[3]

 そして学校に戻った時刻は五時三十分。
ようやく蝉が鳴き止んだがまだまだ暑い。
軽田の提案で、とりあえず船橋路瑠の連絡先を調べることにした。
 電話して警告。
単純だがなかなか効果的なアイデアだ。
確かに、家から一歩も出なければ殴られることもない。
調べてきてあげよう、と気楽に言って軽田は、一人で教員室に入っていった。
 随分経つが、まだでてくる気配はない。

 俺は廊下の水飲み場で、顔を洗う。
勢いよく流れる水が、だららら、とステンレスの流し台を打つ。
俺はその、あまりにがろんと響く水の音に心を奪われていた。
 廊下の暗い水飲み場は、恐ろしく陰気だ。
流れてゆく水の底に、土と血と汗で汚れた、暗い自分の顔が映っている。
俺は流しの縁に手をつき、揺れる自分の顔を見ていた。
 不意に強い疲労感が沸いた。脇腹が今になって酷く痛みだした。

 暗く、俺は記憶を反芻する。
特徴のないあの三年生の、病的な目つき。
突き飛ばされた軽田の小さい悲鳴。
俺に刺さるコインローファー。
 畜生、と俺は低く呟いた。
振り切るようにざばざばと顔を洗う。
冷たい水がはねて、胸をぬらす。肘をぬらす。
 暑さが逃げる。
暑さが逃げて、代りに俺を、根拠のない焦りが捕まえる。

 俺に、船橋路瑠を救うことなど、できるのか。
 そもそも救うってなんなんだ。

 まるで声を出すように息をつき、俺は蛇口を捻った。
水が止まる。音が止まる。
俺は銀色の流しの底を見ながら、考えるのをやめる。
考えるだけ無意味だ。
俺はただ、衝動に突き動かされるだけ。
 殴られたから殴り返す。それだけなのだ。
考えることに意味はない。

 ふと背中に誰かの気配を感じた。軽田だと思った。
遅かったな、と言いながら振り返る。

 ごっ。

 という鈍い音。
肩口に痺れるような衝撃。
バランスを崩して俺は流しにぶつかった。
 てっ、と言ったきり声が出ない。
俺はそのまま肩を押さえてうずくまった。右肩がしびれていた。
何が起きたのか、把握さえ出来ない。
 痛みが肩から足へ伝わってゆく。呼吸することがすでに苦しい。
目に木刀が映った。
ようやく唾を飲み込んで見上げるとそこには、剣道着姿の下膨れた顔が立っていた。昼の坊主ではない。豊田とかいったか。
 坊主の前に揉めて、植え込みに叩き込んでやった奴だった。
畜生、最悪のタイミングだ。
俺は自分の不運を呪った。
全ての不運はこの馬鹿と関わったことから生まれたような気がした。
お礼参りにやたら強い坊主が来るわ、顔も忘れたような一年生のために喧嘩する羽目になるわ、盛りだくさんだ。
 どうだよ。痛いかよ、と息荒い豊田の声が聞こえる。
俺はうずくまったまま奴を見上げた。
やられる、と思った。頭だけは止せ、と小さく思った。

 素晴らしいタイミングで職員室のドアが開いた。
 何してるの?
目ざとくこっちを見つけた軽田の声が廊下に響いた。
豊田は少し慌てたように軽田をちらりと見て、昇降口の方に早足で歩いていった。
随分大物みたいに退場するんだな、と思ったら少し笑えた。
笑うと背中が、肩口が、響くように痛んだ。
 ちきしょう。厄日だ。ちきしょう。ちきしょう。
俺は痺れたままの右肩を抱え、そのまま流しにもたれかかった。

 軽田の手を借りて立ち上がり、肩を借りて保健室まで行った。
何か言おうと思ったが、口を利くのも面倒だったのでやめた。
 …馬鹿みたい。
少し腹を立てた風に軽田は呟いた。
 敵が多すぎるのよ、きみは。
軽田はまるで何かを睨みつけるように前を向いたまま、はっきりと、言葉を切りながら言った。
 そんなことより、船橋路瑠の連絡先、判ったのかよ。
俺がやっとの思いで尋ねると、軽田は質問を無視した。
 今の人は誰なの。
肩を貸す至近距離で俺を睨み、軽田は明らかに不機嫌そうな声を出した。

 保健室のドアを開き、すいませーん、と軽田が伸び上がった声を出したが、中には誰もいなかった。
ま、いいか、と軽田はずかずかと入り込んで、棚を漁り始める。
随分手馴れている様子だった。
 ほら、脱いで。肩、見せなさいよ。
棚から湿布を取り出して立ちはだかる軽田はまるで保健医だ。
 自分でやるからいい、と言い返すと軽田は、ああそう、と簡単に引いて、手近な椅子に座った。
 俺も向かいの椅子に座る。ネクタイを外し、ワイシャツを脱いだ。
うわ、と軽田が声をもらす。
俺の右肩には、はっきりと木刀の跡が赤くついていた。

 ちょっと、と軽田は少し真剣な顔になって腰を浮かし、俺の肩を掴んだ。
俺は顔をしかめる。軽田の手はやわらかくない。
 平気?折れてない?
 しらねえよ。
 自分の体でしょう。
 いいから離せ馬鹿、痛い。
骨折なんてしたことがない。
折れているかどうかなんて判るものか、と思ったものの、この痛みはなんだか骨折とはまた、違う気がした。
 貸せよ、と、俺は軽田から湿布を受け取る。
右の指先がもつれ、湿布のフィルムがうまくはがれなかった。
見かねたのか軽田が奪い取ってフィルムをさっとはがし、無言のまま木刀跡にぺたりと貼り付ける。
 湿布の感触がした瞬間そこから全身に、風邪を引いたときの悪寒のような気持ち悪さが走った。

 平気なの?
軽田は斜めに首をかしげて俺を見る。
 当たり前だ。
 じゃあもっと平気そうな顔したらいいじゃないの。
小生意気な顔で軽田がつんと顎をあげるのを見ながら、俺は何か言い返そうとして止めた。

 厄介事は、一つ一つ片付けられるものから片付けていけばいつか片付くといったのは誰だったか。
一つ一つ片付けられないから厄介事なんじゃないか、と俺は思った。
人生は格言みたいにシンプルじゃない。
改めてつまらない結論に達した。
やりたいことがあるわけではないけれど、このゴタゴタをこなすうち、いつかそれに埋もれてしまうのではないかと思うと、とてつもなく苛々した。
まるで若さは蟻地獄だ。
 俺は痛む肩と、痛む脇腹と、痛む頬を意識した。
痛みを耐えることに回されたアドレナリンを、引き戻せ。
今必要なのは、痛み止めではないのだ。

 村上くん。
軽田が椅子をぎいと軋ませて、もう一度俺のほうを向く。
豊田の事を聞かれるんだろうと思ったら、違った。
軽田はじっと俺を見て、言った。
 これが済んだら、もう喧嘩とか、やめたら?
返事を期待した顔ではなかった。
諭すのでも命令するわけでもなく、ただ、言葉をぶつけるように軽田は言った。
 俺はそのまま軽田の視線を受け止めた。
これが済んだら、か。
心の中で呟くと、遅れてきたように、肩がずきんと激しく痛んだ。
 痛みが一瞬、俺を支配した。

<そんなことを言う前に>
<俺はまた、負けるかも知れない>
<こんなザマで勝てるはずがないじゃないか>

 反射的に浮かんだ弱音を、そのまま口にしそうになって、俺は横を向いた。
悲壮なムードは好きじゃない。
俺は壁に張ってあるポスターを見つめて首を振った。
弱音を吐くということは、守りに入っているということだ。
何を守るつもりなのだ。
なにもないだろう。
馬鹿。
 痛みがゆっくりと散り、俺は区切って息をついた。
返り討ちにあったところで、それはそれだ、かまうものか、と俺は感じた。
 開き直ると逆に吹っ切れた。
俺は、何もないただの高校生なのだ。負けて恥じることなんて何もない。
 何もないのだ。
<これが済んだら、もう喧嘩とか、やめたら>だって?
オーケー。すばらしい意見だ。喧嘩なんていつ止めたっていい。
 俺は晴れやかに息を吸い、軽田の目を見た。
息を詰めるようにして軽田は俺を見ていた。
 そして俺は答えた。

 全部、あの三年を叩きのめしてから考えるんだ。

 軽田は身動きもせずにそれを聞き、そう、と呟いた。
一拍おいて、軽田はため息をつき、そして、ふっと笑った。
 村上くん、今、とてもよい顔をしているよ。
 何だ、それ。
 うまくいえないけれど、美しい、と、思うんだ。
 うるせえ。
やけっぱちのように俺は吐き捨ててワイシャツを掴んだ。
くくっと、軽田がおかしそうに笑った。
 なんだよ、素直じゃないなあ。
何故だか楽しそうな軽田の声を背中に俺はネクタイを締め、行くぞ、と保健室の戸に手をかけた。

続く

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