ハンカチで手を拭きながら戻ると、外階段の踊り場から廊下に入ってくる森山と会った。
「ああ、森山」
あたしがハンカチを畳んで声をかけると、気付いたように森山は、肩で挨拶をした。
随分慣れたように見えるけれども、やはり松葉杖は使いにくそうだった。
そのまま先に中に入るのも何か薄情な気がして、少し待つことにした。
丸い柱の周りに巡らされた、低いベンチに座って、彼を見守る。
「ちょっと、いいかな」
そばまで来ると、森山は管制に向かわずにそんなことを言って隣に座った。
べつにトオマワリの帰りを待つ以外に、別にすることがない。
あたしは黙って頷き、彼を迎えた。
「…頼みがあるんだが、聞いてくれないか」
しばらくして、森山は口を開いた。
思ったより深刻な声に、あたしはびっくりして森山の顔を見た。
森山は松葉杖を重ねて置いて、その先あたりをじっと見つめている。
やがて、あたしが見ていることに気付くと目を上げ、こっちを見返してきた。
森山の、灰色の目。あたしはその目をじっと見た。
「…ものによっては無理ですけど」
うん、と森山は返事をする。
森山はあまり、目を合わせることを嫌がらないな、とふと思った。
「無理だったら無理と言ってくれて構わない」
「うん」
森山と同じようにあたしは頷き、目線を外した。
「何?頼みって」
「さっき、放送で言ったムル喰いは、昨日の白いムル喰いじゃないかと思うんだが」
「…」
「違うだろうか」
あたしはびっくりして、咄嗟に首を振った。
首を振りながら、この場合首を振ると、否定していることになるのか肯定していることになるのかごっちゃになって、慌てて付け足した。
「白い、ムル喰い」
言ってすぐに、それだけでも不十分だと思って、あたしは頷く。
なんだろう、どうしてこんなにあたしはびっくりしているのだろう、と思った。
しかし、次に森山が放った一言は、さらにあたしを混乱させることになる。

「だったら、その白いムル喰いが出たところまで、俺を連れて行ってほしいんだ」

そう森山は、言った。
うわん、と空気が鳴るように思った。

森山は、真面目な顔であたしをもう一度見た。
あたしは口を開けたまま、彼の顔を見返していた。言葉が出なかった。
そして森山はそのままの顔で繰り返す。
「もう一度、あれに会わなきゃならない。時間がもう、ないような気がするんだ」
「…会う?」
そう、会うんだ、と森山は寂しそうに頷いた。
「どうして」
「ドックの地下の時も、さっきオペレータの彼の前でも、黙っていたことがあるんだ」
「何」
「俺は、それを隠していた」
「…何」
「あの白いムル喰いと俺の関係だ」
関係、と言われてもさっぱりぴんと来なかった。
「よく、言ってることがわからないんだけど」
うん、と頷いて、しばらく考えるように、言葉を選ぶように森山は黙った。
余裕のある沈黙ではない。何かに迫られた沈黙だということをあたしの皮膚が感じ取っていた。
なんとなく空気がぴりぴりした。
「あのムル喰いは、駆走器なんだ」
「…はい?」
思わず、誰の、と聞き返しそうになる。
「俺は、あれのテストパイロットだったんだ」
あたしはもう一度言葉をなくす。

「ええと」
あたしはなるべく脳天気に聞こえるように、声を出し、そこで詰まってしまった。
続きの言葉が出てこなかった。
駆走器というのは、飛ばない動物を改造して乗りこなす技術のことだ。
有名なところではケイブランナーやルーマがいる。どちらも草食だ。
肉食の駆走器なんて、聞いたことがなかった。
その上、ムル喰いは自然の生態系の頂点に君臨するような生き物だ。
農場を襲えば竜巻のような爪痕を残し、年寄りの中にはストレートに<悪魔>と呼ぶ人がいるような獣を駆走器に使うなんて、聞いたことがないどころか、およそ信じられる話ではなかった。
「冗談でしょう?聞いたことないわよ、ムル喰いに、その、乗るなんて」
絶対に冗談の筈がない、と思いながらあたしは森山の顔を覗いた。
「…試作器だった」
森山は沈鬱な表情でぽつりと言った。

しばらく本当に息の詰まるような沈黙を抱え、あたしは震えるように息を吐いた。
「ごめん、ちょっと、理解できない」
あたしは正直に、思ったことを口にした。
それだけで頭が一杯になっていた。
不可能を可能にするのが人間の科学であって技術であって文明であって歴史である、というのは確かに判るけれど、それとムル喰いに乗ってみようと考えることは別だ。
別問題だと思う。
どんな大人しい飛行器だって、恐慌状態に陥ればひどく暴れる。
飛行器の恐慌ですら制御できずにいるのに、どうしてムル喰いなんかに手を出したりする気になるのだろう。
「…軍人の考えることはよく判らない。…ムル喰いに乗るなんて、あたし、そういうのって、まともじゃないと思う」
あたしは少し強い調子で言って、自分の爪先を見つめた。
軍隊の中に、ムル喰いを改造して乗り物にしてみようなんて考えた人がどこかにいるわけだ、と思うと嫌になった。

あえて考えないようにしていたが、ムル喰いが森山の乗器だったのだとすると、言ってみればあたしとヒューヴは、自業自得の暴走事故に勝手に首を突っ込んで勝手に怪我をしたようなものだった。
けれど、そんなことを口にするのはいやだった。
口にするのも嫌だったし、森山の口からそれを聞くのも嫌だった。
言葉にしたり、されたりしてしまうと、それを認めてしまうように思ったのだ。

「それで?」
ヒューヴのことを頭から追い出すために、あたしは不機嫌な声を出した。
森山が顔を上げてこっちを見た。
「話を聞いてくれるのか」
「何よ」
「もう、聞いてくれないと」
「聞いてほしくて話したんでしょう」
口調がきつくなる。森山の表情は、ひどく済まなそうだった。
「しかし」
 声の調子で、森山がヒューヴのことを言おうとしているのが判った。
「でも、そういうのはもう、どうすることもできないでしょう」
遮って、あたしは森山の目を見ないようにした。
自分の気持ちが後ろを向いているのか、前を向いているのかはわからなかった。
ただ確かなのは、それ以上聞きたくない、ということだけだった。
「あたしたちに遠慮して言えない程度の気持ちなら、もう言わないで」
「鈴木」
「森山は何がしたいの?どうしてムル喰いに会わなきゃならないの?」
あたしは森山の顔を見つめ、彼の次の言葉を待った。

森山は長いこと黙って、それから口を開いた。
「あれを、ムル喰いを、町に近づけて、無為に死なせるのは忍びないと思う」
それは、深い声だった。
「あれは、俺を追ってきている、と思うんだ。…よく判らないが、そう思う」
どうしてわかるの、と言いかけてあたしは止めた。
「出来ることなら、止めてやりたい」
そんな森山の言葉に不意をつかれたように、同じなのかもしれない、と思った。
ムル喰いのために何かをしてやりたい、と思う気持ちは、あたしがヒューヴに思うのと、同じところから生まれるものなのかもしれない、と思った。
森山にしてみれば、それは彼の乗器なのだ。

突然気持ちだけが森山に繋がってしまったのを感じた。

「勝手な願いだが、連れて行ってくれないか」
森山が観念を決めた目をした。
あたしは彼の目の中に、決意を見た。
多分、あたしが無理だ、いやだ、と言えば、これで話は終わるのだろう。そういう目だった。彼が納得するだとかしないだとかには関わらず、話は終わるだろう。
無理だ、と言うことは簡単だったが、あたしはそうすることができなかった。
森山の目的が、あまりにも無謀な願いだったからだ。

森山の言っていることは無理なことだった。
ムル喰いを止めてやりたい、と言う森山が、具体的にどうしようと思っているのかはわからなかったが、冷静に考えてムル喰いを止めるのは無理だろうと思った。
生身で、それも飛んでいる飛行器の上から地上にいるムル喰いを止められるわけがない。
ムル食いが森山を追いかけてきているのが本当だったとしても、それは無理なことに違いなかった。

 しばらく森山の顔を見ていたら、泣きそうになってしまった。
あなたの思っていることは無理なのよ、と思ったらひどく悲しくなってしまった。
大人が感情に流されているのを見るのは、いつだって悲しい。
けれど同時に、もしヒューヴがどこかの森に置き去りにされてしまったら、あたしは彼を探しに行くだろう、とも思った。
見つけられる当てがなくても、あたしは飛んでゆくだろうと思った。
森山も多分、同じなのだ。
きっと無理なんか承知なのだ。
そう思ったら、言えなくなってしまった。
彼から目をそらし、気持ちを一度整理する為にすこし待った。

「…連れてくよ」
あたしは立ち上がり、それだけを言って森山の手を取った。


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