パッフル・ハッチ・ジュヌヴィエーヴ
ハッチのやつが、へらのような嘴の前に人差し指をとんがらして「ちょっと来いよ」と言ったのは、酔ったジュネが寝入ってしまった後だ。
魔法でアヒルの姿に変えられてからも、こいつもこの仕草だけは変わらない。
まったく脳天気なやつだ。
嫌な予感がしつつも、僕は誘われるまま毛布から抜けだし、しんしん冷える砂漠に滑り出た。
焚き火がはぜてぱちぱち音を立てていた。
ジュネが寝返りを打つ。
空はおそろしく黒く、星たちは本当に宝石のようだった。
不思議なことに、僕らの故郷であるリヴァンヘイムよりも、星の数は多いように思えた。
<ものをよく見るためには、それからもう少し離れなければならない>
まったく、年寄りはなかなかいいことを言うものだ。これでこそ下界に来た甲斐があるってものだった。
ハッチは岩陰に僕を招きいれ、隠れてろ、と手で合図して大きく咳払いをした。
「…ごほん、うん、ん、ジュネ、ジュヌヴィエーヴ?」
ハッチはすっくと立ち上がって大きな声を張り上げた。その声を聞いて思わず僕は背筋を伸ばしてしまった。
聞いたことのある声だったのだ。それは、サー・ボウルガードの声だった。
ボウルガードというのは、ジュネがリヴァンヘイムに残してきた年上の恋人の名だ。
声真似のうまいやつだとは思っていたけれど、ここまで似せることが出来るとは思いも寄らなかった。
前から練習をしていたのだろうか。
僕はあっけに取られて口をあけたまま、彼のぴょこぴょこ動く尻尾を眺めた。
それにしてもおそろしいまでの声真似だ。
「…ジュヌヴィエーブ?ミス・ディー?僕のいとしい君?」
子供たちに読み書きを教える実直な教師であるサー・ボウルガードそのものの声で、ジュネの名前を呼びながら、アヒルは足をバタバタさせた。
僕の背中をばしばしと叩いて、毛布をかぶってもぞもぞしているジュネをさかんに指さす。
僕は岩陰から顔を出して、焚き火のそばの彼女を見た。
目をこすり、ジュネが起き出してこっちを向くところだった。
ハッチはえへん、と咳払いをしてから、本物のサー・ボウルガードなら人前で決していわないであろう台詞を、本物の彼そのものの声色で続けた。
「ねえ君、僕のジュヌヴィエーヴ、君のいとしい宝石のような唇で、いつものように僕の事を呼んでおくれ。さあ、僕の天使。さあ」
ジュネの表情から、彼女が完全に寝惚けていることは理解できた。
期待に胸と耳を膨らませて息を飲みながら、僕達は彼女の唇が動くのを待った。
ゆっくりと、夢と現実の間の甘い声で彼女は口を開いた。
「…どうしたの、シュガー、こんなところで…」
「シュガー!」
ハッチは思わず元の声に戻って一声叫んだ。
ぐわ、とそれこそ本物のアヒルみたいに一言鳴いて、咳払いを必要以上にする。僕はやつの尻尾を引っ叩いてやった。
二人とも、笑いを堪えるのに必死だった。
あの皮肉屋のジュネが、恋人を呼ぶときに「シュガー」だなんて!
ハッチは必要以上に背筋を伸ばして、さらにサー・ボウルガードの声を張り上げた。
「おお、ミス・ディー!僕の愛しきパンプキン、これから君を抱き締める前に一つ、失礼していいだろうか」
「…」
徐々に、半目だったジュネの瞳の焦点がはっきりしてゆく。
岩場で腕を振り回し、彼女の恋人の真似をしている恥知らずななアヒルを、その瞳にとらえてゆく。
「…その、なんて言うのだろう、ミス・ディー。こういうことを言うのは非常に躊躇われるのだが、いわゆる、その」
実直な紳士の口調で口篭もり、ハッチはとんでもなく芝居がかった調子でそれを続けた。
「屁をたれても構わないかね、シュガー?」
耐え切れず僕は噴き出した。
ぶうう、とまるで出来の悪い屁の音真似のようにそれが響く。
まるで夜を切り裂くようにジュネの悲鳴が響いた。
「この、恥知らずの、豚!」
ハッチは散々やっておいて、慌てたように両方の手を大きく振った。
「ちがう、ちがうよ、最後のはパフだ!俺じゃないよ!それに俺は豚じゃなくて」
「黙れーっ」
ジュネが毛布を跳ね除けて自慢のレイピアを抜き放ち、抜き身のまんま僕たちに向かって投げつけた。
一遍に酔いが覚めた。
むしろ僕はそこで初めて事態の深刻さに気付いたのかもしれない。
なにしろ彼女は本気で怒っていた。
ふ、と頬に風を感じたと思った瞬間には、すでにハッチの帽子が串刺しになっていた。
すとっ、と剣が地面に刺さる音が一瞬遅れで聞こえる。
一瞬早く身をかわしたやつは、くわあ、とアヒル丸出しの悲鳴をあげて転がるように飛び退った。
僕は思わず、ハッチの帽子を地面へ縫い止めているレイピアに顔を向けてしまう。
その間にも、彼女は身を起こし、猛然と突進してきていた。
あっという間に帽子のついたレイピアを抜き取って、ぎらりとジュネが僕を睨んだ。
イタチに睨まれたネズミみたいに僕は動けなくなった。
ジュネが剣を振って、ハッチの帽子を地面に捨てた。
僕は情けなくもまるで視線そのものに押されたように、すとん、と後ろに尻餅をついた。
あ、やばい、刺されるかも。
真っ当な予感が脳を掠める。
「ごめん!悪かったよ!シュガー!ごめんって!」
もう随分離れたところまで逃げたハッチが、ゲラゲラ笑いながら叫んだ。
どうも、もうあいつは脳にまで酒が回っているらしい。
僕は砂に両手を付いたまま、あの間抜けなアヒルを見つめた。
わなわなとジュネの両手が震えているのがわかった。
「…絶対にその舌を切り落として、あんたに食べさせてやるから、この、畜生ーっ」
文字通り震えてジュネはレイピアを握りなおし、月に向かって走ってゆくハッチを追いかけて走り出した。
砂丘を越えてゆく二人。
僕は段々影になってゆく二人の姿を目で追いながら、体の奥に不思議な気持ちが沸き起こってくるのを感じていた。
それは本当に、体がうずうずする感覚だった。
「おい、ねえ!待てよ!」
僕は大声で叫び、二人を追って走り出した。
僕たちが、リヴァンヘイム以外の、ナマの世界に触れた最初の夜のことだった。