[3] 栗とライオン
9月3日・昼

 恭平が家にいる日は、出かけることにしている。
別に顔を合わせたくないわけではなく、余計な疑いを持って欲しくないだけだ。
特別どこに行くか、決めているわけではない。
ただ、僕が何をしているかを人に詮索されず、時間を浪費できる場所であればいい。
 だから大概、映画館に行くことになる。
なるべく、遠くの映画館を選んで、僕は足を向ける。
何を観たいなんて希望はない。
ただ、音と光が暗闇の中で流れていればいい。
それは、自分が何者でもないことを強く意識させてくれる。

 なるべく人がいない映画館がいいけれど、はやっていない映画館はそうたくさんあるわけでもない。
僕はぼんやりと道を歩きながら、どの映画館にしようかと考え始めた。
一応、どこで何が上映されているのか確かめることにした。
なるべく無意味そうな映画がいい。
そう思って選んだ映画が「栗とライオン」だった。

 弁天街を抜けて、東弧田の方へ。
かなりの距離があるけれど、ただ、歩く。「栗とライオン」は単館上映の映画だった。
これが外だったら、と僕は考える。地下鉄の駅、二つ分くらいか。
 どうせ時間つぶしだ。
わざと裏道に迷い込み、曲がりくねった道を東弧田の方だと思われる方向に進む。
ほんの少し、このまま迷ってしまえばいいのにと思う。
このまま、永遠に迷いつづけて、着かなければいい。そんなことを思う。
まるで中近東のスラムのような細い道、漆喰で固められた壁。
見上げると、まるであたりの景色とそぐわない鉄色の屋根が、まるで食い込むように左右の漆喰の中腹を断ち切っている。
照明がまぶしい。造り物のような風景だ。この風景に慣れつつある自分が嫌だ。
 まったくこの辺りは、よく分からない。
頭の中で呪文のように繰り返しながら、歩く。
なだらかな上り坂になっている道を、ただ、黙って、歩く。

 道の幅が広くなってくると、あたりは急に開けてくる。
大通りが近くなってくることが、空気から伝わってくる。
パチンコ屋と喫茶店の間の路地から抜け出し、僕は切り替わる空気を吸い込んだ。
通りには人が流れている。混雑というほどではないけれど、決してがらがらではない。
僕は天井をもう一度見上げ、今いる位置を確認した。
矢印と方面のかかれた標識が、天井に描かれている。
白で縁取られた、鮮やかな緑の標識。
それにしたがって、僕は歩く方向を決めた。

 その映画館のある辺りは、水商売や風俗の店が多い通りの入り口だった。
立地条件にくわえて、あまり流行の作品を上映しないということも、ここの不人気の理由の一つなんだろうと思う。
<束菜第一シネマ>とアンティークな書体で描かれた金文字の看板が、入り口の横に立てられている。エントランスまでの低い階段は、とても映画館らしい。
古いじゅうたんが敷かれたホールでチケットを買って、僕はため息をついた。
 なぜだか分からないけれど、映画を見る前はいつもため息が出る。
この気分を言葉で表すのはとてもむずかしい。
息が抜けるという感じが一番正しいだろうか。
暗い場内で、光と音に飲まれている間、僕は自分が自分であることを忘れる。「映画を見ている自分」というものはどこかに消えてしまって、ただ、僕は映画を受け入れるだけの存在になる。
 それが区切りだからだろうか?
映画を観る前にまるで、現実が一度、終わったような気分になり、ため息が漏れる。
ため息をついて、僕は映画が始まるのを待つ。

 平日の昼間ということもあり、場内に観客はとても少なかった。
僕は後ろの方の席を選ぶ。理由は特にない。
あまり座り心地のよくないシートに浅く腰掛け、現実の尻尾を感じる。
暗くなるまでは現実の続きだ。人の出入りを斜めに見ながら、暗くなるのを待つ。
 ここでは誰も喋っていない。
まったく自己主張をしないクラシックが、まるで紗を下ろしたように僕らに降りそそいでいる。音に閉じ込められて、僕は形をなくしてゆく。
体の輪郭が溶けてゆく。
夜の中にいるのに似ていると、僕は思う。
少しづつ、僕は僕の形に戻る。なにもない、僕の形に戻る。

「……?」
 目をつぶり、開き、不意に僕は場内に知っている人間がいることに気付いた。
数えて七つ前の列、中央の通路をはさんで反対側、彼女はパンフレットを読んでいた。くすんだ赤いチェックのシャツ。パンフレットを手繰る指先。
 マコトだった。
彼女がそこにいる。僕は気付き、腰を浮かせかけた。
どうしてここに?
 不意に心臓が早くなった。
彼女は僕に気付いていない。
彼女から目が離せないまま、僕は無意識に息を殺した。
なんだか、ひどく戸惑った。不意に映画というものの存在が、異質なものとして感じられてきた。まるで靴の中に石が入ったような、ひどく明確な違和感だった。
逃げ出したいような気分になるけれど、動けなかった。
少しでも物音を立てると、彼女がこっちを振り向くような気がしていた。振り向かれたらいけないというわけではない。なのに、僕はとても、怖れていた。
 何を怖れているのだろう?
気付かれることそのものを怖れているわけではない。
 彼女の存在が、僕の現実を侵蝕する。それを怖れているのだろうか?
違う、逆だ。僕が怖れているのは、僕が、自分から彼女の現実に触れてゆこうとすることだ。
 僕がここにいるのはただ、全ての人から姿を消すためだけだったのに。
脳のモードが切り替わらない。僕はとても無防備だ。自分の境界線を引き戻そうとしているのに、うまく行かない。

 現実の尻尾が、ゆっくりと僕に巻きついてくる。
僕は縫い付けられたように、そろそろと息を吐いた。
彼女の住所とこの映画館の距離だとか、僕と彼女が最後に会った時の屋上の風景だとか、意味のないことばかりが頭に浮かぶ。
僕とマコトは、関係のない人生を生きている。交わらない、違う人生を生きている。
 なのにどうして、こんなところで出会うのだろう?
彼女がパンフレットをたたんで腕時計を見た。開演のブザーが鳴る。
僕はしっかりと口を閉じて、次第に暗くなる場内に目を凝らしていた。

 サッカーをする子供達の歓声が、徐々に大きくなってくる。
英語ではない言葉で、幼く高い声が口々に何かを叫んでいる。
場内の暗闇と、映画の歓声は僕を少しだけ落ち着かせた。
 大丈夫。
僕は自分に言い聞かせた。僕は暗闇に抱かれている。目が慣れるのと同時に、僕に巻きついていた現実の尻尾は、すぐ暗闇に溶けた。このまま、映画館をそっと抜け出してもいい。そうっと足に力を入れる。
 僕は、スクリーンにじっと見入っているマコトを見た。
彼女の、軽く持ち上げられたあごは小さくとがっている。
腰をあげかけた僕は、どうしてだか、そのほほと、あごに目をとられた。
 中腰のまま、僕はスクリーンに目を向けた。
手足の細い子供達が、青空の下でサッカーを続けている。乾燥しているのだろうか。砂埃がたくさん舞って、彼らの白いランニングは乾いた土色に汚れている。
銀幕の中では浅黒い肌の子供達が、砂っぽいサッカーボールを、無心に追いかけている。
 マコトは、身じろぎもせず、スクリーンの方向だけを見ていた。
僕は、まるで気が抜けるように、シートへ腰を落とした。
理由はうまく説明できない。けれど、そうすることがたった一つの方法のように感じた。
どうしてだか、僕は、自分がこの映画を最後まで見るべきだと感じた。
一緒の映画を観て、いつかその話をするなんてことを望んではいない。彼女の観る映画を観たからといって彼女のことを理解した気になるのはばかげている。
けれど。

 音楽が流れている。
 なんの楽器だろう。素朴な、笛の音のような音楽だ。
サッカーをする子供達と砂煙。イスラムの文字でタイトルロールが流れている。
シートに座りなおすマコトの姿が、まるでそれも含めて映画のようだった。
僕は、引き剥がすように彼女の横顔から目をそらした。
 そして天井を見上げて、もう一度、息をついた。
シートに浅く座り直し、僕はゆっくりと映画に体をゆだねることにした。
ゆっくりと音楽に溶け、僕はもう一度、何者でもなくなってゆく。

 映画は、常に埃っぽいまま進んだ。
埃っぽくて、土の匂いばかりする映画だった。
とても、薄い印象の映画だった。音楽も素直で、ストーリーも素直で、映像も素直だ。何一つざらざらしていない、水のような映画だった。
映画の中は常に埃っぽかったのに、受ける印象はとても水のようだった。
本当に、ただ、流れに身を任せているような映画だった。
その感覚に僕は、いつの間にか没頭していた。
 いい映画だったのだろう。
僕はぼんやりと余韻の中で思った。
まるで動物が歩くようなゆっくりしたテンポでエンディングのスタッフロールが続いてゆく。
読めない文字が音楽に合わせて、ゆっくりと流れてくる。
草原に寝そべるライオンがあくびをするのにあわせて、僕は自分の現実を引き戻す。
――マコト。

 僕はまだ暗いままの場内で彼女の姿を確認した。
彼女は背もたれに体を預けて、やっぱりあごを上げるようにして映画を見ていた。
僕は軽く目をつぶり、呼吸を整えて映画の余韻を消す。
 スタッフロールの流れているうちに出てゆくことにした。
音のないように立ち上がって通路へ移動する。
逃げ出すように出てゆくことに罪悪感はそれほどない。ただ、なんとなく、落ち着かない気持ちだけはあった。
出入り口の扉に手をかけて、もう一度振り返る。
 スクリーンでは、スタッフロールの背後でライオンが気持ちよさそうな眠りについていた。
ライオンの足のあたりにマコトが座っているのが見える。
その短い髪が揺れるのを僕はただ見た。彼女が振り向きながら立ち上がるのが見えた。
彼女は、振り返りながら、ただ真っ直ぐに僕のほうを見た。

 白い顔に映写機の光が当たって、ライオンの足に影が出来ている。
水に反射する光のように、緑色の草原の光が、彼女の表情を染めている。
 不意に息が詰まる。
遠くからでも彼女の表情ははっきりと分かった。
一瞬息がつまり、僕はそれをそろそろと吐き出す。やっとのことで体を彼女の方へ向けなおした。何かにひびの入る音が聞こえた気がした。
音楽が続いている。ただ音だけが、僕とマコトの間に流れている。
「…」
 すっとマコトが右手を上げる。ライオンの姿に五本指の影絵ができた。
「やあ!」
彼女は、はっきりとした声で、言った。

「映画を一人で見るのが好きなの」
 彼女は小さく笑ってそんなことを言った。
映画も終わり、エントランスホールの椅子に座って、僕達は缶のコーヒーを飲んだ。
ホールには音楽がない。しんとするホールに、通りの声が時折聞こえるだけだった。
僕達の他にいた客はみんな、映画が終わると帰っていった。
帰る人たちを見ながら、僕はなんとなく取り残されたような感じを覚えていた。
「修二くんも、一人で見るのが好きなんだね」
 彼女は両手で包むように缶を持っていた。
別に嘘をつく必要もない。
まあね、と僕は言った。不必要に僕は警戒をしているのかもしれない。
「この映画、あたしは好きですよ」
秘密を打ち明けるようにマコトは言う。
「…水みたいな映画だったね」
僕は思った通りに喋る。考えたことを口に出す。
彼女はコーヒーをもう一口飲んで、口をぬぐった。
「その表現、いいね」

 僕の中には、この間の屋上の、息苦しい沈黙がやっぱり後を引いていた。
何を言えばいいのだろう。映画の話をすればいいのだろうか?
「修二くん」
何度目かに名前を呼ばれて僕は、彼女の方を向いた。
まだ少し映画の余韻が残っているのかもしれない。波打つように、自分の心臓が動いているのを感じた。
僕は生きている。不意に僕はそれをとても身近に感じた。
「今度一緒にお昼でも食べよう」
彼女はまるで気の強い顔で言った。

 帰り道で僕はぼんやりと、彼女と交わした約束のことを考えていた。
僕達は、今度昼食を一緒にする約束をした。僕が招かれただけだという方が正しいのかもしれない。彼女の家に招待された。
マコトは、あの日のことをどう思っているのだろう?
 少しだけ分からなくなって僕は天井を見上げた。
鉄色の天井は変わらない。来た時と何一つ変わっていない。
僕は、行くところがあると言い訳をして、彼女と反対の方向に歩き出していた。
 僕は逃げて生きている。
「…こんなこと」
僕は呟いた。一体、僕は何を考えているんだろう?
そして、映画館で振り向いた時の彼女の表情をゆっくりと思い出しながら、歩いた。

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