金魚と手裏剣
初めて溺れた。 僕が溺れたのは学校のプールで、それは丁度一週間前のことだった。初めてプールに入って、そして見事に溺れた。今まで12年の人生のうち、最も驚いた経験だった。 足が悪かったせいで、今まで一度も泳いだことはなかった。もちろん足が悪いというのを不自由に感じることはあったが、クラスの中には足が悪くなくたって泳げないやつがいる。一度も棒高跳びを飛んだことのないやつだっている。生まれてからこのかた一度もケンタッキー・フライドチキンを食べたことのないやつ、生まれて以来一度も駄菓子屋に入ったことのないやつ。色々なやつがいる。たかだか10年と少し生きた程度で、皆が皆、すべて他人と同じ経験をしているわけではない。それは当然のことだと思う。泳いだことがないというのは、特殊ではあるが異常なことではないと僕は思っていた。 しかし、もちろん、そんなことを人に言ったことはない。 言えば言っただけ障害者の僻みだと思われるのがせいぜいだし、それは僕にとってそれほど愉快なことではなかった。だから夏が来るたび僕は、プールサイドに座り、クラスメイトが水しぶきをあげてはしゃぐのを眺めて過ごしていた。足のことがあるので、休んでも構わないと言われてはいたのだが、家にいてもすることがなかったし、友達に会えるのは楽しみだったので、毎日来ることにしていたのだ。 だから別に見学の日々は退屈なわけではなかった。疎外感もなかった。人が楽しそうにしているのを見るのは案外面白かったし、傍観することで見えてくるものもある。あいつはあの子のことが好きなんだな、だとか、あいつは普段利口そうにしているが案外不真面目なやつだな、だとか、普段同じクラスで同じ方向を向いていると知り得ない面が見えるのは不思議だった。教壇から眺めると、授業中に漫画を読んでいたりする生徒は一発で判る、というのは多分本当なのだろうと思う。 日射病にならないよう、青いシートで作られたひさしの下で、僕は足を投げ出して座っている。脛の裏がざらざらする。日に当っていた部分の地面は暑くて肌が張り付きそうだ。二時間続けての授業だと、太陽の位置は少しづつ変わる。日に焼けるのは嫌いではないが、ひなたに座っていると時々気分が悪くなってしまうので、授業が始まってから終わるまでに何度か、座る位置を変えなくてはならなかった。僕はなるべく体を小さく、日陰の奥に寄せてプールを眺める。水音、嬌声、蝉の声。いろいろな音が聞こえてくる。 さっき、疎外感はないと言ったが、それは先週までのことだった。最近はさすがに少し疎外感を感じることがある。先日の一件以降、僕は監視されているのだ。自業自得とはいえ、それは気持ちのいい視線ではなかった。監視されると言うのは、単に並んで授業を受けられないというより、よっぽど疎外感を感じるものだった。 トイレに行きたくなって僕は立ち上がった。プールサイドにいた先生が、立ち上がる僕を見つけて、少し身構えたような表情を見せる。 「トイレです」 僕は少しうんざりしながら答え、自分がプールに近付かないということを必要以上にアピールした足取りで、暑いコンクリートの上をトイレに向かって歩いた。プールの中からも、幾つかの目が僕を見ているのがわかった。僕は絶対にそっちを見ないようにして、よたよたとトイレに向かった。心の中で僕は何度も悪態をついた。 僕が自殺なんてするわけがないじゃないか、ばかやろう、ばかやろう、ばかやろう…。 僕が溺れたのは、不慮の事故ではなかった。 僕が、自分からプールに飛び込んだのだ。勿論、僕は自殺するつもりではなかったし、暑さで意識が朦朧としていたわけでもない。少しふざけて飛び込んだだけだったのだ。しかし、プールの底は思ったよりもつるつるしていて、足が滑った。足がつくはずの深さだったが、それは思ったより深く、自由にならない方の足は、滑った体を修正するには踏ん張りが利かなかった。僕は水面に対して垂直に飛び込み、そのままつるんとプールの底に落ちた。プールの底に背中が触れる感じがした。自分の吐き出した空気の泡がごぼごぼごと水面に上がってゆくのが見えた。ああ、あれは、僕が浮かび上がる為に必要な空気だ、と、僕は冷静に理解した。ヘリウムの抜けた風船はもう空を飛ぶことはない。自分はこのまま沈んだままなのだと理解した。溺れるのは初めてだったが、不思議な感覚だった。苦しくはなかった。水が鼻を通り抜けて体の中へ流れ込むのは不快だったが、咳き込むこともなかった。水の底から見上げた空は、変に青かった。これは水の色が混じっているのだろうと思った。空の青に水の水色が混じっているから、青さが増しているのだ。僕はたっぷり青い空を眺め、それから太陽を探した。なんだか物凄く奇妙な方向に見えた。まるで僕の足元の方だ。光が歪んでいるんだろうか。その太陽は見つめてもまぶしくなかった。 僕を水から引きずり出したのは、先生だった。たくましい、頑健な、体育大学卒の男の先生だ。不思議なことだが、水の中にいた時よりも、水の外に出された時の方が苦しかった。塩素に目が染み、僕は水を吐きながら、ひどく咳き込んだ。したたか水を飲んでいたものの、自力で吐き出したおかげで、男の先生から人工呼吸を賜るまでには至らなかった。先生は、目を覚ました僕の頬をつよく叩き、ばかなことをするんじゃない、と少し涙ぐんだ目で怒鳴った。それが決定的だった。ぐったりしていたのと、叩かれて驚いたせいで、僕は誤解を解き損ねたのだ。 噂によると、僕は先週、自殺を図ったことになっているらしい。 その噂が学校の中でだけ流れるのなら、別にどうでもよかったが、塾や病院にまで広まっているのには閉口した。塾の講師は普段話し掛けないくせに、「何か悩みがあったら相談しなさい」だのと言ってくるし、医者は態度にこそ現さないが僕の前から診療器具を遠ざけるようになった。とがっている物が満載のトレーが、さりげなく僕から遠ざけられているのを見ると、まるで自分が本当に自殺願望のある人間のように思えてきてなかなかうんざりした。 それまで普通に接していた友達までもが、なんだか距離を置き始めたように感じるのは僕の被害妄想だろうか。夏休みの、プールの授業だけの登校日が急速に居心地の悪い物に変わってゆく。暑い午後に、涼しい水辺ですごすのは悪くない楽しみであったのに、残念だった。僕は自分の軽はずみな行動を悔やみ、反省した。やはり僕の足が悪いというのは厳然たる事実で、忘れてはいけないものだったのだ。 トイレから戻って、僕は、なるべく彫像に見えるように、あまり動かずにすごした。呼吸の数を減らしていることが知れたら、やはりこれも自殺しようとしていると思われるのだろうか。トイレに立つ度にいちいち断わるのも億劫なので、水を飲む量も減らしているのだけれど、これも、知られたら断食自殺への第一歩だと思われるのだろうか。時々こちらに視線を投げる先生の顔をみながら、僕はため息をついた。 それから一時間あまりを、僕は彫像として暮らし、そして帰宅した。足のせいで、動くのもそれなりに厄介だが、まったく動かないでいる、というのもそれはそれで厄介なことだと思った。今年の夏はまだまだ続く。晴ればかりだ。 プールの授業はまだ続くのだった。 * テリケンのことを話しておこうと思う。テリケンという珍妙なあだ名をつけられているのは女子で、しかもそれが悪意のあるあだ名ではないというのが不思議なところだ。彼女の本名は「本橋理緒」で、「テリケン」に変形させるには無理がある。それは本名をもじったあだ名ではない。 また、そのあだ名は彼女の外見を揶揄してつけられたものでもない。テリケン、という言葉で何を揶揄するのかはわからないが、テリケンは小さいみつあみを二つつくってデニムのスカートをはく、どこにでもいる普通の女子だった。むしろ人気のある、明るいやつだ。 さて、実は、テリケンのあだ名の由来は、漢字の読み方だった。以前テリケンは、「手裏剣」のことを間違えて、「テリケン」と読んでしまったのだ。しかしその間違いはまだ低学年の頃に起こったものだったので、皆は彼女の無知を笑うというよりは、テリケン、という言葉の響きの愉快さに興味を持ったようだった。誰ともなしに彼女はテリケンと呼ばれはじめた。かくして彼女がテリケンと呼ばれることになり、もう何年かが経つ。それはもはや揶揄である意味を完全に無くし、ただのあだ名へと進化を遂げた。 そして、それは僕がプールで溺れてから一週間と一日が過ぎた日のことだった。 いつもどおり彫刻の真似をしようと、プールサイドに続く階段を上ると、いつも僕が座るところにテリケンが座っていた。僕は階段の熱い手すりを掴んだまま彼女を見た。クラスメイトの中には、僕が自殺しようとしたというデマを本当に信じているやつもいる。テリケンはどっちだろう。あまり、下らないことを信じるようなやつではないはずだったが、用心するに越したことはないと思った。 授業が始まるまでは、まだ何分かあった。皆は先にプールに入って遊んでいた。先生はプールを見渡し、一足早い準備体操をしながら、時折こっちを見ている。僕はその視線を感じながら自分の定位置に近付いた。テリケンは、プールの方を見ていた顔をこっちに向けて、よ、と挨拶をした。挨拶をしてよいものかどうか疑っていたところだったので驚いたが、なんとか、うん、と返事をする。テリケンの様子は案外普通だった。 「お前、今日、休み?」 「うん」 テリケンは少しだるそうに返事をしてプールの方へ向きなおした。みつあみに加わりそこなった髪が幾筋か、汗でうなじに張りついていた。紺のタンクトップから伸びた、よく日に焼けた腕が汗を拭った。今日も暑い。僕は少し距離をおいて腰をおろし、足を投げ出した。背中がわの緑色の金網に背中をもたれさせると、ひんやりしているような熱いような、奇妙な感じがした。 プールの方では、先生が授業をはじめるホイッスルを吹いて、皆が水から上がっているところだった。テリケンは不意に、小さい声で尋ねてきた。 「野田はさ、本当に自殺しようとしたの?」 咄嗟に返事が出来ない。遠回しに気を遣われたり避けられたりしてはいたが、こう単刀直入に訊かれるのは先週以来初めてで、どきっとした。自殺、という言葉は音として聞くとなかなかに威力があった。 「……いや」 僕はしばらくその威力を味わってからようやく答えた。 「そんなわけないじゃんか」 「だよね」 頷いたテリケンがプールを眺めたので、同じようにした。皆が上がったあとのプールは、水面も落ち着いていた。トンボが飛んできて、プールのヘリにとまった。蝉の声に混じって、どこかでラジオの音が聞こえてきて、プールサイドでは準備体操が始まった。 自殺云々について、もっと追及されるかと思ったが、テリケンはそれ以上訊かなかった。僕らは並んで準備運動の様子を眺めた。そして、皆が再び水に入るころを待っていたように、再びテリケンが、あのさ、と口を開いた。少し低い声は、プールを挟んで反対側の話し声や水音にまぎれてゆく。何か、聞かれたくないことでも話すのだろうかと思って顔を見たけれど、なんだか別に思いつめたような顔ではない。僕はもう一度、確かめるようにテリケンの顔を眺めてからプールに目を戻した。 「私も昔、溺れたことがあってさ」 「ふうん」 しばらくの沈黙。テリケンは考えるような顔をしていた。あまり長く黙っているので、だからなんだよ、と聞き返そうとすると、彼女は思いついたように顔を上げた。 「……野田、溺れたかったの?」 「はあ?」 「私、溺れたとき、なんかちょっと気持ちよかったんだよね」 「……」 「あのさ」 テリケンは、少しじらすような素振りを見せた。顔をプールに向けたまま、ゆっくりとした口調でその先を続ける。 「これ、誰にも言うなよー?」 「なんだよ」 「溺れた時、私、前世が見えたあ」 声にあわせ、勢いよく振り向いてテリケンは僕の顔をみつめた。瞬間だけ真剣な顔をしていたが、すぐに暑そうな、だるそうな顔に戻る。僕の反応が薄いのにがっかりしたのだろうか。それとも単に、それほど真面目に話していないのだろうか。 「…野田、笑わないね」 「いや、」 「でも、まあ聞け、まあ、まあ、聞きなよ」 テリケンは慎重な仕草で柵の方へ後退り、片手で金網を掴んだまま息をついた。 「私、海で溺れたんだけど、森が見えたんだ。蔦がいっぱい絡まった森。私は木と木の間を落ちてくの。ゆっくり、落ちてくんだよ。映画みたい。本当、不思議だった」 そして、声を潜め、厳かに告げる。 「…多分、私の前世はお猿だ。木から落ちて死んだんだ」 そこで僕はうっかり少し笑ってしまった。 テリケンと猿はあまり結びつかない。テリケンは、猿というよりは、もっと可愛らしい動物に似ていると思った。テリケンの本名を思い出す。本橋理緒。余計猿には似合わない。 「笑ったね」 「ごめん」 「いや、いいんだけどさ、皆笑うし、誰も信じないしね」 言いながらテリケンは手に持った水色のタオルを口元にあてた。笑った理由を弁解しようかと思ったが、恥ずかしいのでやめた。代わりに僕は、柵の際に生えた雑草をむしって、水の中で見たもののことを思い出した。青い。青かった空。太陽が見えた。苦しくなかった。など、など。 「野田、何か見なかった?」 テリケンはタオルを口にあてながら、横目で僕のほうを見た。何か言おうと思ったけれど、胡散臭くなりそうで困った。何も見なかったといえば何も見なかったのだ。見たのは空と水と太陽だけ。僕の前世はまさか鳥か?それとも、単にプールで溺れて死んだ子どもだろうか?じれったそうな様子の彼女に負けて、僕はしぶしぶ返事をした。 「空を見たよ」 「空」 そのまま返すテリケンの顎は、プールの方を向いている。明らかに生返事だった。プールの方では、この夏で一体何メートル泳げるようになったのか、順番に計測が始まったようだった。計測の最初の方に泳ぐのは、あまり泳げないグループである。 「あ、見なよ、春ちゃん頑張ってる、おっ、すごい、5メートル泳いだよ」 テリケンが感嘆したように言って、背後の金網を軽く揺すぶった。泳いでいるのは春山だった。春山というのは背の小さい、テリケンと仲のいい女子だ。応援するならもっと大きな声で応援してやればいいのに、と僕は思った。思ったが口には出さない。僕は黙ったまま目を凝らし、泳いでいる春山を見た。沈みそうになりつつ、ばしゃばしゃと、水を跳ね上げて春山が泳いでゆく。やがて水音が止んで、ぽっこりと水面から春山の頭が浮かび上がった。立ち上がったようだった。水泳帽が、団子に結った髪の形に盛り上がっている。春山は顔をぬぐって、自分の泳いだ距離を振り返った。がっかりしているのか、自慢に思っているのか、表情まではよく見えなかった。 その様子を見て、テリケンが金網を掴んだ手を戻した。 「あー、残念。……でも、春ちゃん、七メートルくらい泳いだよねえ。偉い、偉いなあ」 握ったタオルを軽く伸ばしながら呟くそれは、それほど熱のある言い方ではなかった。一度皺を伸ばしたタオルを畳み、テリケンはうちわのようにして軽くあおぐ。 「ごめん、溺れて空を見た話だったね」 「……うん」 「でもさ、野田、溺れた時、上向いてたっけ?」 思いもよらないことを言われて僕は驚いた。テリケンは、何かを透かすような目をしてプールを眺めている。 「先生が引っ張り上げた時、野田の背中見たよ、私」 「え?」 「だからうつぶせに浮いてたと思ったんだけど」 「ちょっと待った」 僕はテリケンの横顔を見た。テリケンは、何かを言いかけたまま、びっくりしたように目を丸くしてこっちを向いた。自分の言ったことの意味に気付いたらしい。うつぶせに溺れていたとしたら、僕が空を見ているわけがないのだ。 「うわ、怖―」 「怖いって、お前、テリケンが先に言い出したんじゃないか」 「そうだけど」 「いや、でも」 僕は考えながら膝を立てた。プールではまた誰かが泳いでいる。水音は止むことがない。健康的な音だ。蝉の声は暑苦しいが、やはり今は健康的な夏の日の午後だ。 「でも水の中、吐いた空気が上がってくのを、見たような気がするけど」 「え?」 「やっぱり、僕が見てたのは空じゃないかな」 「うーん」 しかし、どちらにせよ僕はうつぶせになった記憶がない。不思議なことだと思った。どこかで記憶が飛んでいるのだろうか。判らなかった。 テリケンは、いつのまにかあおぐのをやめていた。髪の生え際に、汗がふつふつと珠になっていた。それにしても暑かった。ひさしを透かして太陽に照り付けられているようだ。まさかな、と思いながら屋根の青いシートを見上げ、水の中から見た空の色を思い出した。 「……青かったよ」 「何が?」 「水の中から見た空は、なんだかすごく青かった。こんな色で」 青いビニルを指さすと、テリケンは両手を背中の方についてそれを見上げた。見上げ、顔を戻し、彼女は何かを言いかけた。 「ねえ、何話してんの」 不意に声をかけられてぎょっとすると、僕らの前には春山が立っていた。それは、少し息を切らせたような表情だった。誇らしげのような、それでいて、少し不安なような不思議な表情だ。僕らは日陰の中に、春山は日差しの中にいる。日差しを背負うような春山の半身は、陰と光のコントラストが強すぎてまるで油絵のように見えた。どうやらプールから上がり、目を洗ってきた後らしい。水着が濡れているのは判ったが、もう、水がたくっていることはなかった。ここへ来る途中についたはずの足跡も、もう乾き始めている。僕は、春山が僕とテリケンとどっちに話し掛けたのか判らずに、しばらく彼女の顔を見つめるばかりだった。 「春ちゃん、やったね、凄いじゃん。すごい泳いでたよ」 テリケンがタオルを首にあてながら声をかけた。春山は位置が気になるのか、水泳帽の髪のふくらみに手をやって、直すような仕草をした。 「まあね、練習したからね」 「見てたよ」 僕は、自分がクラスの皆から敬遠されている身だということを思い出し、なるべく控えめにコメントを入れた。春山はちょっとだけ驚いたようにこっちを見た。 「今ね、春山のことを話してたんだよ」 テリケンは目配せするような顔をしてぽんと言った。僕にしたのか、春山にしたのか判らない目配せだった。そして、それを聞いて春山が目を丸くした。 「ウソ」 「ウソじゃないよね、野田」 とっさのことで答えられずにいると、春山はまるで目をそらすようにして日のあるほうを向いた。彼女の顎の先には、まだ泳いでいないクラスメイトたちが順番を待ちながら座っている。その奥の日陰には、泳いだ子たちが三々五々に座っている。春山はもう一度帽子の中に指を入れながら僕たちの方に向き直った。 「じゃあ、理緒ちゃん、後で、またね」 「一緒、帰ろうね」 春山は、テリケンのことを名前で呼ぶ数少ないやつだった。そして春山は、皆の方へ戻る前に、一度だけこっちを見た。何か言いたそうに、少し開いた唇から、前歯が覗いた。 足の裏が地面に付く面積を減らすためだろうか、爪先立ちみたいに去ってゆく春山を見ながら、僕は目を細めた。あまり泳げない春山がうまく歩く。まるで踊るみたいに歩く。歩くのと泳ぐのは別ということだろうか。僕は自分の足を軽く叩いた。 「でも、もしかしたら野田が見たのも、前世かもね」 春山が向こう岸で座ったのを見て、テリケンは呟いた。 「?」 「野田の前世、こういう青いシート張った水槽にいた魚だったりして」 「そんな水槽あるか?」 僕が想像できずにいると、テリケンは含みを持たせて笑った。うっふっふ、とわざとらしい笑みを浮かべ、テリケンはタンクトップの肩を直した。 「おまつりの、金魚すくいとか」 あまりに突拍子もなく、あまりに的を得た連想に、あっけにとられてしまった。前世なんてただの冗談だと思っていても、あまりに辻褄の合う説明じゃないか。じゃあ、僕が見た眩しくない太陽は、屋台を照らす電球なのだろうか。 もしかしたら、テリケンは只者ではないのかもしれないと思った。 「野田は、前世、金魚」 うふふふふ、とテリケンは歌うみたいにして、楽しそうに笑った。そしてひとしきり笑った後、口元にタオルを当てた。 「春ちゃんってさ、野田のこと好きだよ、多分。言わないけど判る」 唐突だった。そしてそれは、真面目な声だった。春山に頼まれたような感じではなかった。それはまるで、喉元に突きつけられたような感じだった。返事をしないわけにはいかないような、そんな厳粛な声だった。 急に蝉の声が大きくなったような気がした。僕は、なんと返事をしようか悩み、思いつかなくてもう一度テリケンの顔を見た。 「だから、あんまり心配されるようなことしちゃ駄目だよ、野田」 テリケンは人を食った顔で僕を見返し、うふふ、と笑った。何か言おうとしていたはずのことが消えてしまった。春山が僕のことを好きだったらどうした、と切り返すほどつまらないやつではないつもりだったが、どうやら僕はそういう類のことを考えていたらしい。<だから>と続けられて、僕は言うべきことをなくした。僕は、まったくもって何を言っていいのか判らなくなり、ただ、足の間の地面に目を落とした。 僕は金網につかまりながら立ち上がった。春山のいる方を見ないようにして、僕はプールを眺めた。春山と目が合うことを考えると、恥ずかしかった。どんな顔をしていいのか判らない。プールでは順繰りに泳ぐ皆のバタ足を吸い込んで水が波立ち、こちら側の水面までがまるで海のように上がったり下がったりしている。 立ち上がった僕を見とがめて、記録をとっていた先生がこっちを向いた。やっぱり身構えるような顔だった。 「トイレですよ」 僕はうんざりして少し大きな声を出し、プールから顔を背けた。 「野田、トイレ行きたかったの?」 「行きたかないよ」 「はは」 「でも、言っちゃったし、行かなきゃ仕方ないだろ」 テリケンは僕を見あげてまた笑う。 「ちょっと立つたびにあんな顔されると、参るよな」 僕がため息をつくとテリケンは目を細め、先生の方をにらむようにして見てから、顔よく見えない、と呟いた。 「私、目が悪くなったよ」 「そうか」 僕は頷いて、息をついた。テリケンは目の上に手でひさしをつくりながら小さく呟く。 「まあ、あんまり心配させんなよな、野田」 テリケンは僕の脛を軽く叩いた。叩かれて、僕は今朝まで感じていた疎外感が一遍に消えてゆくのを感じた。 そして、テリケンはなかなか特別なやつだ、と思った。 |