ドックの地下を覗いてみたけれど、さすがにもう森山はいない。
あたしは花束を拾って、ヒューヴの嘴をそっとなでた。
「早く良くなるのよ」
自然にそんな言葉が出た。
今朝、ごめんね、としか言えなかったことを思い出すと不思議だった。
森山と話したことが、自分の気持ちを整理するのにとても大きな何かになったことを、改めて知った。
たぶんそれだけではない。
初夢さんと会ったことも、トオマワリと話したことも、もしかすると真瀬のことを思い出したことさえも、大事なことだったのだ。
人間の視野は狭い。
色々な気持ちを一遍に抱えて、色々なことをしながら生きなければ、きっと生きられないのだ、とあたしは思った。
人間一般、としてしまうあたり少し、浮かされているような気もしたが、それでもよかった。
少しだけ何かが吹っ切れた気分だった。
花束を抱えたまま階段を上ると、花瓶を持った桑納さんにばったり出くわした。
「桑納さん」
「おや」
工員帽を上げて、桑納さんはあたしを見る。
「やっぱり花は、しなりさんでしたか」
「…ええ」
「今、花瓶に活けようと思ったところです」
「すいません、朝、ちゃんと顔を出そうと思ったんですけど」
「別に、謝ることはないでしょう」
きっぱりと首を振って、桑納さんはあたしを促した。
すいません、とうっかりもう一度謝り、桑納さんについて地下に戻る。
フロアエレベータ操作盤の脇にある流しで、桑納さんは花瓶に水を注ぎながら少し大きな声を出した。
「しなりさんは、何時ごろ来られたんですか」
「朝です。十時過ぎくらいに」
そうですか、と桑納さんは一人で頷く。
花束の包みを開き、うまい具合に花瓶に活けなおして、桑納さんは、うん、よい、と、満足そうにもう一度頷いた。
「しなりさんは、昼を済ませてしまいましたか」
「いいえ」
返事してから弁当を持っていることを思い出して告げる。
桑納さんは感心したように頷いて、わたくしも握り飯をもっております、と笑った。
「御一緒しましょう」
「はい」
桑納さんの口調はいつもはっきりしている。
桑納さんといると、ついこっちもきっぱりした返事になってしまう。
そして、それは嫌じゃない、と思った。
世界も、そういう風にきっぱりしていたらいいのに。
そんなことを思った。
ドックの二階には、南向きの食堂がある。長い長いテーブルが三列並ぶ、広い食堂だ。
もともとこのドックは、寄航したついでに宿泊する飛行器乗りたちの、宿舎のような役割が大きかったというその頃の名残である。
無論、食堂自体は今や、営業をしていない。
職員が使うので、テレビや簡単な調理器具、ガスと水道や給湯器程度は生きているけれど、頼めばカレーが出てくるなんて、便利なことはない。
自分で作って、自分で片付ける。要するに、セルフサービスだ。
南に面した大きな窓からは、発着路がよく見えた。
桑納さんは工員帽を脱いで窓際のテーブルの一角に置いた。
あたしも隣に鞄を置く。
観葉植物の脇にある手洗い場で手を洗い、ついでに桑納さんは角にあるテレビをつけた。
首都ハーヴェイで行われている野球の中継が流れ出す。
夜のように見えるのは、背景が宇宙だからだろう。
音を絞ってあるテレビは、なんだか映画のような、不思議な雰囲気だった。
昼を食べる前に、お茶を飲んだ。
すこし、水分を取りすぎかもしれない、と思ったが、やっぱりお茶はおいしかった。
そしてあたしは弁当の包みを、桑納さんはおにぎりの包みをテーブルの上に出してテレビを眺めた。
音のない野球中継は、あまり面白さがよく判らなかった。
しばらくそのまま見ていたが、どうにも面白くない。
頃合を見て、それより、とあたしは姿勢を正した。
「桑納さん」
「…なんでしょう?」
「すみません、なんだか心配してもらってたみたいで」
今朝、トオマワリに聞いたことのお礼を言うと、湯飲みを置いて桑納さんは首を振った。
「今日、顔を見たら安心しました」
ふふふ、と笑って桑納さんは、若い人は頼もしい、と言った。
「そんな」
「今は実感が湧かないでしょうが、そのうち、わかりますよ」
どこが頼もしいというのだろう、と思っていたのを見透かされたようで、少しびっくりした。
なんだか突っ込んで聞き返すのもおかしな気がして、そのうちわかりますよ、という言葉を鵜呑みにすることにした。
桑納さんははぐらかすように、さあ、食べましょうか、と笑った。
実は、桑納さんと二人だけで食事をするのは初めてだったのだが、不思議とそれほど緊張はしなかった。
ずっと鞄に入れておいたお陰ですっかり片側に寄ってしまった弁当をほぐしながら食べて、桑納さんに笑われたりした。
平たい弁当箱を入れるなら平たい底の鞄を持つべきです、と桑納さんは笑った。
「昔の学生みたいですね」
何故だか桑納さんはひどく、片側に寄った弁当が気に入ったらしかった。
なんだかつられるようにおかしくなって、あたしは弁当を食べた。
見た目こそ面白くなってしまったが、自分で作ったものと比べると雲泥の差でおいしかった。
やはり母は偉大だ、とあたしは密かに思った。
久々に、人と喋りながら食べる昼食は、なかなかに楽しかった。
他愛のない話をしながら昼食を終え、一服をつく。
ふと桑納さんに森山の事を何か聞いてみようと思ったが、聞くべきことが見つからなかった。
彼の具合はどうですか、と聞いたところでどうなるわけでもなかったし、彼について桑納さんに聞くべきことといったら、傷の具合ぐらいしか思いつかなかった。
しかも、傷と言ってもサイバネの具合だ。神経がどうしたとか、こうしたとか、聞いても判らないに違いなかった。
他に彼について、と考えて、トオマワリが言っていたことを思い出した。
トオマワリはどうして森山があんなところにいたのか、ひどく気にしていたっけ。
あたし自身は別に、どうして彼があんなところにいたのかなんて、気にするだけ仕方ない、という気になっていたのだが、他にすることもない。
せっかくまたドックまで寄ったのだし、と、後で本人に聞くことにした。
忘れないように頭の中で繰り返す。
森山は、なぜあの森にいたのか。
どうでもいいと思うんだけどなあ、と思いながらあたしは首を振る。
桑納さんが煙草に火をつけて、ぷう、と煙を吹いた。
お茶を飲んだせいか少し暑くなり、あたしは窓を開けて風を入れる。
涼しい風が入ってきた。
「午後は、やはり、眠たくなりますね」
桑納さんはおいしそうに煙草を吸いながら目を細めた。煙が流れてゆく。
別に、煙草を吸いたいとは思わなかったが、なんとなく間が持たなかったのであたしはまたもやお茶を飲んだ。
そのまま、ぼけえ、と広い食堂にぽつんと二人して三十分ほどが過ぎた。
相変わらずお茶を飲んだり、テレビを見たりして食休みをとり、飽きて挟み将棋を指していると、ドアを開けて初夢さんが入ってきた。
トランクをがらがら引っ張っている。
「おや」
振り向いて桑納さんが、驚いているのだかいないのだかわからない声を出した。
「初夢さん、いらっしゃい」
「こんにちは」
「お部屋、用意させておきましたよ」
初夢さんは帽子を取って、丁寧にお辞儀をする。
「すみません、また幾日か厄介になります」
「こちらこそ」
どうやら、初夢さんはドックの空き部屋に泊まるようだった。
本当は、桑納さんは獣サイバネ技師であり、ドックの支配人というわけではないのだが、人の足りないこともあり、十年前だか二十年前だか、その頃からなんとなく兼業するようになったという。
だから意外と、他所から来る飛行器乗りの中には、桑納さんを<宿場のおじさん>だと思っている人が多い。
しかしこうして部屋の話なんかをしている姿を見ると、間違えてしまうのも無理ないかな、なんて思ったりもする。
「なんだか暑いですね」
言って初夢さんは眉尻を下げて笑った。
「昨日、一昨日は涼しいくらいだったのですがねえ」
桑納さんが襟をぱたぱたさせる。
トランクを入り口に置いたまま、初夢さんが寄って来た。
「お、将棋かね」
「挟み将棋です」
「しなりさんはなかなか、お強いですよ」
「強いですか」
「…手加減されてます」
そんな会話。
実際、今のところ二勝一敗であたしが勝ち越してはいたけれど、手加減は、されていると思った。
桑納さんは駒を取られても、それほど悔しそうでないし、それよりは吸いかけの煙草の方に興味があるようだったのだ。
「そろそろ終いにしましょうか」
煙草を消して、桑納さんは言った。
部屋へ荷物を置いてくるという初夢さんに、あたしはついてゆくことになった。
桑納さんから鍵を預かって三階へと歩く。薄い緑色の絨毯は、見るからに古い。
けれど掃除は行き届いているようで、すっきりしていた。
「しなり、ごはん食べた?」
道すがら初夢さんが尋ねてくる。
「うん、さっき桑納さんと一緒に。お弁当」
「そうかあ」
「初夢さん、トオマワリと食べたんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけどさ」
何故だか初夢さんは暗い顔をした。
「どうしたの」
「あいつと二人きりで食事すると、暗いのよ、なんか」
「へえ、意外だ」
「なんかすごい勢いで食べるから、食べてると話し掛けづらいしさ」
判ってた筈なんだけどね、と彼女は軽くため息をつく。
「毎回目を覚ますと、一年経ったんだし、しげるのそういうところ、もしかしたら治ってるかも、って思っちゃうのよ。あきらめが悪いのね、わたし」
達観したような言い方に、あたしは思わず笑ってしまった。
笑いながら、でもこの発言は少しきわどいぞ、と思った。
「だってさ、わたしの実感としてはさ」
「うん」
「鉄ペリカンの脳味噌の代わりになってから、まだ何ヶ月かしか経ってないわけですよ」
「…うん」
「まだ今ひとつ、慣れないのよね。目を開けていきなり、ハイ前回あなたが眠りにつく前から十四ヶ月と二十三日が過ぎましたあ、なんて言われてもさ」
「……うん」
「そりゃさ、周りの人が歳を取ってくのは、判るわよ。もうあの頃から何十年か経ったんだな、ってのは理解してますよ。…でも、肝心なところでやっぱりどこか、時間の感覚は、ずれてるのだわね」
ちょっと時代がかった言い方でため息をついて、初夢さんは髪を振った。
「わたしは、やっぱり外の世界の変わりようを見て、それで実感するしかないわけなのよ。おお、あの映画のパート2がもう出来ている、とか、そういうのでさ」
ふう、と息をついて初夢さんは続ける。
「で、いつも、しげるに会うわけよ。でも、あいつ最近、…最近って言っても、五年とか六年とかなんでしょうけど、全然進歩がないのよ。顔ばっかり老けてく一方でさ、時々いやになるわけよ」
「初夢さん」
「何?」
あたしは部屋の鍵を開けながら彼女の顔を覗き込んだ。
「お酒とか、飲んだでしょう」
「…うん。ビール一缶だけ」
少し間を開けて、初夢さんは頷いた。
酔っ払っているというわけではないのだろうが、なんだか吐き出すみたいにして喋っている感じだった。
「でもさ、しなりだって煙草吸うじゃない」
「いや、まあ、別に責めてるわけじゃないけど」
「管制からここまで歩いてくるときに汗かいて、まわっちゃったのよ」
言い訳みたいに言って部屋に滑り込み、窓をがらがら開けて、初夢さんはまた大きく息をついた。
暑いし、着替えるか、と初夢さんは宣言してカーテンを閉めた。
しゃ、と涼しい音が響く。
外出てるね、と行こうとするあたしを、彼女は呼び止める。
「ごめん、行く前に背中、ファスナー下ろしてくれる?」
「いいよ」
近付いてワンピースの背中のファスナーをおろすと、肩甲骨の間の背骨の上に、金属の円盤が見えた。それは、にぎりこぶしより少し大きいくらいの楕円形で、ぴったりと背中の真中に張り付いていた。
「あ」
びっくりして、思わず手が止まってしまう。
それは、正直な感想を言ってしまえば、大きな鱗のように見えた。
初夢さんの白い背中にあるそれは、強烈な違和感があった。
「どうした?」
首をこっちに向ける初夢さんは、あたしの顔を見てそれの存在を思い出したようだった。
「ああ、それね」
こともなげに初夢さんは言った。
「鉄ペリカンと接続する時のジャックの、蓋」
「ええと」
「ちょっとびっくりしたでしょう」
「…すごくびっくりした」
半分鸚鵡返しに返してあたしはもう一度それを眺めた。
言われると、たしかに蓋と呼ぶのが正しいようにも見えた。
「自分で見えないから、普段あんまり気にならないんだけど」
「そうなの?」
「うん。でも背中の開いた服とか着られないから、不便といえば不便だわ」
その蓋を取ると背骨まで穴が開いてるのよう、と子供を脅かすような口調で初夢さんは笑う。
何と返事をしていいのか判らないまま、あたしはとりあえず、もう少しファスナーを下げた。
初夢さんが背中に手を回す。
袖を抜きながら彼女は顔を向けてこっちを見た。
「触ってみる?」
「いや、いいよ」
喋っているうちにうっかり外に出てゆくタイミングを逃した。
目をそらし、なるべく見ないように背中を向ける。
「しなり、昨日大変だったんだって?」
しゃ、しゃ、と布のずれる音に合わせて初夢さんが言った。
まるで、雨の日に傘を忘れたことを話すような、気軽な口調だった。
どきり、としてあたしは口篭もってしまう。
後悔しているだけでは仕方がない、という程度まで気持ちは整理できていたが、やはりまだ、話せる自信はなかった。
「や、その」
「しげるから聞いたよ、大体の事は」
トオマワリがもう話していたというのが意外で、あたしは顔を上げた。思わず振り向きそうになって、寸前で止す。
「…大変だったわね」
返事が出来なくて黙っていると、初夢さんはそのままの口調で続けた。
「あとで、わたしもヒューヴのお見舞いに行くよ」
「…うん」
とりあえず返事だけをした。
そして、初夢さんを羨ましいと思った。初夢さんは色々なことを、なんでもない風に言える。
それは、羨ましいことだった。
「ねえ、しなり、この後、暇?」
着替えが終わったらしく、カーテンを開ける音がした。
振り向くと、初夢さんは随分と夏らしい格好になっていた。
襟のあるチェックのシャツにハーフパンツで、さっきまでとは随分感じが違って見えた。
似合う、と素直に誉めると彼女は照れたように笑う。
まあそれはありがとう、と初夢さんはくるくると髪をまとめ、涼しそうな顔をした。
「それより暇だったら、この後どこか連れてってほしいんだけど」
「…映画とか」
声を揃えて言って、あたしたちは少し笑った。
去年の暮れにも、初夢さんは同じことを言ったっけ。
いいよ、と頷いてあたしは頭の中で今上映中の映画を思い浮かべた。
階下で桑納さんにリフトバギーの鍵を借りて、あたしたちは管制塔に向かった。
かかりの悪いエンジンを何度も試しながら、なんだか、今日はドックと管制を往復ばかりしている、とちらりと思った。
七度目の挑戦でようやくエンジンのかかったリフトバギーのハンドルをぐるぐると回す。
二階の窓からこっちを見ている桑納さんに手を振って、あたしはギアを入れ替えた。
「映画ねえ」
運転しながら思わず呟くと、助手席で初夢さんが宣言した。
「是非二人で行こう」
「…トオマワリは?誘ってあげないの?」
「あいつは、ちょっと当分いいの。それに、仕事でしょ」
「もしかして喧嘩した?」
「べつにい」
あたしは肩をすくめてそれ以上聞かないようにした。
話したければ話すだろうし、話したくなければ話さないだろう。
初夢さんは座りなおして、まっすぐにあたしの顔を見た。
「もし、ごはん食べてる最中に<お前とはセックスできない>って言われたらどう思う?」
「…はい?」
突飛な言葉に、あたしは素で返事をしてしまった。
冗談なのか本気なのか判らない、初夢さんの顔。
あたしはしばらく黙り、それから聞き返した。
「トオマワリに言われたの?」
「うん。前後は少しはしょるけど」
物凄く返事に困った。あたしはううううう、と唸り、苦し紛れな返事をする。
「…とりあえず、困るかなあ」
「そうかあ」
初夢さんはひどく感慨深い調子で言って、帽子を押さえた。
まだ酔っ払っているのだろうか、とちらりと思うけれどやっぱり、そういうことは口に出さない。
初夢さんは時々何を考えているのか、謎だ、と思った。
彼女の言ったことを考えながら発着路に目を向けると、見慣れない器体が一器、光を受けて銀色に輝いているのが見えた。
ここからそれほど遠い距離ではない。いつ寄航したのだろう。気付かなかった。
大きさは、ヒューヴと同じくらいか、もしかしたらヒューヴよりももっと小さいかもしれない。
バイザーを付けた、なんだか機械的な印象の器体だった。
イメージとしては二十分の一に縮めた鉄ペリカンのようでもある。
あたしは、バギーのハンドルを握りながら、その器体を眺めていた。
別に魅力的ではなかったが、初めて見るタイプの飛行器ではあった。
それはまるで地べたにへたばっているように、バイザーを付けた頭を地面すれすれまで低く構えていた。
その畳まれた羽根は、濡れているのか、つやつやと光を反射している。
一体それが、なんという鳥をベースにしたものなのか、見当もつかなかった。
時折、その頭がひょろりと動くのを見なければ、生体ベースであることすら疑ってしまうような、とても機械的な印象の器体。
戦闘器と言われたら、そうかもしれない。見たところ火器は積んでいないようだが、最近の器体は見ただけでは判らない。
「…なんだろ」
あたしはその飛行器から目を剥がし、それきり口をつぐんでバギーを走らせた。