<村上スズイチの夏休み>
(1)
放課後を待たずに呼び出された三時限目の屋上。
あまりにも暑く、風も止まり、殴り合いする気も失せる七月最後の木曜日。
仁王立つ俺の耳には田舎臭い蝉の声と、校庭を走る一年生の声と、ブルーハーツの歌だけが響いていた。
ひたすら暑いだけの太陽。
俺をにらむ体格のいい三年生の坊主頭。
ネクタイを緩め、深呼吸をして俺は、これが青春だ、と思った。
出欠点呼の風景。うだる蝉の声。
村上スズイチの名前を呼んで、もう初老とは呼べない歳の教師は眼鏡を直した。
…村上ぃ、村上スズイチぃ、と、少し間の抜けた呼び方で名前を繰り返し、教師は空っぽの彼の席を見た。
クラスの誰かが伸び上がるような声で、村上は喧嘩でェす、と言った。
おどけた言い方に、クラスからほんの少し失笑が漏れる。
あいつはまた喧嘩かぁ、と教師は同じ調子で呟き、次の生徒の出欠確認に移った。
一番後ろの席に座る軽田ミヤコはつまらなそうにそのやり取りを聞いた。
教師が次の生徒の名前を呼ぶ声を聞いて、彼女は唇を曲げる。
傍の席でひそひそと、村上ってば無駄に元気だよなあ、と話しているのが聞こえた。
ガガガ、とわざと椅子を引きずって、軽田ミヤコは立ち上がる。
「あたし村上くん、見物に行ってきまーす」
夏らしい声で宣言して隣の席の男子をちらりと一瞥し、彼女は彼らに背中を向けた。
教師が出欠簿から目を上げる頃には、セーラー服の裾を残像に残すばかりで、もはや彼女はいない。
空っぽになった彼女の席を見て、教師は鉛筆をなめる。
軽田ミヤコ、三時限目欠席、とぉ。
独り言のように出席をつけ終わり、教師は授業を始めた。
「今日は昨日の続きだなぁ」
白墨を持つ教師の背中で、窓際の生徒達はいっせいに窓の外に顔を向ける。
昇降口からミヤコが、たっ、たっ、たっ、と気持ちの良いリズムで走り出てきた。
風のない校庭に、走る彼女の髪が真っ黒く映えた。
校庭の真中あたりまで来て、彼女は周りを見回す。
太陽に手をかざしながら、軽田ミヤコは窓に連なるクラスメートたちを見た。
まぶしそうにする彼女の視線は、窓から上へと移動する。
そんな彼女の動きに合わせるように教室内では、生徒達がいっせいに天井を見上げた。
「こらァ、授業ちゃんと聞いとかんとォ、夏休み明けで痛い目見るぞォ」
少し田舎訛りのある教師の声が二年二組に響く。
日差しの照りつける校庭では、ミヤコが再び校舎の方に走り出した。
きいん、と耳鳴りがした。
出会い頭に喰った一発が俺の頭から蝉の声と鼻歌を吹き飛ばす。
襟首掴まれたまま、がつんがつんと殴られて、おまけに頭突きまで喰らって俺は倒れた。
いやにあっさりと負けた。
俺を見下ろして、お前懲りんやっちゃのう、とそいつは言った。
野球バカのくせにうるせえ、と見当違いなことを言う俺に少し哀れむような目を向けて、俺ァ剣道部じゃ、と坊主頭が吐き捨てた。
黙れハゲ、と負け惜しみのように俺は這いつくばりながら言う。
片方のまゆげを上げる坊主。
つかつかと坊主が脇まで近寄ってきた。
唾でも吐きかけてやろうかと思っていると、坊主が思い切り俺を蹴飛ばした。
あんまし生意気なことばっかり言うとると、終いには本気にしばきあげるんぞワレ。
咳にまみれながら転がる俺に、坊主の捨て台詞が響いた。
やがて坊主の去り、ひとり残された屋上。
じりじりと太陽が俺を焦がす。
転がりまわる痛みがひいて、身体は仰向けになおり、俺は行ってしまった青春を思い出していた。
また、寸前で逃げられた。
喧嘩の前の高揚は所詮アドレナリンの分泌でしかない。それを充実感と錯覚し続ける俺には進歩がない。
今の俺に残っているのはただ、殴られた痛みと退屈ばかりだ。
一体どこに俺の青春があるんだろう。
喧嘩の前の一瞬は、生きているという実感の尻尾だけを覗かせるばかりだ。それ以上でも以下でもない。
喧嘩で本当に、生きている実感がつかめるとは思わない。
けれど、他に俺はやり方を知らない。
知ろうとも思わない。
じりじりじりじりじりと蝉が鳴く。
蝉が暑苦しいのは太陽と同じ音を出すからだと唐突に思った。
痛ぇな、畜生。
俺は不意に痛み出した頬をさすった。
死ぬほどじりじりする。
一体なにやってんだ、と俺は太陽を仰ぐ。目が痛くて、あけていられなくなる。
なにやってんだ俺。
俺はもう一度声に出さずに呟く。
ばたん、と派手な音を立てて屋上のドアが開く。
同時に、やあ村上くん元気かね、と軽田ミヤコの声がした。
女が顔を出した瞬間、蝉の声が余計喧しくなる。
今階段で柿島先輩に会ったよ、とつかつか気楽な調子で軽田は近寄ってくる。
俺は唸って体を起こした。
太陽を見ていたせいで、軽田の白い顔が真っ黒に見えた。
うるせえなと吐き捨てると風が吹いた。
ボロ負けっぽいね。
傍らに立つ軽田の言い方には容赦がない。
なにか不良っぽいことを言いかえしてやろうと思ったのだが、口の中が切れて痛いので止めた。
村上くん喧嘩好きだねぇー、弱いくせに。
転校して最初に知り合いになるのはいつもこの手の、同い年の癖に年上ぶるような女だ。
好きなわけじゃねえよ、と俺は軽田ミヤコをにらんだ。
段々目が慣れて、軽田の細い目と、大きな口が見えるようになる。
顔を形作る部品のアンバランスさが、妙に見るものをひきつける。
軽田ミヤコは紙一重で美人の部類だ、と俺は不意に思った。
だったら何で喧嘩なんてするのさぁ。
軽田ミヤコの声は、答えを期待しているのかどうか判らない。
返事する義務なんてないと思いながら、俺は聞き返した。
お前はなんで俺を追いまわすんだよ。
さぁ?
さぁ、じゃねえだろ。
うん、まあ、ねえー。
首を傾げられて、俺は閉口する。
いとも簡単に、さぁ?と答えた軽田ミヤコの軽さに、黙って嫉妬した。
自分のすることに意味を求めるのは、無意味だ。
ぐるりと回って元のところに戻ってくる。
意味が無意味を生んで、無意味が意味を生む。
じゃあ、無意味と意味は、どっちが先なんだ。
血ぃ痛そう、と軽田ミヤコが俺の顔を見て言った。
手をやると、頬にざりざりと砂の感触がした。
手のひらについた砂なのか、頬についた砂なのか、よく分からなかった。
延々と蝉の声は続いている。
じりじりじり、と急かすように蝉が鳴きつづけている。風は止まったままだ。
風が吹いたら傷は、ひりひりと痛み出すだろう。
軽田はこの糞暑い中にいても、教室の中にいるのと同じような顔をしている。
お前俺のこと好きだろ、と、ふと言ってみた。
一瞬呆気にとられたような顔をして、軽田ミヤコはくくっと笑った。
まぁ、他のクラスメートよりはだいぶね、と軽田ミヤコは言った。
とたんに自分で言っておいてどんな顔をしたらいいのか判らなくなり、とりあえず俺は傷が痛んだふりで顔をしかめる。
訳もなくイライラした。
太陽を背中にして、顔に影を作り、軽田は声を低くして言う。
「きみのそのジリジリしている様子に、あたしはとても興味があるのです」
知るか馬鹿、と反射的に俺は言った。
なぜだか、全てを見透かされたような気がした。
その感覚にイライラしたら、坊主頭の憎たらしい顔が、ぽかんと浮かんできた。
好奇心は人間が進化した最大の理由なのです。
軽田は教会の神父のような口ぶりで目をつぶった。
だからって人のこと追いまわすんじゃねえよ。
言うと目をつぶったままの大きな口が軽く開いて、前歯がちらりとのぞいた。
不意に、魔法でもかけられるんじゃないかというくらいの恐怖が俺を襲った。
馬鹿、不細工、あっち行け。
きみはあたしの、と言いかける軽田ミヤコの先手を打って悪態をつき、俺は立ち上がる。
どこ行くのォ、と伸びる軽田ミヤコの声を背中に、俺は太陽を見上げた。
軽田ミヤコは、ぽかんと村上スズイチの去った屋上で髪をいじった。
ぬるい風が彼女の長い髪先を少しだけ揺らした。
なんだよう、と一人言のように彼女はスズイチの後を追う。
扉を開け、明るい屋上から急に室内に入ったせいで目がくらむ。
しばらく目をぱちぱちさせて目を慣らし、彼女はとんとんとんと軽く階段を下りた。
折り返す踊り場のところでちょうど、ぬおお、と低い叫び声がとどろいた。
暗い足元から、弾かれるように視線を上げてミヤコは階段を一気に飛び降りる。
たぁん、と小気味よい銃声のような音を立てて彼女は廊下に降り立った。
階段よりはるかに明るい三階の廊下で、制服が二人絡み合っている風景が目に飛び込んでくる。
こんにゃろう、と村上スズイチの声と、てめえ、と柿島明人の叫びが響く。
ミヤコは一瞬、絶滅したはずの熊を目撃した動物学者のような表情になった。
目を丸くし、彼女は震えるように両手を握る。
…お、おおお。
ミヤコは口の中で呟いた。
彼女に遅れて、隣の教室の扉から騒ぎに気づいた教師が出てくる。
それを見てほとんど反射的にひょい、と、彼女は物陰に隠れた。
教師が出てきても二人は掴み合うのを止めない。
こら、やめろ、やめんか、と仲裁に入るのは壮年の体育教師だった。
身軽な草食動物のように、柱の影からミヤコがすっと顔を出す。
床に叩き付けあう二人の頭がごつんごつんと音を立てている。
教師はしばらく二人を見つめ、おもむろに水飲み場へ向かった。
ミヤコがそれを目で追う。二人は喧嘩を止めない。
教師はバケツに水を汲んで持ってきた。
「こら、止めろ言うとるやろうが」
最後通告をおざなりに言って、彼は水を二人に浴びせた。
ばしゃあっ、と派手な音がして、二人は掴み合うことを止めた。
あっけにとられて動きを止めた二人を、まるで猫の子のように摘み上げる。
あにしやがんだ、と叫んで意気負い、彼にまで殴りかかろうとするスズイチを、難なく引き剥がして体育教師が呆れた風に言う。
「お前狂犬か」
うわあ、と口を開き、ミヤコは物陰に体を戻した。
座り込んで、整えるように息をつく。
見ているだけだったのに心臓がどきどきしていた。
うだるような暑さに、彼女の首筋を汗が一筋流れた。
言葉の切れ切れに聞こえるじゃわじゃわじゃわという蝉の声。
窓の外から忍び込む空気と蝉の声。
首筋をぬぐい、目をつぶり、まいったなとでも言う風に軽田ミヤコは少し笑った。
俺と坊主に水をかけた教師は、転校初日に俺の髪をつかんで、都会もんはちゃらちゃらしよるのう、とほざいたやつだった。
見境がなくなっていたということにして一発殴ってやろうと思ったけれど、難なく阻止されてしまった。
教師は別に怒鳴りつけるわけでもなく、俺の頭をつかんだときと同じような調子で襟章を見て、お前ら学年違うくせに何をしとるか、と淡々と言う。
名前を聞かれ、名乗らないやつに名前を言う必要はない、と答えて拳骨を食った。
右目の上を赤く腫らした坊主が鼻で俺を笑い、お前も三年生の癖に何をちゃらちゃらしとるか、と同じように殴られていた。
ちゃらちゃらしよる、というのはこいつの口癖なのか、と少し思った。
風が吹き込んで、すりむいた目の下がひりひりと痛んだ。
生徒証を出せ、といわれて、無視していたらもう一度殴られそうだったので素直に出した。
お前、村上、言うんか。転校生やの。
教師がにおいを嗅ぐように学生証を読み、俺に返した。
俺は返事をしない。
柿島はあれか。大学いきたくないんか。
平板な言い方に坊主が一瞬返事につまり、こいつに絡まれただけですよ、と低く答えた。
今、俺がこの教師を殴り倒そうとしたら坊主は俺を止めるだろうか。
そんなことを思った。
ええから保健室行くぞ、と先を歩き始める教師の後頭部。
横では坊主が横目で俺をにらみ、付いて歩き始めた。
坊主の制服のすそから水がぽたぽたと床にたれた。
不意に屈辱を感じた。
俺は坊主の前を歩く、教師の後頭部を見て拳を強く固めた。
この教師を殴ってやろう、と思った。
喧嘩の前のように、心臓が早く打ち始める。
これは、俺の体が求めているのか。
しばらく歩き、俺は呼吸を落ち着け、ふっと横を見た。
てっ、と思わず声が出た。てめえ、と言おうとしていたのかどうか、自分でも判らない。
軽田ミヤコが階段の暗がりから、身体を半分出し、敬礼してにこりと笑っていた。
坊主も教師も、気づいていないようだった。
軽田は敬礼していた手をゆっくり胸元に下ろし、にこにこと笑いながらバッテンを作った。
だ・め。
ゆっくり首を振る軽田の口が、声を出さずにそう動いた。
俺はむしろそのせいで、引っ込みがつかないような気分になる。
心臓が強く打つ。
よし、やろう、と思った瞬間、坊主が顔をぬぐって振り返った。
ぎろり、と大きな目で坊主は俺を見た。
俺を非難する顔ではなかった。恨みがましい顔ではなかった。
ただ、ぎろり、という感じで坊主は俺を見た。
俺は不本意にもたじろぎ、視線をそらして軽田を見てしまった。
軽田もまじめな顔に戻って俺を見ていた。
俺は立ち止まったまま息をついた。
坊主は再び前を向いて歩き出していた。
教師が少し先で立ち止まり、表情を変えずに振り向いて、はよ歩け、と言った。坊主は教師を追い越して歩いていった。
俺は、再びアドレナリンが逃げてしまったのを感じていた。
俺に何かが有り余っているとは思わない。それほどエネルギーが有り余っているわけでもない。
鬱憤がたまりきっているわけでもない。
俺には何もない。
何もないから出口もない。
何かから逃げ出したいわけでもないけれど、逃げ道がないのはとても圧迫された感じだった。
いつか、この行き場のなさが俺をどうにかしてしまうんじゃないか、と、思った。
横では、軽田が階下に消えた。
坊主は先に行って曲がり角を曲がった。
俺の視界には教師しか残らなくなった。
教師もやがて、背を向けて歩き出して角を曲がった。
誰もいなくなった。
ぴしゃん、と勢いよく扉が開き、村上スズイチが教室に入ってきたのはそれからしばらく経ち、三時限目が終わるころだった。
机に突っ伏して、だれた顔をしていた軽田ミヤコはぴょこんと跳ね起きて振り返る。
ずいぶん遅かったじゃない、とでも言いたげな彼女の視線の先で、ぽたり、と地面に水滴がたれた。
スズイチの頭から水が滴っていた。
少し乱暴に顔を洗ってきたのだろう、とミヤコ以外の誰もが思った。
「うす」
低い声。
ほほの擦り傷の跡が水に濡れ、赤く鮮やかに映えた。
怒っているような顔で、スズイチはにやにやしているミヤコを見つめ、静かに扉を閉めた。
「村上、喧嘩は面白かったかぁ?」
めがねを直して尋ねる教師に、勝てないっす、と返事をしてスズイチは自分の席に戻った。
ちらりと目をやると、ミヤコは大きな口をにいーと開き、彼に微笑んで見せた。
彼は彼女をちらりと見ただけで顔をそらした。
教師が出席簿を教卓から取り上げ、目を細めて村上スズイチの欠席を取り消して遅刻に付け直した。
スズイチは席に戻ってすぐ居眠りを始めた。うつ伏せでなく、仰向けに彼は居眠りをした。
夏だった。天井を向き、だらりと手をたらして村上スズイチは眠った。