結局母は、あたしが登校する時間まで帰っては来なかった。
だからあたしは、いつものとおり鍵を閉めてゴミを出し、一人でバイクに乗って朝の道を学校へ向かう。
途中の道ではスピードを落として、綺麗に咲いている庭木を眺める。
通り沿いの豪邸では、朝っぱらから吠える犬の声を聞く。
通学バスと擦れ違えば、窓に見えるクラスメイトに軽く手なんか振ってみたりもする。
そして、学校に着けば、もう母のことなんて頭からはきっぱり追い出してしまう。
いつだって、健全で判りやすい孤独は、あたしと共にある。
別に、今更ため息をつくほどのことではない。

今日は木曜日だった。
授業が始まる寸前からあたしの意識はゆるやかなカーブを描いていた。
未知の物に対する究学心が、なだらかな下降線で眠気の地平へ落っこちてゆく。
やっぱり、昨日の夜更かしが響いていた。
なんだかんだで、結局二時間も寝ていないことを思い出すと、眠気が余計に強まる。
「しなり、まだ、一限目だよ」
前の席に座るユキが、机に突っ伏すあたしを軽くつついた。
むにゃむにゃと返事をしながらあたしは、まるで昨日空で見た夢みたいだ、と思っていた。

眠ったり醒めたりを繰り返しながら、夢を見た。
空の上で見たのとはまるっきり逆に、教室にいるあたしが、空の上にいる夢を見ていた。
それは、ユニットを外したヒューヴにまたがって、霧のハコ山脈を飛ぶ夢だった。
不思議と無風の空であたしは手綱を握り、ヒューヴに声をかけていた。
「ねえ、ヒューヴ、やっぱり気持ちいいわねえ!」
しばらくすると不意に霧が晴れて町が見えた。
遠くから眺める町は霧に濡れ、輝いて見えた。
滑るようにあたしたちは町の上空へ進む。
町は無音だった。動いているものは一つも見当たらなかった。
道路に車はなく、商店街にも人の姿がなかった。
初めて上空から眺める街並みにため息をつきながら、あたしは自分の家を探した。
赤い屋根のそれは、すぐに見つかった。
不意に視点がずれて、家の中の様子が、透けて見えるようになった。
母が、ソファーに横になって眠っているのが見えた。
視点はぐんぐんと母に寄っていった。
母の頬に、窓から差し込む日差しがかかり、あたしはそれを、美しいな、と思った。
夢は、そこでおしまいになった。

何度目かに目が覚めると、もう四時間目の授業が終わるという時間だった。
寝すぎた、と少しだけ思ったが、もう取り返しのつく話ではない。
夢の密度と現実の時間のずれは、不思議な喪失感をあたしに与えていた。
密度の薄い眠りが、ずっと続いていたような感覚。
仕方がないのでとりあえずもう一度目をつぶって首を折り、睡眠の余韻に浸ろうとする頬へ、ざらりと髪がかかった。
すこし、汗をかいていた。

頬の髪を意識しながら、ぼんやりと母のことを、そして父のことを考えた。
いつもはあたしが一人でいるあの家に、今は母が一人。
さすがにもう、とっくに家に着いている時間だ。
母がソファーで眠っている姿を、さっきの夢をなぞるようにあたしは想像した。
空から、屋根を透かし、壁を透かして見下ろす母の横顔。
あたしは息をついた。
確か、次に父が帰ってくるのは月曜日の予定だった。
ちなみにまるで計算したみたいに、母の休みは日曜までだ。月曜日の朝、父が帰ってくる頃、もう母は家にいない。完全な入れ違いだ。
二人とも、何がそんなに忙しいのだろうかと、あたしは時々思う。
毎日寝る間も惜しんで働いて、時々どおん、と休暇を取って死んだように眠って。
休む時ですら二人、まるで交代制みたいに休んで。
もしあたしがいなかったら、両親は永遠に休まないんじゃないかと思うことがある。
両親は、結婚した当時からこんな生活をしてきたのだろうか。
想像したらなんだか途方もない気持ちになった。
よくもあたしが生まれる隙間があったものだ、と思った。
それとも、あたしが生まれたから、あんな生活パターンになったのだろうか。
なんだか考えると本当に途方もない気持ちだった。
両親という存在は、時としてまったく不可解だ、と思った。

そこまで考えて、ようやくあたしは顔を上げる。
ぼうっと窓の外の、校舎と校舎の間の中庭を眺めた。
椅子を引くと、きし、と思ったより大きな音が響いた。
ユキがこっちを向いて、やっと起きた、と呆れ顔をしてみせる。
わあ、とあくびをして目をこすると、隣の席の男子とも目が合った。
視線をそらしてもう一度窓に顔を向け、あたしは眉をしかめた。
まるで色々おぼつかない子だと思われているみたいで、少し心外だった。

おなかすいた、と思ったとたんに授業終了のチャイムが鳴った。
とりあえず教科書を机の中にしまって学食へ向かう準備をしていると、ユキが声をかけてくる。
「しなり、今日も学食?」
「まあね」
「大変だね、さみしいでしょ」
「まあね」
あたしは頭を軽くかいて席を立った。
別に大変ともさみしいとも思っていないんだけど、なんて考えるけれども口にはしない。
大変だね、と言った彼女に悪意はないし、別にそれであたしが嫌な気持ちになるわけでもない。
「それじゃね」
軽く手を振って教室を後にする。
廊下で、お弁当の包みを抱えた女子の集団と擦れ違って、少し友達のことを考えた。
あたし、協調性、ないのかなあ。
心の中で呟き、あたしは首をかしげて歩いた。
別にクラスに話をする友達がいないわけではないし、話が合わないというわけでもない。
もちろん時々は早起きして弁当を作って、みんなと一緒に昼食をとってみたりもするけれど、それは決して毎日ではない。
友達と一緒に昼食をとる、というのはそれなりに楽しいけれど、それがそれほど重要なことに思えないのだ。
正直な話、自分の作った弁当がそれほどおいしいと思えないというのは、その重要な一因だとは思う。
けれど、だからといって命を賭けて早起きして材料を揃えておいしい弁当を作ろう、という風に心は動かない。
それなら、学食を利用したほうがいいや、と思ってしまうのだ。
それはあたしに協調性がないからなのか、たんに面倒くさがりなだけなのか、自分でも判断はつかない。
とにかく、あたしの昼食は殆ど、学食のうどんなのである。

この学校の学食は、それほど流行っているわけではない。
場所が地下だということもあって、全く不人気であるといったほうが適切かもしれない。
「…おいしいと思うんだけど」
あたしは小さく呟いて、うどんをすすった。
無論、学食とうどんが流行らないのは、決して味の問題からでないことはわかっている。
周りを見渡しても、一人でうどんを食べている女子なんて殆どいない。
一人で居るのは、大体がぼさっとした男子か、いかにも友達のいなそうな女子か。
学食を占拠するのは、騒ぐ体育系の部活仲間がほとんどだ。
あたしはそれほど気に留めないが、明るく楽しい昼食を目指すクラスメイトを誘うには少し、気が引ける雰囲気では、ある。

食事を終え、水を飲みながらあたしはあたりを見回す。
いつもどおりの風景がそこには展開されていた。
必ず同じ席に座って、入り口を気にしながらランチを食べる一年生は、いつもどおり食べるのが遅い。
あたしが入ってくる前から食べているのに、まだ食べ終わっていない。
どうやら彼女は見られることが嫌いみたいで、見られているのが分かるといつも、食べている途中でも食器を返して帰ってしまう。いじめられているのかもしれない。
たぶんいじめられているのだろう。
彼女に、見ていると気付かれないうちに別の方向に目を向ける。
夏の間は動かないスチームの脇で、部活動の先輩が後輩をからかっているのが見えた。
後輩の皿に唐辛子を振りかけるフリをして、ゲラゲラ笑っている。
後輩の子は困ったような顔でテーブルの上に座る先輩を見上げるだけだ。
あたしは背もたれに体を預けて、彼らが何の部活なのか考えた。
また別の一角ではどっと歓声が上がって、手を叩く音が聞こえる。
何か、卑猥な話でもしていたらしい野蛮な興奮が、空気越しに感じられた。
例の一人ランチの子が、びくっとそっちを眺めて席を立った。
まだ皿には半分くらい残っているのに、彼女は食べることを放棄して食器返却コーナーへ向かう。
最後まで見届けずにため息をついて、あたしは席を立った。
「…帰るかあ」
学食の人間模様を観察するのって、全然有意義じゃない。
学食のおばちゃんにごちそうさまを言ってどんぶりを返し、今度は屋上を目指す。

屋上と言っても、この学食のある校舎の屋上は、人がいっぱいであまり好きではない。
わいわいとピクニック気分でお弁当なんかを食べていたり、バレーボールをしていたり、カップルが遠くを眺めていたり、まるで空中公園のようなのだ。
一人でいるのが、まるで罪深いような気分になってしまうから、地下で食事をした後は特に足を踏み入れないようにしていた。
かわりにあたしが足を運ぶのは、人気のない中等部の屋上だった。
ここは意外な穴場だった。
中等部は生徒数が少ないこともあって、屋上に上ってくる子が、ほとんどいない。
来る途中に中等部の校舎を潜り抜けなければならないことに目をつぶれば、そこは最高の場所だった。
なるべく中等部生に見つからないように暗い階段を上り、屋上へ通じるドアを開く。
ぱっと開けたように光が目に飛び込んできて、あたしは息をついた。
幸運なことに今日もここは無人。

あたしは給水タンクの影の地べたにすわり、足を投げ出して遠くを眺めた。
なだらかに続く低い街並みを断ち切るように森が始まり、そこから向こうは全て、自然の領域だった。
晴れた日には、遠く遠くに軌道エレベータが見える筈なのだけれど、生憎今日は曇り空。
見えるものといえば手前から、町、森、ハコ山脈。あとは雲と空だけだった。
まるで塗りたての絵のようなハコ山脈に積もった、空の雲より白い雪が目に寒い。
「げにうつくしきこと、このよのものとはおもえじかな」
ハコ山脈を眺めながら、あたしは古文の教科書のフレーズをぼんやりと呟いた。
この間の推進議会では、隣の街まで鉄道を走らせる計画が立ち上がったらしい。
それにしたって、着工すらまだずっと先の話。
完成するのは、早くてもあたしがこの高校を卒業してから九年後の話だ。
九年後。
あたしは空を見上げて、九年後に自分が何をしているのかを考えた。
想像もつかなかった。
あたしは学校を卒業して、何をしているだろう。
このままヒューヴに乗りつづけて、正規の飛行器乗りへの道を目指すのだろうか。
もし免許を取ったとして、と考えても、その先のことは思い浮かばなかった。
九年先。
九年と言ったら、あたしの今までの人生の半分だ。
あたしが生まれてから今までの中の、全ての月曜日と火曜日と水曜日と、木曜日の半分をもう一度繰り返した先の未来。
なんだか、恐ろしく遠い未来の気がした。

未来の事を考えて途方もない気持ちになりかけていた頃、うぇーい、とけだるげな声が背後から聞こえた。
「おはよううぅう」
まるで苦悶するように低く声を震わせて、あらわれたのは中嶋香弥子だった。
彼女と会うのは、かれこれ二週間ぶりだった。
学年が上がって同じクラスではなくなったので、会わない時は徹底的に会わない。
そういう友達である。
確か前に会ったときは、アルバイト先で見つけた年上の恋人の話なんかをしていたっけ。
ひどく久しぶりの再会に、よ、と立ち上がって彼女を迎えた。
「ちょっと、ナリ、聞け、聞いてくれい」
久々の再会だというのに、全く気にとめた様子もなく、彼女はまるであたしがここにいるのが判っていたみたいに大袈裟に首を振った。
幽霊のように手をだらんと垂らし、ふらふらと手すりに歩み寄る。
あたしはそれを目で追いながら肩をすくめ、彼女のつむじにまとめられた髪を眺めた。
「なによ、どうしたの?」
「こないだ言ってた、あのバイト先の情熱男、やっぱダメなやつだったよう」
「やはり」
「昨日いきなり借金申し込まれたあ」
「結婚じゃなくて?」
「借・金」
「いくらよ」
香弥子は困った顔をして振り返り、眉を八の字にして笑った。
「三十万だってさああ」
香弥子の笑顔は、困っているようではあってもどこか楽しそうだ。
「そんでさ、嫌だって言ったら、今持ってる分だけでいいからって言ってアイツ、三千円私からむしり取ってったんだよ」
彼女が言葉を切り、あたしはうええ、と正直な反応を返した。
「信じられるかあ。三千円だよ、三十万って言ってたやつが、三千円、ありえない」
「…一パーセントだ」
「私はあと九十九回も三千円、貸さなきゃ駄目なのかあ」
首を振ってハコ山脈へ顔を向ける香弥子の横顔をみつめながら、あたしは頷く訳にもいかず、少し苦笑いをした。
香弥子はポケットから煙草を出してくわえ、目を細めた。
要る?と横を向いたまま彼女は箱を差し出して呟く。
「私、最近人生を考えるよ、くそう」
言葉ほど深刻でない声。
一本貰って、あたしも香弥子と同じ方を見つめた。
すぼ、というマッチの着火音。
会話が途切れる隙間。

そういえば、香弥子と初めて会ったときも、彼女は煙草を吸っていたっけ。
「…別れるんでしょ」
お節介ながら、あたしはそのまま呟いた。
ふむ、と煙草をくわえたままの香弥子が返事をする。
当然ハコ山脈は、二人で眺めても、さっきのままの姿だ。
その頂上に積もる真っ白な雪の下は、深すぎて形容しがたい緑色の森。
あの山脈を越えた先には、大渓谷が広がっている。
その大渓谷をさらに越えると、先は広く深い森。そのずっと先は海だ。
あたしは、初めてヒューヴに乗った時の景色を思い出した。
後部座席から、落っこちてしまうんじゃないかと思うくらい身を乗り出して、大渓谷を眺めた。
あのときに、あたしの中で何かが変わったのだ。
きっかけはいつも些細なことなのだな、とあたしは勝手に結論を出す。
三千円の借金、ただ見た景色。
「…そのうちいいことあるよ」
なんの気休めにもならないことを言って、あたしは煙を吐き出した。
何かもっと、素敵なことを言ってあげられたらいいのだけれど。
そんなことは、うまく言えそうにないし。
「あるといいんだけどねえ」
呟く香弥子の声が、風に散る煙といっしょにのぼってゆく。

「…やっぱり、こういうこと話す相手はナリに限るね」
しばらくして、香弥子は意外にも明るい調子で言った。
「何よ」
「うん、クラスメイトは詮索好きだからねえ」
彼女らは根掘り葉掘りでちょっと疲れるのだよ、と香弥子はちら、と歯を覗かせた。
「ね、今度、一緒にお昼でも食べよう」
まるで気分を切り替えるように、彼女は手すりの裏で煙草を消して笑う。
いいね、とあたしは同じように煙草を消した。
顔を見合わせてもう一度変な笑いをかわし、あたしたちは手すりから体を離す。

屋上から帰る途中、不意に呼出端末がポケットの中で震えた。
「うわ」
「どうしたの?」
うっかり声を上げると、香弥子が立ち止まって振り返る。
あたしはポケットに手を突っ込んで振動を止め彼女の顔を見た。
「用事が出来た」
「…アルバイト?」
「まあ、そのようなものだね」
自分で尋ねておいて香弥子は不思議そうな顔をした。
「あれ、ナリ、バイトとかしてたっけ」
「…まあね」
「どんな仕事?」
「最速の女ですよ」
いつもどおりにはぐらかして、あたしは笑った。
最速の女ァ?と怪訝そうな彼女の脇をすり抜けて、あたしは階段を数段飛び下りる。


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