晴れた空と洗濯物
さかのぼって8月31日・正午



 かつかつと、よく響く鉄の階段を鳴らしながら屋上に上って来た彼女の声。
彼女が抱えている洗濯物の篭。馬鹿みたいに晴れた空。古い物干し台。
「ねえ、聞いてよ」
 篭に山盛りになった洗濯物の脇から顔を出す彼女。膨らませた頬。
「ねえ、いるんでしょ?」
洗濯物についての文句を言う時でも何処か楽しげな声を出す彼女。
 自然な感じで真ん中から分けられた短めの髪。部屋着のようなパーカー。
 全く彼女は洗濯物を抱えていたりするのが似合う。
「ねえ、修二くんってば。
 …修二くん、いるんでしょ?
 返事してよ。…どこ?」
 篭を抱えたまま狭い屋上を捜し回る彼女の声はまるで素直だ。
僕が無視しても彼女は、疑わずに捜し続けるに違いない。
 僕はほんの少しだけまどろみながら彼女の声を聞いていた。
返事をしなかったのは意地悪をしようと思ったわけではなく、まどろんでいただけだ。
僕の居場所を見付けた彼女がまるで、子供のように小走りに寄って来る。
彼女は、給水塔の影に寝転がっている僕の頭の上まで来て僕を見下ろした。

「修二くん、なんでいっつも隠れてる訳?それも毎回別のところにさぁ。
 そういうことばっかやってると変人扱いされるよ、恭平のアホみたいにさ」
「…隠れてたわけじゃないよ。単にここが落ち着くだけの話でさ」
 半覚醒の状態で答える僕に、彼女は裏返したような高い声を出す。
「ここで?…こんなに狭いのに?」
 マコト。
それが彼女の名前だ。年令は僕と同じくらいで背は僕より一回り小さい。
 名字は知らない。無いと本人からは聞いた。その時は冗談だと思ったが、もしかしたら本当なのかもしれない。その辺りはよく分からない。そのことを詳しく聞けるほど僕は彼女と親しくない。
 けれど彼女といると、知らない内に引き込まれる。
彼女と同じ性質の人生を共有しているような、そんな錯覚が僕を包む。
 今のままで十分幸せで、何一つ不足もなく不満もないような、そんな錯覚だ。
 現実は、全然違うというのに。

「美月がね、なかなかくつ下を洗濯に出さないの。いっつも毎日出せって言ってるのに。
 …今日なんて美月のくつ下だけで十五足だよ。信じられる?
 きっとあたしが美月のこと甘やかしてくつ下沢山あげたのがいけないんだわ」
 十五足!とマコトはため息を吐くように空を仰いだ。
「あたし、こんなにたくさんのくつ下洗濯したの初めて」
彼女は僕の横に腰を下ろし、喋りながら素直な髪の毛をかきあげる。
 美月さんというのはマコトの父親(養父なのか?)で、男らしい髭の四十男だ。
MMSの美月良一といえば、その筋ではちょっとした有名人だということを、僕はつい最近まで知らなかった。この街の中での捜し物なら、たとえそれが人であれ物であれ、見付けにくいものであればあるほど美月さんに依頼するのが一番確実だ、と恭平に聞いた。
そのMMS事務所、ついでに言うのならばマコトと美月さんの住居も、このビルにある。
「修二くん、くつ下何足ぐらい持ってる?」
 マコトが僕の顔を覗き込む。五、六足ぐらいだよと答えると彼女は、やっぱりうちが多すぎるのかなぁと、愚痴のようにぶつぶつ言いながらもう一度空を見上げた。
 彼女のそばにいるのは気持ちがいい。
本当に引き込まれる。きっと彼女はすくすくと大きくなってきていて、今がとても幸せなのだろうと思う。現実に希望を抱いていて、決して絶望していない。平凡ということに満足していて、それを幸せだと感じることが出来るのだろう。彼女を見ているとそう感じる。
 風がびううと強い音を立てた。
冷たい風が、晴れていてもやはり今は冬だと僕に思い出させる。
 首をすくめるようにマコトが目をつぶり、寒い、と呟いた。
「…今度、外に野球でも観に行かないか」
 不意に僕は言った。まさに、言葉が口を衝いて出たという表現がぴったりだった。
自分でも思いがけなかったその言葉を口にすると、マコトは風で乱れる髪を片手で押さえながら目を細め、すごく遠くを見るようにした。不意に、溌溂とした仮面がとれたようだった。そんな顔をするマコトを、僕は初めて見た。
「…無理だよ」
 ずいぶん長い間黙って、彼女は小さく言って微かに笑った。
もしかしたら、僕が今までマコトに抱いていたイメージというのは、勝手な思い込みだったのかもしれない。そう思った。

 それからマコトは黙って洗濯物を干し、僕は黙ってアーケードの屋根を見下ろしていた。僕は彼女に何を言っていいのか分からなくなり、小さな声で帰るよと告げて帰った。
 よく鳴る鉄製の階段を降りながら僕は、もう一年もこのアーケードから出ていないなあと、ぼんやり考えた。
 部屋に帰ると、一ヵ月ぶりに寺田さんから連絡が入っていた。
僕は、もう一度、自分の現実の確認をやり直す。
 そう、これが僕の現実。こっちこそが僕の現実なのだ。

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