器に戻れ、いいから」
「だから、何よ」
あたしは見えている足を凝視しながら、息を吐いた。
「軍人、見つけたのに」
「そのエリアには、ムル食いがいるんだよ!」
トオマワリの切羽詰った声は、捨てられた足よりもはるかにあたしの背筋を寒くさせた。

ムル喰い。
それは八本足の巨大捕食動物の名前だ。
この星に暮らして、その名前と姿を恐れないものはいない。
「…冗談でしょ…?」
「冗談でムル喰いの話なんかするか馬鹿」
「でも、ムル喰いが出たのは西の方だって」
「いいから、戻れ、しなり、お前にもしものことがあったら、俺は初夢姐さんに申し訳が」
フレッチャーを構えたまま、あたしはまるで眩暈をおさえるように落ちている足を見つめる。
耳元ではトオマワリが怒鳴るように、戻れ、返事をしろ、と繰り返している。

一度、ムル喰いに襲われた農場を写したパネルを見たことがある。
博物館で、ムル喰いの剥製も、見たことがある。
巨大で、おそろしく捕食向きの体つきをした、茶色い八本足の獣。
この森のどこかであの生き物が呼吸をしていると思うと、恐怖が、どこかから滲み出して、あたしを不安にさせる。
けれど、今は、あたりに音はない。生き物の気配はない。
あたしは、ただじっと足を見つめる。
「しなり、軍からの信用できる情報だ、そのエリアにはムル喰いがいる。これは冗談じゃないんだぞ、返事しろ、しなり」
インカムからはトオマワリの声が続いている。
「…さっき、信号弾撃った時までは、生きてたのよ、軍人」
「しなり、怒るぞ、いいか、軍人は死ぬのが仕事だ、お前が気に病むことはない。連中は死ぬために金を貰ってるんだ、もう一度言うぞ、軍人なんかのために子供が命を賭ける理由はない、しなり、器に戻れ、しなり」

あたしは囁くようにインカムに口を寄せた。
「トオマワリ、あたし、思うんだけど」
「しなり、喋ってる暇があったら足を動かせ、早く逃げろ、お前、俺の言っている意味がわからないのか」
「あの足、どうして血が出てないんだろう」
「しなり!」
「…ごめんね」
あたしはゆっくりとインカムの音声を切った。
確かにムル喰いは恐ろしいけれど、それでも目の前に軍人が倒れている以上、放ってはいけない。
トオマワリにはそれがわからないのだろうか。
いや、判らないというわけではないのだろう。彼の声は、とても苦い声だった。
彼がどう思っていようと、彼は立場のある大人だ。
軍人を捨てて帰って来いとあたしに言う以外、彼に選択肢は残されていないのだ。

トオマワリの声が聞こえなくなって、あたしは静寂の中に放り出された。
不意にひどく不安になって、胸を押さえる。
どの木陰にムル喰いが息を潜めているのかも知れない。
こわい。恐ろしくてたまらない。

呼吸を静め、もう一度風が吹くのを待って、あたしは軍人に駆け寄った。
ざわつく森の空気にまぎれて、彼を抱き起こす。
もう、若いと言える顔ではない。幾つくらいの人なのだろう。
首の後ろに手を回すと、軍人がゆっくりと目を開けた。
「民間人か」
「うわ」
あたしは声を上げて、彼の顔を見つめた。
彼には、あたしの顔がきちんと見えていないようだった。
視線が少し、さまよっている。足を切断したショックが続いているのだろうか。
あたしは、少し祈りながら彼の投げ出された足を見た。
彼の切断された左足の断面を見た。
配線が幾つか見えた。
血と肉ではなく、機械の断面が見えた。
かける言葉が見つからず、あたしはそのまま手を軍人の背中に差し込み、背負おうとした。
「…民間人なのか」
「ちょっと黙って」
よ、と力を込めると、体がかしいだ。重い。重いが、担げない重量ではない。
「詳しい、話、は、空の、上、で」
肩を貸して立ち上がると、息が洩れた。
「おも、重い」
あたしがよろめくと、軍人の呼吸が少し乱れる。
おなかに力を込めて、無理矢理あたしは姿勢を安定させた。
「…軍人さん、テクンなのね」
息を吐きながら、返事を期待せずにあたしは呟いた。
彼に肩に回した腕から伝わってくる感触も、肉の感触ではない。
その重みも、感触も、機械のそれだった。
サイバネ技術の話はニュースで見て知っていたが、実際にこの目で見るのは初めてだった。
テクンと呼ばれる、半人半機械のサイボーグ。
この人の、果たしてどこまでが生身の身体なのだろう。
「…別にいいんだけどさ」
あたしは呟く。
軍人が独り言のように何かを言いかけて、ゆっくりと打ち消すように首を振った。
あたしの声、聞こえているのかしら、と少し思った。
「とにかく、行くからね」
軍人に声をかけ、来た方を睨む。
ごろりと転がった足にちらりと視線をやって、悪いけど足は捨ててくから、と、口に出さずに思う。


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