トランクを一段一段引き上げて階段を上りながら、初夢さんは周りを見回した。
「ちょっとづつ毎回、見るたびに古くなってくのよね」
何か、滲ませるような声が、階段のひびに吸い込まれてゆく。
初夢さんには世界がどんな風に見えているのだろう、と時々考えることがあった。
それは、物凄く流れの速い時間の中にいる感じなのだろうか。
それとも自分がいつまでも歳をとらないような感じなのだろうか。
あたしは少し考えながら初夢さんの後をついて階段をのぼる。

トランクを持ち上げる重たそうな様子に、思わず声を掛けた。
「持つ?」
「いいよ、べつに、自分の荷物だもの」
「でも」
初夢さんはまた、ごつん、とトランクを一段持ち上げてあたしを見た。
「大体しなり、怪我してるじゃない」
「いや、これは」
咄嗟に返事が出来ないでいると、初夢さんはトランクに寄りかかるようにしてこっちへ向き直った。若い母親のような顔。
「しなり、わたしのこと四十歳だと思ってるでしょう」
「や、そんなことはないんだけど」
「言っておくけど、わたし、今年はあなたと同じ歳なの」
真面目なのか冗談なのか判らない顔になって、初夢さんは続けた。
「それに、来年からわたし歳下になるのよ、変な気とか遣われると、困る」
責められているわけではないのだろうが、また返事に困った。
困ったけれどとりあえず、はい、ではなく、うん、と返事をする。
よし、と頷いて初夢さんは背中を向けた。
「その点、しげるは偉かったわ。同い年になった途端、きっぱり偉そうな口調に変えたもの」
それからどんどん憎たらしくなってったけどね、と付け足すように呟いて彼女はまたトランクをごつん、と持ち上げる。
どんな顔をしているのかは、後ろからで見えなかったが、おそらく笑っているのだろう。
楽しそうな声だった。

その後ろ姿を見ながら、あたしは少し、ぼうっとしてしまった。
トオマワリが十八になる前から二人が知り合いだった、ということに驚いてしまったのだ。
そういえば、二人が出会ったときのことなんて、聞いたことがなかった。
ある一時期自分と同い年だった人が、十歳も年上になってしまうのは、どういう気持ちだろう。
あるいは、十年も歳をとらないままの相手を見るのはどういう気持ちなのだろう。
途方もなかった。

「よお、姐さん」
二階まで登ると、階段の上からトオマワリの声が聞こえた。
階段の上に立つ彼の姿は、逆光で黒くなっている。いつからそこにいたのだろう。
階段の下から見上げると、彼はいつもより背が高く見えた。
「しげる」
初夢さんがごとん、とトランクを置いた。びっくりしたように、手にした帽子をトランクの上に乗せる。
「よく帰ってきたな」
いつもとどこか違うような、同じような、少し大人びた声だった。
しばらく、二人はみつめあった。
「ただいま」
「…おかえり」
息を切らせるように初夢さんは一段階段を上り、トオマワリは大人びた声でそれを出迎えた。
「持ってやるよ」
「いいよ」
彼は片手をポケットに突っ込んだまま、初夢さんのところまで降りた。
そして彼女に帽子を押し付けてトランクをひょい、と持ち上げた。
「あ」
「持ってやるって」
「いいのに」
初夢さんはおもちゃを取り上げられたような声を出した。
「しなり、出迎えすまなかったな」
トランクを持ってトオマワリがこっちを向く。
「あ、ああ、うん」
なんだか、不思議だった。
十年という長さの違う、二人。
二人は、どんなことを思っているのだろう。
「なんだ、変な顔して」
「いや…別に」
あたしは首を振って、階段を上る。

管制室まで行くと、ソファーの前のテーブルに氷を浮かべたコーヒーがふたつ、置いてあった。
「少しは気が利くようになったわね」
憎まれ口のように初夢さんはソファーに、とす、と勢いよく座って窓の外に目を向けた。
あたしは隣に座りながら、二つのグラスを見比べる。
軽く汗をかいているグラスはとても冷たそうで、おいしそうに見えた。
…でも、この部屋に冷蔵庫なんて、置いてあっただろうか。
聞いてみようかと思った先を打って、初夢さんが疑う様子もなく口をつけた。
こらん、と氷のぶつかる涼しい音が響く。
「あ」
思わず声を出すと、初夢さんは飲みながら目をこっちに向ける。
「…?」
「や、あの、別に」
トオマワリがオペレータ用の椅子からふんぞりかえった。
「うまいだろう」
「うまい」
「姐さんは昔から冷たいものが好きだったもんな」
一瞬虚を突かれたように黙り、まあね、と初夢さんは氷を口に含む。
あたしは指先でグラスの冷たさだけを味わいながら、部屋を見回した。
目で部屋を探し回って、あたしはようやく冷蔵庫らしきものを発見した。
この三年間、てっきりおしぼりを冷やす機械だと思っていたのだが、どうやらあれは小型の冷蔵庫だったらしい。
考えてみれば、おしぼりを冷やす機械なんて管制室に置く意味がない、とようやくにして思った。
あたしは自分の勘違いに苦笑いしてグラスに口をつけた。
すっとつめたさが身体に染み込んでゆく。確かにおいしかった。

気持ちよさそうに氷を食べている初夢さんに、クッキーを勧めた。
袋を振って、ざらざらとお皿にあける。
「バニラ」
的確な紹介をすると、初夢さんは氷を口に入れたままの不明瞭な声で、どうしたの、と目を大きく開いた。トオマワリが後ろから説明を入れる。
「しなりが買ってきたんだ」
「すばらしい」
頷いて、初夢さんはばりばり氷をかみ砕いた。
初夢さんはにじるように座りなおしてこっちを向いた。
ありがたくご馳走になります、と深く頭を下げて、彼女はクッキーに向き直る。
「たまにしか来ないと、毎回お客様気分を味わえて得よね」
「姐さん、そういう台詞はあんまり人に言わない方がいいぞ」
たしなめるトオマワリを気にもせず、初夢さんはクッキーを齧りながら言った。
「そういえば、他の皆は元気?ザジくんとかエツコとか」
「…通信、繋ぐか?」
「お。話したい話したい」
「よし。繋いでやろう」
トオマワリが少し得意げに背中を向けて、コンソールをいじりはじめた。
初夢さんはクッキーをつまんで立ち上がる。
あたしも、つられて立ち上がった。
なんだか珍しい料理の、蓋を開ける瞬間を見に行くみたい。

「あー、こちら管制、聞こえますかドーゾ」
初夢さんを椅子に座らせ、その横で中腰になってトオマワリがマイクに呼びかける。
肩越しにこっちを振り向き、クッキー、おいしいね、と初夢さんは笑った。
しばらくして、ノイズで聞き取りづらい部分があるとは言え、それがザジの声だと判る程度の返信が管制室内に響いた。
「もしもし、聞こえます、音声適度に良好、こちらザジ、ドーゾ」
「さっき言ってた珍しい客が来たんだ、代わるよ」
「もしもし」
髪を押さえて初夢さんがマイクに口を寄せる。
「初夢です。本日は晴天なり、晴天なり」
「おっと」
ザジが驚いたような声を出した。
「こりゃオーナー、本物ですか」
「よしてよ」
初夢さんは困ったように笑い、身を乗り出して窓の方を眺めた。
無論そこにザジの姿が見えるはずもないが、あたしもつられて目を向けてしまう。
「ザジくん、元気?」
「そりゃもう。昨日、一昨日と忙しくて目が回りそうですけどね」
快活なザジの声。
「今、どのあたりなの?」
「軌道エレベータ駅から、西回りで内海の方へ向かっているところです」
「うわ、お疲れ様」
「いいえ」
ザジは、トオマワリと同じくらいの年代だ。
あたしは二人のやり取りを聞きながら、ザジは初夢さんと出会って何年くらいになるのだろう、とぼんやり考えた。
初夢さんが椅子に腰を戻す。
「オーナー、どうしてこんな急に?」
「ちょっと、ここのそばで特別休暇がもらえたものだから」
「そりゃいい。いつまでいるんです」
「ちょっと未定なの。明日までになるか、明後日までになるか、もっと居られるのか、全然判らない感じ」
「そうですか、でも、休暇が取れるってのはいいことです」
ザジは年齢にふさわしい落ち着きと誠実さで言って咳払いをした。
トオマワリも茶化したり冗談を言ったりするのを止めて、もっと彼みたいにすればいいのに、とちらりとあたしは考える。
「ザジくん、今日はこっちに戻って来れそう?」
「いやあ、ちょっと無理かもしれませんね、ちょっと荷物が多くて一回じゃ積みきれなかったんです。仕方ないからふた周りですよ」
「残念だ」
初夢さんは椅子に座りなおし、首を振った。
「まったく同感です。オーナーが帰ってくるって知ってたら無理して積んだのに。トオマワリのやつが意地悪して教えてくれなかったんですよ」
「待て待て待て、お前、俺だって今朝初めて知ったんだよ、それに、無理して積めるなら一回で積んでだな、仕事の数を」
「しげる、うるさいなあ」
あたしは三人の会話を聞きながら、クッキーを齧って少し笑った。
たぶん、三人とも、長い知り合いなんだろうな、と思った。
「そうだ、ザジ、今日はしなりもいるんだよ」
「しなりちゃんが?」
トオマワリは腕を振って、出ろ、という仕草をした。
思いもよらなかった指名に驚きながら、あたしはマイクに口を近付ける。
「もしもし、こんにちは。鈴木です」
「お」
ザジはやっぱり驚いたように声を上げた。
「しなりちゃん、久しぶり。元気かい」
ザジは昨日、一昨日とこっちに戻ってきていないらしい。
どうやらあたしとヒューヴと森山のことは知らないようだった。
ちくりと心に引っ掛かるのを押さえて、あたしは答える。
「…まあ」
「うん、まあまあくらいが人間、丁度いいよ」
通信の向こうで、彼が頷いているのが見えるようだった。
「そういえば、しなりちゃんとも随分会ってないな、会いたいよ」
「ええと…そうね」
ザジの、オーバーなアクションが目に浮かぶ。
本気なのか嘘なんか判らない、お世辞やプレゼントの数々を思い浮かべた。
トオマワリも彼みたいにすればいいのに、と思ったことをあたしはこっそり訂正した。
そういえばザジはザジで、ちょっと変なところがあったのだ。
「気をつけろ、しなり、そいつはロリコンだ、気をつけろよ」
「おい、トオマワリ、お前なあ」
トオマワリとザジは本当に仲がいい。
まるで冗談のような掛け合いに、初夢さんが声を殺して笑う。
「それじゃ、初夢さんに代わります」
あたしは控えめに言って後ろに下がった。
気を遣ったわけではなかったが、マイク越しに、それも準備なしで喋るのは少し苦手だった。
「…まあ、そういうわけだ」
「ちょっと」
初夢さんに代わるつもりが、トオマワリにマイクをとられてしまう。
コンソールに肘をついて、彼は悪戯する子供のような笑みを浮かべた。
「ザジ君におきましてはお仕事頑張ってください、ということですよ」
「なんか悔しいな、おい」
「仕方ないだろ、仕事するのが大人の役目、俺だって今日も残業だ」
軽いため息。
「ザジくん、頑張ってね」
「了解、頑張ります、オーナー」
うって変わった素直な声。
「まあ、明日まで姐さんが休暇取れるようだったら、皆で飯でも食いに行こうや」
「了解、じゃあ、明日までオーナーの休暇が続くことと、管制の仕事が増えることを祈って」
「おい」
ざざ、とノイズを鳴らして通信が切れる。
息をついて初夢さんがおかしそうに笑った。
「ザジくんって、あんまり変わらないわね」
背もたれに寄りかかってトオマワリの顔を見上げ、本当におかしそうに笑う。
「声だけだからかしら」
付け足すように言って初夢さんはまた少し笑った。
トオマワリは返事をしなかった。

さてと、と話題を変えるように呟きながらトオマワリが棚の方へ何かを探しに行った。
「エツコは、今、家にいるかな」
次は越後さんに連絡をとるつもりらしかった。
越後さんというのは、あたしがこの発着場に出入りるようになるよりも、ちょっと前に退職した人だ。
今は結婚して、確か、ヘリプロンの方で主婦をしているはずだった。
ちゃんと口を利いたことはなかったが、一度だけここに遊びに来たのを見たことがある。
背の高い、すらっとした人だった。

どうやらトオマワリの探し物は越後さんのアドレスか何からしかったが、なかなか見つからないようだった。
おかしいな、とぶつぶつ言いながら彼は棚をかき回している。
「たしか、手帳に挟んでおいたと思ったんだよな。エツコ、引っ越したんだよ、確か去年の暮れあたりに」
「へえ。どこに?」
「同じ町の中だったと思うんだけど。…ないな、転居通知の葉書」
「手帳ごと宿舎、とかじゃないの?」
「かも知れん」
トオマワリは思い出したように顔を上げて初夢さんとあたしを見た。
「ちょっと探してくるよ」
彼が言うと初夢さんが思いついたように腰をあげた。
「わたしも行く」
「姐さんは、別に」
「まあ、いいじゃないか」
「だけど、二人で行ったって仕方が」
「いいじゃないか、わたしと君の仲じゃないかあ」
「離せ」
困った顔のトオマワリは、少し面白かった。
「二人で行けばいいじゃない」
横から決定打のようにあたしが口を挟むと、初夢さんは思いがけない顔でこっちを見た。軽い目配せ。
「あたしも、ちょっと桑納さんのところに顔出さなきゃならないし」
「なんだ、お前さっき行ったんじゃないのか」
「いや、まあ、忘れ物、みたいなものよ。ついでにごはん食べてくるから」
初夢さんがトオマワリの顔を見上げる。
「そのあいだ、初夢さん一人にしておくのもかわいそうでしょ」
トオマワリは余計なことを言うな、という風にあたしを軽く睨み、それからあきらめたように初夢さんのほうを見た。

お先にどうぞ、と二人を送り出して、あたしはしばらくぼんやりした。
何も考えずにオペレータ用の椅子に座って、全面の広い窓を眺める。
傾く背もたれに身体を預け、あたしは、うううう、と深く息をついた。


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