砂漠にて。
薪が、ばちん、と何かを叩くような音をあげた。
うとうとしていたクララが目を覚ます。
彼女は、抱くようにしていた女王の剣をもう一度握りしめた。
うっかり眠ってしまいそうだった。
だが、まだ夜明けまでもう少しある。まだ眠るわけには行かない。今は彼女が見張りの当番なのだ。
ドリーは肩まで毛布をかけて、なんだか煩悶するような様子で眠っている。
寝ているときまで、例の角のような帽子を被ったままだ。
一体彼の年齢は幾つなのだろう。
彼は、何のために戦っているのだろう。
クララは彼の方を見つめながら、彼が今までどんな人生を送ってきたのか考えた。
クララは、自分の過去を振り返らない。
今の彼女に思い出せるのは、幸福な過去などではなかった。
目をつぶって浮かぶのは、苦痛と、恐怖と、そしてすべてを覆う悲しみだけだった。
涙はもう、流し尽くしてしまった。泣くことすら、もう彼女には出来ない。
心のどこかが麻痺していた。
頬に触れると、判る。
指先に触れたものが自分の頬であること、そして、頬に触れたものは、自分の指でないこと。
それは残酷なまでに、自分がどうなってしまったのかを彼女に知らしめる。
肉と鉄を不恰好に組み合わせて作られた、できそこないの娘、できそこないの機械が彼女なのだ。
彼女は頭を振って、作り変えられてしまった自分の体を呪った。
こんな体に作り変えられたというのに、死を選ぶことが出来ない脆弱な自分の精神を呪った。
ヴィスコヴィッツ。
彼女は、あの男の顔を思い出した。
あの男が、彼女から死ぬ権利を奪った。
あの寝台の上で感じた、死にたいという気持ちが、最後の彼女のかけらだったのだ。
ヴィスコヴィッツの、悪魔のように赤い唇が、彼女の瞼の裏でぐるぐると回った。
再び薪が音をあげた。
彼女は首を振って、考えるのをやめた。
ふ、とあたりを見回すと、ノイアが向こうの岩の上に座っているのが見えた。
クララはドリーを起こさないように、そっと立ち上がった。
「…何」
近付くと、ノイアは手鈎を体に引き寄せるようにしてクララを見た。低い声だった。
少し警戒するような彼女の顔に、クララは首を振った。
「…眠れないの?」
クララは黙ってもう一度首を振った。
ノイアの声は、少しハスキーで、優しいと言っても良いかもしれなかった。
彼女は肩をすくめ、岩の上で少し体をずらしてクララに座るよう勧めた。
クララは黙ったまま、隣に腰掛ける。
しばらくノイアは、まるでクララがそこにいないような表情で空を見上げていた。
随分経って、ノイアはぽつりと口を開いた。
「ここは、私の生まれた森の空気に似ている」
「…?」
「とても静かで、静かだけど、何かを隠していて」
「…」
「木や、蔦や、何かがあっても、この砂漠みたいになにもなくっても、結局は同じことなのかもしれない。私は、そう思う」
ノイアは呟くように言って、クララのほうを向いた。
「もう、何日も一緒に歩いてるけど、あんたと話したのは初めてだったね」
そう言って彼女は少し笑った。
ひそやかな声だった。
クララが何かを言おうとするのを遮り、ノイアが不意に鈎を引き寄せて首を砂丘の方へ向けた。
「クララ、ドリーを起こして!」
低い声で叫び、ノイアは岩から飛び下りた。
鈎を砂に突き刺して、彼女は数を数える。相手の数を数えているようだった。
「3、4…5…!…クララ、早く!」
クララはまごつきながらもドリーの眠っている焚き火のそばへ走った。
夜明けを間近に控えた砂漠に、隠匿された殺意と緊張が、みなぎってゆく。
緊張を破ったのは、咆哮だった。
豚が吠えるような声をあげて、向こうの砂丘の上で大柄な影が姿をあらわした。
ケイブランナーの上で鈍刀を振り上げた、オークだ。
クララはうっかり振り向き、そこにオークの姿を認めて体を凍りつかせた。膝が動かない。
フラッシュバックのように生身の娘であった時の、最後の記憶が蘇った。
あの野蛮な生きもの、おそろしいけだものの力。圧倒的な力の象徴。
オークの目に彼女の姿は映ったのだろうか。
確かにクララの目にはあのけだものの姿が映っていた。
なぜだかオークは咆哮を上げただけで、再び砂丘の向こうへ消えてゆく。
オークの姿が見えなくなって、ようやく固まっていた膝が動くようになった。
クララは必死の努力でオークのいた方向から目を引き剥がし、ドリーの元へ走った。