[6]
結局、船橋路瑠は、現れなかった。
別に何を期待していたわけではなかったが、拍子抜けは拍子抜けだった。
まるでアンチクライマックスだ、と俺は思った。
月が見えていた。
汗でべたついた肌を、夜の風が撫でてゆく。
あー。
俺は一人記念碑の前に座り、無意味に声を出して空を見上げた。
横に目をやると、木立の方ではもう、街灯が点いていた。
腹減ったなあ、と続けて俺は呟いた。
そのまま、頭に浮かんだことを片っ端から俺は口に出すことにした。
蚊がいるだの、肩が痛えだの、もう夜じゃねえかだのと呟いているうちに、ようやく踏ん切りがついた。
よし、帰ろう。
ざっ、と勢いよく立ち上がると、体中のあらゆるところが、みしりと痛んだ。
いてててて、と年寄りのように口に出しながら、俺は記念碑を振り返った。
やけにさっぱりとしていた。
随分時間が経ったように感じて、街灯の脇の時計を見る。
七時四十分。
実際、十分な時間が過ぎていた。
我ながら、随分と待ったものだ。
*
一人公園の中、街灯から街灯へと渡るように歩く。
その灯りを見上げ、俺はためていた息を鼻でついた。
街灯に丸く、切り取られるように照らされた玉砂利は、まるで映画のセットのようだと俺は思った。
なんだか、ばつが悪く、俺は街灯から離れて歩くことにした。
街灯からいい加減離れた時、がざざざざざ、と玉砂利をゆっくりと走る自転車の音が聞こえて俺は目を上げた。
街灯の暗闇を縫って、軽田が銀色の自転車を漕いでいるのが見えた。
軽田?と呼ぶと、向こうも声で俺に気付いたようだった。
村上くん?と意外そうな声で、暗がりから自転車がこっちへ向かってきた。
ジーンズにTシャツで、軽田が漕ぎにくそうに自転車を漕いでいる。
街灯に照らされる軽田の顔。
軽田、と、もう一度呼ぼうとした時、膝がかくんと抜けて俺はつんのめった。
ちょっと、と悲鳴のように軽田が声を上げて自転車から降りる。
軽田が、がしゃん、と派手に自転車を転がして走ってくる。
ざしざしと玉砂利を踏む軽い足音が響く。
平気だ平気!
大声で言って俺は、地べたに座ったまま、手をあげた。
足を止める軽田の向こうで、転がされた自転車のペダルがカラカラと回っていた。
お前、何しに来たんだ、とそのまま俺は言った。
街灯を背負って、犬の散歩、と軽田は胸を張った。
犬はどうした。
家から連れてくるの忘れてきたんだよ。
犬の散歩で犬を忘れる奴がいるか。
冗談自体は可笑しくも何ともなかったのに、不意に笑いがこみ上げてきた。
なんだか、急に全てが可笑しくなった。
何故だか、本当にまあ、これでいいか、という気分になった。
笑い始めたら、止まらなくなった。
喧嘩を終えた瞬間の寂寥感が、他人事のように思い出されては消えた。
笑い飛ばす、という言葉のほんとうの意味を、俺は理解したような気になった。
何、と軽田が笑うような、少し引きつったような顔でこっちを見ていた。
構うもんかと思った。
俺は、げらげらと笑いながら空を仰いだ。
笑い止むと蛙の鳴き声が、ぼも、と空っぽに響いた。
俺の笑いの発作がおさまるのを待ち、勝ったんだよね?と、軽田は確認するように聞いてきた。
当たり前だ、と返事すると少し間を置いて、そう、良かった、と、ため息をつくみたいに軽田は呟いた。
またしばらくおいて、安心したよ、と付け足す。
声が、夜の響き方をしていた。
…船橋さんは?
一緒じゃないの?と遠慮がちに尋ねる軽田に俺は肩をすくめた。
来なかった。
?
だから、船橋路瑠は来なかったんだよ。
言いながら、俺は立ち上がり、街灯の下に出た。
何よそれ、だって、と不服そうに何かを言いかけた軽田が、俺の顔を見て黙った。
口を軽くあけて、軽田は俺を上から下まで、二回、目でなぞった。
…まあ、いいか。
ボロボロの俺を眺めた軽田は、予想に反して、ふ、と笑った。
なんだそれ、といい加減芸のない相槌を打つと、軽田は近寄ってきて俺の鞄を取った。
なんだか、そういうのも村上くんっぽくて、面白いかも知れないしね。
言いながら、すざ、すざ、ときっぱりした足音で自転車へ向かう。
俺はぶつくさ言いながら後を追いかけた。
面白いってなんだよ。
なんだか、らしいじゃないの。最後の最後ですっぽかされるなんて。
失礼なことを言うな。
アハハ、と屈託なく笑って軽田が自転車を起こした。
乗ってくでしょ?と軽田は顎をしゃくった。
*
川沿いの道を自転車は、すう、と滑るように走る。
ペダルに力をこめて漕ぐたびに、体のどこかしらに痛みが走ったが、それなりに爽快だった。
あたしが漕いであげるって言うのに。
軽田が背中で呆れたような声を出した。
無視して俺は川沿いを眺めながら自転車を進める。
もうすぐ夏休みだねえ、と軽田が俺の肩を揺すった。
痛い馬鹿、やめろ、と自転車は蛇行する。
いいじゃないか夏休みだよ、と涼しそうな声で軽田は意に介した様子もない。
話は途切れて、しばらく車輪の音だけが響く。
保健室で。
俺は言いながら顎を上げる。
これが済んだら考えるって言ったじゃないか。喧嘩とか。
うん。
なんか、どうでもよくなった。
軽田は返事をしなかったけれど、俺は勝手に続けた。
なんて言うか。
頭で考えることじゃないんだ。
別に今までだって無理して喧嘩吹っかけてきたわけじゃないし、それに。
そこで俺は言葉を切った。
続きが、ふ、と咽喉まで出て消えた。
急に何を言おうとしたのか分からなくなった。
何、と軽田が続きを催促し、俺はわかんねえ、と大声で返事をした。
自転車の重いハンドル。顔に当たる風。
こういうのも、青春なのかもしれない、と思って俺は首を振った。
冗談じゃない。
そんな生暖かいのは御免だ。
これなら、坊主と殴りあったりしていた方が千倍ましだ。
俺は大きく首を振って、少し笑った。
どうしたんだい、村上くん。
背中で軽田が伸びやかに言って片手を離した。
髪を押さえたようだった。すぐに手が俺の肩に戻る。
いや。
俺は言いかけて止めた。
黙ってペダルを踏み込み、もうすぐ夏休みだな、と思うことにした。
おしまい。