[4] 昼食をとる。
9月10日・昼
あたしの一日の大半はこのビルの一階で過ぎてゆく。
この、金網で仕切られたカウンターの内側に座って来客を待つのがあたしの仕事だ。
いくつの頃からこうして美月の手伝いをしているのか正確なところはよく思い出せない。
15の頃?16だっけ?
やっぱりきちんと思い出せない。あたしは本当に時間感覚に疎いみたいだ。
でもあたしの年齢だって、本当の所はかなり怪しい数字なわけだし、まあ、とにかくあたしは何年か前からここに座っている。それが言いたかっただけだ。
もうこれはあたしの生活の一部になっている。
美月のところに来るお客の中にあまり若い人はいない。若くて三十台、中心は四十代五十代の人がほとんどだ。修二くんや宗谷さんに言わせるとあたしはひどく年齢当てクイズが苦手らしいから、あまりアテにはならないかもしれない。でも、あたしの見るかぎり若い人はいない。
若い人にはきっと、美月に頼んでまで探してもらいたいようなものがないのだろう。
あたしはよく、そう思っている。
あたしはカウンターに頬杖をつきながら、屋上の洗濯物のことを思った。
今日は天気がいいから、きっと、洗濯物の乾く音まで聞こえるに違いない。
ぼんやりとそんなことを考えてあたしは入り口を見ていた。修二くんはまだ来ない。
お昼までには来るって言ってたのに、あいつはいっつもきまぐれだ。
あたしは思わずため息をつき、そんな自分を意外に思った。
<あんなやつのこと、そんな心待ちにすることないって>
せっかくお昼ごはんに招待したのに、遅れるなんて失礼だと思う。
誘ってもらえて嬉しいよ、なんて言ってみせたくせに。
あたしはぼんやりと修二くんの醒めたような顔を思い出した。
カウンターの上には書きかけの帳簿と、缶のお茶と、修二くんに借りた伝記がある。
修二くんに借りたこの伝記はちょっと難しすぎてあたしにはよく分からない。学校に行きたかったなと思うのはこんな時だ。アーケードの中にちゃんとした学校はない。
アーケードで生まれ育った子の中には学校に行けなかった(あるいは行かなかった)子が結構多い。あたしは、林先生や美月に教えてもらって一通りの計算や読み書きは覚えたけれど、本を読むのはまだ少し苦手で、ごちゃごちゃした漢字が出てくると少しめまいがする。
だから修二くんは羨ましいな、と時々思う。
修二くんは頭がいい。あたしにいろんな話を聞かせてくれる。
あたしは、たぶん修二くんのことが好きなんだろうな、と思う。
*
結局修二くんが来たのは、あたしが屋上の洗濯物を取り込んだ後だった。
あたしが、気持ち良く乾いた洗濯物を取り込んで一階に戻ると、修二くんは来ていた。
階段を下りて来るあたしを見上げ、カウンターの上に出しておいた「すぐ戻ります」の札をいじくりながら、修二くんはいつもと同じように、やあ、と挨拶するのだった。
「遅れた言い訳、したら聞いてくれる?」
と修二くんは言った。あたしが少し考えてから首を振ると、修二くんは少し笑った。
「…だろうと思ったよ」
「なんで?」
「そんな気がしたんだ。遅れてごめん」
修二くんは平坦な口調で言って、「すぐ戻ります」の札をぱたん、と裏返した。修二くんはいつもあまり表情に変化がない。どんなことでもすごく淡々と話すと思う。
「散らかってるけど、気にしないでね」
あたしはドアを開けながら言った。いわゆる社交辞令だ。食堂は二階にある。
二階は美月のフロアだけれど、食堂にはほとんどあたしが三階から持ち込んだ物しかない。雑誌だとか、料理の本とか、植物だとか。散らかるほどの量はない。
美月はインテリアらしいものをほとんど置かないから、殺風景で息が詰まるくらいだ。
あたしは修二くんの先に立って、料理の手順を考えながら部屋に入った。
修二くんが部屋の中を眺めるその様子が、なんだか猫が匂いを嗅いでいるように見えて、あたしは少し笑った。あたしが笑うと修二くんも、つられたように少し笑った。
「…随分綺麗に片付いてるね」
言われてあたしは、えへへと曖昧に笑い、単純に照れている自分に気付いた。
なんか、こういう会話って、ちょっと恥ずかしいな、と思った。
「なんかさ」
流しによりかかってあたしは言った。
「なんか、修二くんって“おぼっちゃん”みたいだよね」
「なにさ、それ」
修二くんはカウンターの向こうの丸テーブルにきちんと座ってあたしを見ている。今にも膝の上にハンカチを出しそうな感じだ。テーブルに肘をつくわけでもなく、両手はテーブルの下に隠れている。ひょっとしたら両手は膝の上に、というやつかもしれない。
カウンターと、完全なる平行に座っているところが、何だかおかしかった。
「だって招待され慣れてる感じ、するもん。行儀いいし」
あたしは少しだけ笑い、硬直する修二くんの真似をしてみせた。
初めてのレストランで行儀良くする男の子みたい。かわいい、とあたしは思った。
「…これでも…緊張してるんだよ」
言いながら修二くんは、さっきまでの無表情をほどいて少し情けなく笑い、あたしはそれがおかしくて声を出して笑った。
「笑うことないだろ」
「そりゃ笑うよおかしいもん」
笑いながら、あたしはやっぱり修二くんのことが好きなんだ、と思った。
お昼は、修二くんが好きだと言った、ケチャップの炒飯だ。あたしは修二くんの喜ぶ顔を想像して、またひそかに笑った。何だか少し照れた。
「さて、作りますか」
あたしは笑いながら言った。
*
「どう?」
とあたしが言うと修二くんは、出来上がった炒飯とあたしを見比べるみたいにして、本当に意外そうな顔をした。まるであたしが料理を作れないと思っていたみたいに大げさな顔。 その表情にあたしはちょっとした優越感を感じ、腰に手をあてた。
「なかなかでしょ」
斜めにあたしが言うと、修二くんは一瞬遅れて頷いた。
「すごい」
修二くんは、念を押すみたいにあたしの目を見て言った。
あたしがテーブルにつくのを待っていたように、修二くんはやけに真剣な顔をして、
「食べよう」
と、言った。その表情があんまり真剣だったので、あたしはまた少し笑った。
そんなに変わった料理作ったわけでもないんだけど、と思うとなんだか余計嬉しい。
本当に修二くんはかわいい、と思う。
こういう時の修二くんといると、自分が修二くんより年上になったような気になる。
「食べよう」
あたしは午後の空気を感じて、頷いた。
ケチャップの炒飯は、自分でも意外なほどおいしかった。
絶対に、いつもよりおいしかったと思う。
*
そしてあたしと修二くんは、ほとんど静かに炒飯を食べた。
別に喋ることがなかったわけじゃなくて、無理して喋る必要がなかったのだ。
あたしと修二くんは、一緒にいるだけで十分な気がした。とても心がゆったりしていた。
「ごちそうさま」
丁寧に修二くんが言うのを聞いて、あたしはとても不思議な感覚に襲われた。
修二くんとこうしてごはんを食べるのは初めてなのに、初めてじゃない気がしたのだ。
これなら、毎日修二くんと一緒にお昼を食べるのも、いいよなあ、と思った。
そして修二くんの顔を見ながら、あたしはほんの少しだけ美月のことを考えた。
もう、本当に美月とは一緒に食事をしていない。会話だって、もう全然ない。
修二くんが美月だったら良かったのに。美月が修二くんだったら良かったのに。
そんなことを考えた。あたしはなんだか、幸せなような不幸せなような気分になった。
あたしは、今、美月のことを考えているのだろうか、それとも修二くんのことを考えているのだろうか。なんだか、少し、わからなくなった。けれど、あたしの前にいるのは修二くんだ。美月ではない。そう思いながらあたしはスプーンを置いた。
「ごちそうさま」
言いながらあたしは、この時間を大事にしようと思った。修二くんと過ごす時間を、大事にしようと思った。あたしは、修二くんの顔を見ながら、微笑んだ。
たぶん、これはしあわせなんだろう。そう思った。