ここから家まではあたしが運転することになった。
家に一度連絡を入れ、もう大分暗くなりつつある道を走る。
聞くと夕食を作ってくれるらしいので、のんびり帰って来いという。
途中ちらほらと、部活帰りらしい、うちの学校の生徒を見かけた。
別に知り合いに合わなければいい話なのだが、なんとなく後ろめたい気分になって裏道を通ってしまった。
「ねえ、しなり」
後ろで初夢さんがあたしを呼んだ。月を見上げるような声だった。
顔を向けると風で髪が頬にかかる。振り払ってあたしは何?と聞き返した。
「しなりは処女?」
不意に聞かれて、あたしは仰天してしまった。
「…何で?」
辛うじてそう言い返すのが精一杯だった。
なんでそんなこと、急に聞くのだろう。
「わたしは、処女だよ」
「…」
なんと返事をしていいのかわからない。
あたしは前を向いて、少し身体を硬くしながら、どうしたの、と聞き返した。
「長生きはしたいものだけれど、置いていかれるのはいやだなあ、という話だよ」
「…」
「つまらないことを言ったね。ごめん」
それきり初夢さんは黙ってしまった。
もしかしたらそれが、昼間リフトバギーで聞いた話に繋がるかもしれないと思い当たったのは随分経ってからだった。

学校のあたりを抜け、バイクは住宅地に入った。
いつもガラガラの大通りに戻って、あたしはもう一度顔を後ろに向けた。
「トオマワリのこと?」
尋ねると、初夢さんは決心をするように息を吐き、そう、と言った。
なんとなく、繋がるような繋がらないようなもどかしい感じだった。
トオマワリは、初夢さんとはセックスが出来ないと言ったという。
初夢さんは自分のことを処女だという。
二つに矛盾はないけれど、繋がりもなかった。
「…付き合ってるんじゃないの」
「ううん」
気弱そうな声。
「だってさ、あたしはあいつが七歳の時から知ってるのよ」
「…」
「二十年よ」
茫漠とした初夢さんの声があたしの背中から染み込んでくる。
「二十年が、あたしにとっては二ヶ月と少し。しげるにとって二十年は二十年」
「…」
「色々タイミング無くすわよ」
お互い、と付け加えて彼女はあたしの背中にもたれかかった。
鞄越しに感じる初夢さんの背中。
鞄から余った腰に感じる初夢さんの体温。
あたしは何も言えなかった。

ぽつぽつと明かりのついた家が増えてきた。
あたしは色々考えて、一つだけ言った。
「平気よ」
何が平気なのか判らなかったが、あたしはその言葉を口にした。
軽い慰めみたいに聞こえてしまうかもしれない。
鉄ペリカンの基幹部をいつまで続けるの、だとか、そういうことは聞けなかった。
聞いてどうなるものでもない。
なんだか切なくなってしまった。
もっとうまいことがいえたらいいのだけれど。
それを強く思った。
やがてバイクは共同ガレージへ着いた。

「ごめんね」
初夢さんは共同ガレージに並ぶ自転車やバイクやAGバイクを眺めて回りながら、ぽつんと呟いた。
そして、へへ、と困った顔で笑う。
「わたし、乗り物に弱いのよ」
なんだか言い方がおかしくて、あたしは鍵をかけながら顔を上げた。
「乗り物に乗ると、なんだか気持ちが無防備になっちゃうのよね」
「なによ、それ」
あたしは笑ってしまった。
「本当」
「変なの」
とことこと歩いて戻ってくる彼女は、決まりの悪そうな顔をしていた。
「でも、ありがとう」
「?」
「しなりの言うことって、妙に説得力あるのよね」
照れくさそうに言って初夢さんは、あたしの背中を、たん、と叩いた。
なんだかおかしくなって、二人して笑う。
もうすっかり夜になっていた。

「ただいまあ」
あたしが玄関で声を上げると、昨日は迎えに来なかった母が、ひょこ、と顔を見せた。
「友達連れてきたよ」
どうぞ、と促すと少し緊張したように初夢さんが玄関に入って頭を下げた。
「今晩は」
「あら、美人さんね」
「ちょっと」
いきなりそんなことを言う母をたしなめると、初夢さんは苦笑いをしてまた頭を下げた。
「初めまして」
「いえいえこちらこそ」
そういえば、母にケーキを買ってこようと思っていたのを忘れた、と思い出した。

それにしても母は、あたしが本当に友達を連れてきたことに喜んでいる様子だった。
そういえば、中学に上がってからはほとんど、友達を母に見せたことも、母に友達を見せたこともなかったっけ。
別に友達を見せたくなかったり、友達がいなかったりしたわけではなくて、ただ単に機会がなかっただけなのよ、と言い訳のように思う。
こちら、松野さん、と初夢さんを紹介した。
母に人を紹介するなんて、随分久しぶりだなあ、と他人事のように思う。
「松野です。初めまして」
「彼女とは、その」
その続きを言おうとして、少し迷った。
学校の友達、と紹介するのも違うし、バイト先で、と言うにしてもあたしは、アルバイトなどしていないことになっていた。
仕方ないので、映画友達、と表現した。
その表現を初夢さんはいたく気に入ったらしく、ひどく嬉しそうな顔をした。
母の、私も紹介せよ、という視線を受けてあたしは母を手で指した。
「うちの、母」
「光代です。初めまして」
「初めまして」
なんだか妙な空間だった。なんだか∧初めまして∨ばかり聞いているようだ。
このプロセスは、もう少し簡略化してもいいような気がする。
次に友達を呼ぶ時は注意しなければならないぞ、とあたしは密かに記憶へ刻み込んだ。

「それじゃ、あたし着替えてくるけど、初夢さんどうする?上、来る?」
このままだといつまで経っても靴が脱げないような気がしたので、あたしは強引に靴を脱いで初夢さんを招いた。
ううん、と彼女は首を振る。居間から聞こえてくる音楽に気を取られているみたいだった。
「なんだか、音楽が」
「あら、まあ」
居間から流れてきている音楽は、昔の歌謡曲だ。
「好きなの?」
「すごく」
「じゃあ、おいでなさいな。珍しいのがあるのよ」
「あっ、嬉しい」
母の嬉しそうな顔を見てあたしは、なんとなく複雑な気分になった。
根掘り葉掘り彼女の事を聞かれると思って身構えていたのに、あんまりだ。
こうまで友好的だと逆に拍子抜けするものがあった。
そんなことを考えているあたしは、随分面白い顔をしていたらしい。
初夢さんはあたしの顔を見て笑った。
楽しそうな笑顔だった。

あたしがジーンズに着替えて戻るまでの間に、すっかり初夢さんは母と打ち解けていたようだった。
そもそも母の第一声が、あら美人、といったくらいだ。
いかに母が浮かれ、そして初夢さんに先入観と呼んでもよいくらいの思い入れを持っていたかが判るというものである。
それに、よく考えてみると母は初夢さんとほぼ同年代なのだ。
仲良くならない筈がない、と思った。

やはり、居間にかかっている音楽の話をしていたようだった。
それは母の若い頃の歌謡曲で、自動的にそれは初夢さんの若い頃にも重なるようだった。
二人はまるで同い年の子のようにはしゃいで歌手の名前や歌の題名を言い合っていた。
やがて話にも疲れたのか、休憩するような間があいた。
母が思い出したように口を開く。
「よかったらもう夕飯にしようかと思うんだけど、初夢ちゃん、まだお腹すいてない?」
あたしは何気ない一言に、う、と振り向いた。
あたしの知る限り、初夢さんのことをちゃん付けで呼ぶ人間はいない。
知らないというのは凄いな、と思いつつ、あらためて母の底力を知る。
やはり主婦はすごい。母はすごい。
筋違いだけれどもそんなことを思う。
初夢さんは初夢さんで、にこにこしながら、ありがたいです、なんて言っている。
なんだか色々、違う一面を見た気がした。
しなりも食べるわね、と母は軽いが異論を許さない調子で宣言し、台所に向かった。

「ごめん、初夢さん、ちょっと今日、母、変だ」
こっそり耳打ちすると、初夢さんは楽しそうに笑った。
「わたし、こういう雰囲気って好きだよ」
しなりが羨ましい、そう言って初夢さんは笑った。
「それにね、知らない曲が増えてた」
とっくに解散したバンドの、引退記念盤を聞きながら、初夢さんはうっとりと目を閉じた。

夕食のテーブルを囲みながら、母はビールを飲んだ。
場に初夢さんもいることだから、必然、昔の話が多くなる。
昔の話を聞くのは楽しい。
今と昔がそれほど変わっていないところ、随分変わってしまったところ、比べて聞いていると、下手な物語より面白いと思う。

途中、音楽が途切れたのであたしはテレビをつけた。
丁度七時半のニュースから、相変わらず鉄ペリカン関連のニュースが流れてくる。
もう、とテレビをつけたことを非難して、母はビールをぐい、と飲んだ。
ニュースでは依然、鉄ペリカン復旧の目処が立たない、と繰り返していた。
朝と同じように母はため息をつく。
「明後日までに復旧してくれないと、困るわねえ」
ほとんど朝と同じことを繰り返す母に、あたしはテレビのほうを向いたまま、それ朝聞いた、とため息で返した。
「だって、本当なんだもん」
半分酔った母の少女のような口調にあたしは、ふと初夢さんの方を振り返る。
鉄ペリカンが復旧するということは、彼女が帰らなければならなくなるということだ。
折角の臨時休暇、きっと長く味わいたいと思っているに違いない、とあたしは思った。
鉄ペリカンの話題は止めにしようよ、と、あたしが言いかけると、初夢さんは微笑みながら首を振った。
その、静かな笑みに思わず言葉を飲み込む。
不思議な表情だった。
その大人びた顔をすぐに引っ込め、初夢さんは、まあ、とまるでトオマワリの言葉をいなすような涼しい声を出した。
「まあ、磁気嵐だとすると、向こう一週間は収まらないかもしれませんよね」
「そうなのよね」
母のため息。
「あ」
初夢さんが背筋を伸ばして頬に手をやった。
「どうしたの?」
「いや、呼出が入ったみたい」
「あらまあ」
静かに箸を置いて、初夢さんは母に頭を下げる。
「すみません、回線お借りしてもよろしいですか?」
「どうぞ、しなり」
呼ばれて箸を置き、初夢さんを案内する。

廊下の端末の前で、あたしは初夢さんの顔色を見た。
何気ない顔をしているが、少し、表情が硬い気もした。
「トオマワリから?」
「ううん」
困ったような顔で彼女は笑顔を作る。
「航空局から」
それが何を意味するかはすぐにわかった。
鉄ペリカンがもうすぐ動き出す。そういうことなのだろう。
あたしが黙っていると初夢さんは手を振って笑った。
「なんだなんだ、そんな顔せんでくれたまえ」
「でも」
「まあ、わたしもこれが仕事だからねえ」
頭をかく初夢さんの笑顔は、同い年とは思えないくらいに大人びて見えた。


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